Black and Black 33

「……もういいですか?」

「はっ、はひ! あ、ありがとうございます」 少しひんやりした手を放すと、彼女は風呂でのぼせたみたいに真っ赤になって、キャーキャー言いながら友人たちのところまで戻っていった。無意味に浮かれた梨葉?を歓迎して騒いでいる光景から視線をはずして、陽響はテーブルに頬杖を突いた。

「なんなんだ、ありゃ」 とぼやく陽響の顔を下から覗きこんで、美音が意味ありげに笑う。

「もてもてだね、ひーちゃん」

「……はぁ?」

 意味がわからずに顰めっ面を見せる陽響に、美音が小さく笑いかけた。吸血鬼は今のところ別段にすることが無いのか、厨房の入口のところからなにやら生温かい視線をこちらに投げかけていた。

 やめろ、そんな目で見るな。なんだ、その小学生のカップルを見守るかの様なまったりした生温かい目は。

「ほら、ひーちゃんハンサムだし」

「意味がわからん」 美音の言葉が、いったいさっきの彼女の行動とどうつながるのだ? 派手な容姿の自覚は――まあ、無くもないが。

「それに、美人さんだし」

「ますますわからん」 そう返事を返して、陽響は深々と嘆息した。

「もう、ひーちゃんは女の子の気持ちがまったくわかってないよ。赤点だよ」

 という言い草に、かたわらの幼馴染に向き直る。

「赤点なのは、高校時代の英語と数学と理科総合Aのテストだろう。ただしお・ま・えのだけどな――なんなら取った枚数と点数を、教科ごとに挙げ連ねてやろうか?」

「あぅ、ごめんなさい」 連休を補習に費やした嫌な思い出をえぐり出されて、美音が白旗を揚げる。

「ったく、腹が減ってるんだから余計なことに頭を使わせるなよ」

「納豆キャンディ――」

「要らんと言ってる」 ポケットを探ろうとした美音を制して、陽響は彼女の頭をむんずと鷲掴みにした。

「というかおまえ、自分が要らないものを俺に喰わせようとしてないか?」

「あうぅ、だっておいしくないんだよ」

「なおさらだろうが――そもそも買うな、そんなもん」 左右からこめかみに当てた拳をぐりぐりされて、美音がじたばたと暴れ出した。

「痛い痛い痛い! やめてよひーちゃん!」

「うるせ」

「やめて、やめてよー。うめぼし痛いんだよぉー」

「変なものを食べさせようとするからだ」

 あまり目立つのも考え物なので――この時点ですでに十分目立ちまくっている、店の客の入りが多かったら間違い無く注目の的、否むしろ晒し者だということに、彼は気づいていなかった――、万力の様に締めつけていた両拳を緩めて、痛がる美音を解放してやる。

「うう、酷いよ」 こめかみを押さえて涙目で抗議してくる幼馴染みを黙殺していると、いい匂いが漂ってきた。その匂いにきゅう、と腹が鳴る。

「……あはは、お腹すいたね」 鳴ったのは美音の腹時計らしい。はにかんだ笑みをこぼす美音から視線をはずして再びテーブルに頬杖を突き、陽響は小さく同意した。

「そうだな」

「環はお腹すかせてないかな」

「大丈夫だと思うぞ。携行食を大量に買い込んでいたみたいだし、発明に夢中でも食事を忘れる様な子じゃないからな」 栄養状態は心配だがな――胸中でつぶやいてから、陽響は溜め息をついた。

 

   *

 

「さて――」 工事現場の土埃だらけの地面に折り重なる様にして倒れているヤクザどもに向かって、アルカードは口を開いた。

「さっきも言った通り、相手に危害を加えようとしたのならば、自分がやり返されても当然文句は言えん。そこのところは、わきまえているよな?」

 両脚の骨を粉砕されて立つことも出来ないまま棄てられた犬の様なおびえた表情でこちらを見上げていた男が、アルカードに襟首を掴まれて短い悲鳴をあげた。それを無視して、男の体をほかの男たちの体の上に重ねる様にして放り出す。

 借り物のレザージャケットの袖をめくり返して、アルカードは左の下膊をあらわにした。

 ごろつきどもの中でまだ意識を保っている者数人が、アルカードの左腕の中から青い液体が充填されたカプセルの様なものがせり出してくるのを、明らかに異質なモノに対する恐怖をこめて見つめている――その視線になんの感慨も覚えずに、アルカードは缶コーヒーくらいのサイズのカプセルを腕から引き抜いた。

「これは視床下部だけ破壊されて死体が残った喰屍鬼グールや、そもそも死体が消失しない敵の屍を始末するためのものでね」 言いながら、アルカードはカプセルのキャップをはずした。

 言っている言葉の意味は半分も理解出来なかっただろうが、それがアルカードが言うところの『死体の始末』に関する話だということだけは理解出来たのか、男たちの表情に恐怖がにじむ。

 アルカードはにっこりと笑いかけると、キャップをはずしたカプセルを傾けて、中の青い蛍光色の液体を男たちの体に振り撒いた。

 途端、ジュウジュウという鉄板の上で水が沸騰する様な音とともに、まだ意識を保っていた者たちの凄絶な絶叫があがる――青白く光って見える液体が男たちの体に附着するや否や、あっという間に衣服を溶かして皮膚を冒し、筋肉を、骨格を、内臓を、煙を立てて溶解させ始めたのだ。

 上にいた者たちの肉体が溶け崩れ、その溶けた液体が触れるなり、下にいた者たちの肉体も硫酸でもかけられたかの様に溶けてゆく。こぼれ落ちた液体の一部が地面に滴り落ちるが、液体の触れた地面や鉄骨はまったく溶ける様子が無い。

「あぁぁ! あああああ!」 もう言語としてなにかを訴える余裕も無いのか、ヤクザたちがなにかを叫びながら消失してゆく。

「生身の人間相手には、やりすぎな気もするが――ま、仕掛けてきたのは貴様らだ。人間であろうとなかろうと、俺には関係無い――攻撃を仕掛けてきたのなら、降りかかる火の粉は振り払うだけだ。手を出していいかどうかの区別もつかん自分たちの白痴を、せいぜい地獄で悔やめ」

 一番下で一番情けない絶叫をあげている兄貴分の体が、電撃に撃たれた様にびくりと硬直した――上に載っていた数人分の体を溶かしてなお溶解力を保っていた溶解液が、とうとう兄貴分の体にまで届いたのだろう。

「あぁぁぁぁぁ! あぁぁぁ!」 情けない絶叫をあげる兄貴分の叫び声が、唐突に止まった。溶解液による浸蝕が心臓か肺に届いたのだろう、ぐったりと全身を弛緩させた兄貴分の口の端から血が伝い落ち、そのまま溶解液に蝕まれて溶け崩れてゆく。

 やがて男たちの死体は、痕跡もほとんど残さずに消滅した――それを見届けて、アルカードは鼻を鳴らした。

 溶解液の成分はまだ残っているが、大気中の成分と結合して数時間で無害になる。残った液体は放っておいても問題無いだろう――もうこの工事現場の本日の作業は終わっている。明日作業員たちが再び出勤してくるころには、溶解液はすでに乾燥して痕跡も無くなっているだろう。

 アルカードは工事現場の隅に置かれた、使用済みの番線や金属の切れ端が投棄されたコンテナに足を向けた。左手でカプセルをぐしゃぐしゃに握り潰し、それをコンテナの中に放り込む。あとは業者が仕事をしてくれるのを待てばいい――仮に発見しても、それがなんなのかわかる者はいないだろう。

 その時点で、アルカードは構築した結界の魔術式への魔力供給を断ち切った。同時に結界に遮断されていた周囲の喧騒が戻ってくる。

 アルカードは工事現場の入口のところにうち棄てられていた買い物の袋を拾い上げ、ポンポンと袋についたごみを手で払った。まったく、人の買い物をずいぶんと無碍に扱ってくれる。

 溜め息をついて、アルカードはパーティションの通用口を抜けて工事現場の外に出た。

 

   *

 

「アルちゃーん。パイ包みとサラダ、パスタが出来たわよ」

 イレアナにそう声を掛けられて、アルカードは厨房のほうに引き返した。いい加減ちゃんづけはやめてほしいが。

 言っても聞いてくれないのでその点に関してはあきらめて、厨房のカウンターに置かれた料理を受け取る。湯気の立つ皿を見下ろして、アルカードは眉をひそめた。あのふたり、いったいどれだけ食べる気なんだ?

 ふたりのいるテーブルのほうに歩いていきながら、ふたりの様子を観察する――空社陽響はおそらく普通の人間ではない。

 人間がベースになっているが、なにか混じっている。

 あの少女のほうは、正確には生きてはいない――あれは本来、霊体のみの存在だ。肉体を持ってはいるが、自力で受肉マテリアライズしたものではない様に見える。獲得した力こそ強大だが、それを使いこなす術をろくに身につけていない様子だった。

 ベースになっているのは、おそらく人間の魂――肉体、というかある意味筺体に近いが、人間の魂を新たに用意した肉体に封入して、神霊力を附与しているのか?

 月之瀬の親族――綺堂とかいったか。あの娘の言う通りなら、本来あれは高位、もしくは中位の神霊だ。鰻重で言えば中の上というところか。

 おそらく一度死んだ――あるいは殺された――人間の魂に霊格を与えて、依り代としての肉体に封入し、現世に干渉出来る様にしているのだろう。

 つまりあれが顕界派遣執行冥官、ズボラ神どもの使い走りということなのだろう。

 つまり橘美音こそが、逆神を滅ぼすための神々の尖兵だということになるのだが、アルカードはさほど彼女を脅威だと看做していなかった。

 魔力そのものは極めて大きい――正面切って魔力戦を挑めば、技量が互角であればアルカードでも苦戦を強いられるだろう。敗北することは無いにしても、相当梃子摺る、場合によってはアルカード自身も重傷を負うことになるだろう。

 だが、魔力は散逸気味で集中も増幅も出来ていない。魔力に頼った戦闘技能は常に魔力を圧縮し、その反動で増幅しながら放出する必要があるので――グリーンウッドいわく、『常に弓弦を引きっぱなし』――、高位の技術者ほど魔力の動揺が小さく安定する傾向がある。彼女の魔力はまるで煙か波立つ水面の様に常に揺らいでいて、戦闘向きの状態には程遠い。

 不意討ちを仕掛けるなど夢のまた夢、あれだけ常に揺らいでいては存在維持にこそ支障は無いものの、戦闘準備のために魔力を安定させるだけでも数分かかるし、接近にも簡単に気づかれる――実際、陽響のほうは本条邸のあたりまで気づかなかったが、美音の魔力は五キロ先からでもあっさり気づけてしまうほどに気配を撒き散らしている。

 半袖のブラウスにチェックのミニスカート、天然のものらしいブラウンの髪をオレンジ色のシュシュでまとめている。普通に女の子らしい趣味の可愛い服だったが、妙なのは服のボタンやアクセサリーといった金物が、ことごとく防御術式を織り込んだ護符に造り替えられていることだった。

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