Black and Black 16
2
「……おか……さん……」
「……め、まだ……ないよ」
覚醒までに何時間の間があったのかは、わからない――身動ぎもしないまま自覚したのは、姿勢が変わっているということだった。
ほんの少しずつ、全身を緊張させてゆく――四肢、正確には左腕を除く三肢の指の末端まで感覚が行き届いている。左腕に義肢として接合した
動脈の損傷が治癒し肺の損傷もある程度回復したのだろう、右肺がほぼ全損状態だったことが原因の息苦しさもある程度収まり、普通に呼吸する程度なら問題無い。顔の痛みは――まあこれは残っている。
どこか壁越しの話し声の様にかすかに鼓膜をくすぐるだけだった話し声は、今は明確に認識出来る。
しかし、ここはどこだ?
目を開けていないのでさしたる情報はわからないが、どこかに寝かされていることはわかる――シーツかなにかを掛けられているのか、体の上に布がかぶせられていた。顔には掛けられていないので、死体と勘違いされているわけではなさそうだが。
甲冑は着ていない――とはいえ拘束されていないところをみると、知らぬ間に追手の手に落ちたわけではなさそうだが。
左腕に意識を向けると、それまで左腕の傘徳の内部に沈み込んでいた大ぶりのフォールディングナイフが手首のあたりに浮かび上がった。
おそらく、シチューの具が浮いた様な絵面に見えることだろう――手首の表面から半ばはみ出した状態のまま移動して、フォールディングナイフが手の中に収まる。
体にかけられた布の上からは見えないはずだ――特注品の格闘戦用のフォールディングナイフは
さて、次は周囲の索敵だが――
温度の変化と分布から周囲の状況を検索するアルカードの
周囲にそれ以外の熱源は無い――照明器具が無いか、あるいは電気が入っていない。必要無いのかもしれない――瞼越しでも、周囲が明るいことは感じられる。
とにかく、まずは状況を把握することだ。胸中でつぶやいて、アルカードは
今いる場所は五メートル四方ほどの室内だ。床は畳張り、四畳間でほぼ正方形。一面は壁だが、残る三面の内に面は襖、もう一面は障子になっている。障子は閉められているが紙の向こうに光が透けて見え、庭に面しているであろうことが窺えた。
建物は木造。スキャンした限りでは、今時珍しい純和風の日本家屋だ。
アルカードは部屋の中央に敷かれた布団に横になり、ブランケットが体に掛けられていた。
左腕そのものがセンサーになっているため、左腕を通気性の悪い皮革や金属製の手甲で覆っていると検索精度は極端に低下する――左腕全体をコンクリートで固めでもしない限りまったく『見えなく』なるということは無いのだが、センサーの反応にかなりの
だが今は体に掛けられたブランケットが薄いためか、
感触からすると上半身は脱がせられている様だが、体にブランケットがかけられているために
頭上から俯瞰する様な視点の
外気温はセルシウス氏に直すとちょうど十八度――壁際の空調装置が稼働して、屋内外を隔てるものが障子しかないためにすぐに温度の上昇する室内にせっせと冷風を送り込んでいる。
まだ明るい室内で、特に監禁や拘束はされていない。誰かに話しかけていたことから察するに、おそらく建物内にはほかにも誰かいるのだろう。だが――少なくともこの場所が直接見える位置にはいない。襖はきちんと閉められているし、そのために
装備品がどこにあるのかは今の時点では判然としないが、そう離れた場所ではあるまい。
当面の状況査定を終えたところで、アルカードは行動を起こした。
フォールディングナイフを握り込んで、アルカードは体にかけられたブランケットを撥ね退ける様にして跳ね起きた――すぐ横に座り込んで彼の顔を覗き込んでいた女が、突然の反応にびっくりして上体をのけぞらせる。
反応出来たのはたいしたものだ――その点に関しては素直に感心しながら、アルカードは女の左手首を右手で掴んで引き寄せた。膝の上にうつ伏せに引きずり倒す様にして左肘で背中を抑え込み、首元に振り出したナイフの刃を押しつける。
「ちょ、なに!?」 自分の首元に鋼の刃が押し当てられていることに気づかないまま暴れる女の黄色い声にも、こちらの様子を窺うあどけなさの残った横顔にもまったく覚えが無いことに気づいて、アルカードは眉をひそめた。
「ちょっと、放してよ!」 抗議する彼女の首筋から離したナイフを再び腕の内部に沈み込ませ、アルカードは右手で掴んだままになっていた彼女の左手首を放した。
女――といっても、まだ十代後半の少女の様に見えたが――はぷりぷりしながらアルカードの膝の上から身を起こして、
「どういうつもりよ、一晩徹夜して様子を見てたっていうのに!」
抗議してくる少女を、じっと観察する。中欧系に混血の進んだ金髪碧眼。清潔感のある金髪は三つ編みにして肩から垂らしている。服装はグレーの野暮ったいトレーナーにジーンズという、いささか季節感の欠如した部屋着だった。
「どうした、うるさいな――お、目が醒めたのか」
開けっ放しになった古間の向こうから姿を見せたのは、こちらも碧眼の外国人だった――重ねた苦労の滲み出た、皺の多い顔の初老の男性だ。
「聞いてよ父さん、この人、起きるなりわたしを――」
「わかった、わかった――ちょっと休んでなさい、マリツィカ」 そう言って少女――彼の娘にしては父親が年をとっているから、結婚が遅くなったか子沢山の末っ子かのどちらかなのだろう――を適当に下がらせて、男性はそのままアルカードの寝床のそばに置いてあった
アルカードが寝かされていたのは、日本の寝具――布団だ。あらためて周囲を観察してみると、見るからに外国人のこの男性には似つかわしくない畳張りの和室だった。
「ん? こういう建築は珍しいか、若いの?」
男性がそう声をかけてきたので、アルカードはそちらに視線を戻した。
「傷はどうだね? 医者も呼べなんだから、たいした手当も出来てないが。まあ骨折とかは無い様だし、顔の火傷が一番酷かったがな」
という彼の言葉から察するに、脇に刺し込まれた短剣の傷は、ある程度治癒していたのだろう――本人が意識を失っている場合、吸血鬼の肉体は生命維持に必要な器官から優先して治そうとする傾向がある。その意味では切断された腋下動脈と破壊された肺は、最優先で治癒すべき器官のはずだ。
「ふむ、日本語はしゃべれないのかな……それともただ、無口なだけか?」 英語はしゃべれんし、どうしたものかな――アルカードが口を利かないからか、男性は天井を見上げて聞き覚えのある言語でそうぼやいた。
「……モルダヴィア人か」
老人の言葉に残った訛りを読み取ってアルカードが低いつぶやきを漏らすと、その内容を汲み取ってか男性は口元を緩め、
「懐かしいな。妻以外が話すネイティブのルーマニア語なんぞ、何年ぶりに聞いただろう」 男性が穏やかに口にしたモルダヴィアのほうの訛りのあるルーマニア語に、アルカードは眉をひそめた。
「ん? わしの喋り方が変かね? わしも同郷だよ、若いの――ヴランチャ県の小さな村の生まれだ。おまえさんは?」 ワラキア地方と県境を接するモルダヴィアの一県の名前を挙げ、男性がそう言ってくる。
「……ワラキア。ブカレシュティの近郊だ」 抑えた声でそう答えると、老人は座布団の上で胡坐をかいて呵々と笑った。
「ブカレストの近辺なら、イルフォヴあたりかね? 近場の生まれというわけでもないのは残念だな、若いの」 老人はそう言ってからあらためてこちらに視線を据え、先ほどから周りを見回しているアルカードの視線を捉えて、
「おまえさんの鎧や銃を探しとるのかね」
体を強張らせるアルカードに、老人は襖越しに隣の部屋を指差した。
「隣の部屋にある」 老人はそう言ってから立ち上がり、障子に手をかけていっぱいに開け放った。石燈籠と瓢箪型の池、植わった桜の木の向こう側、白漆喰の塀の内側に建てられた土蔵を指差して、
「覚えとるかね? おまえさん、そこの土蔵の壁と塀の隙間で引っくり返っとったんだ」 老人はそう言ってから障子を閉め、
「あの銃や鎧、本物だろう? おまえさん、全身傷だらけだったしな。くそ重たいのを引っ張り出して手当もしたんだから、感謝してもらいたいもんだよ」
「……どういうつもりだ」 抑揚の無い抑えた声でそう問いかけると、老人はうん?と首をかしげた。
「なにがだね?」
問い返されて、アルカードは小さく息を吐いた。
「
「あんなもんがあったら、なおのこと周りには言えんだろう」
アルカードはしばらく押し黙ってから、
「俺には、貴方が狂っているとしか思えない」
「ずいぶんな言い草だな」 肩をすくめる男性に、アルカードは続けた。
「俺が貴方の立場なら、警察に通報はしても、俺を助けたりはしないだろう」 そう言って、アルカードは立ち上がろうと身じろぎした。立ち上がりかけたところで、全身に走った激痛に声も出せないままその場に蹲る。
悶絶しているアルカードに、老人が声をかけてくる。
「無理はよせ」
「……た?」 口元に手を当てて激しく咳き込みながら痛みの中で絞り出した声は、うまく聞き取れなかったらしい――口元に耳を近づけてくる老人に、
「あの大雨から何時間経っている?」
「こないだの大雨かね? 三日だ。おまえさんが隙間にはさまっとるのを見つけて二日。もしかして、わしらが見つけるまでまる一日あそこで寝とったのかね」
アルカードはその場でごろりと転がって仰向けになると、そのまま荒い息をつきながら左手を顔の前に翳した。
血まみれになった掌を確認して、顔を顰める――肺の損傷が治りきっていないところに急に激しく動いたせいか、毛細血管が再び破裂したらしい。否、引き裂かれた腋下動脈が再度破れていないだけ、ましとすべきか――
「おい、その手――」 何事か言いかけた老人の言葉を手で制し、アルカードは再び上体を起こした。
甲冑は脱がされ、上体は包帯だらけになっている。顔は左半分を覆う様にガーゼが当てられている感触があった。アルカードは畳に手を突いて立ち上がると、壁に手を突いて体を支えながら、先ほど男性が示した装備が置いてあるという部屋とこの部屋とを隔てる襖に向かって歩き出した。
「世話になった」 そう言って男性のかたわらを通り過ぎたとき、アルカードは強烈な立ちくらみに囚われてその場に崩れ落ちた。
「まだ無理だろう、若いの」 男性がアルカードの体を支えようとして――百キロを軽く越える体重を持ち上げることも出来ずに難儀しながら、
「おまえさんの事情は知らんが、もうしばらく休まないと無理だ――今のままで動こうとすれば、本当に死ぬぞ」
「ば、か、な――」
抑えた声でそう返事をして、アルカードは男性の手を押し戻した。この老人の寛容は、アルカードの理解を逸している。
傷ついた者を救えるのは讃えられるべきことだが、明らかに厄介事を持ってくる相手にかかわるのはただの愚か者だ。
「俺の装備を見たのなら、俺がまっとうな人生を送っているわけではないことくらいわかるだろう――さっさと放り出すのが貴方たちのためだ」
「それも好かんな、若いの。一回助けてしまったからな」 苦笑気味にそう言って、男性はアルカードを助け起こそうと苦労しながら、
「とにかく今は休んでおけ。せっかく助けたのに途中で死なれても後味が悪い。ある程度不自由が無くなったら、あとは好きにすればいい。いいな?」
その言葉に返事をする余力も、アルカードには残っていなかった。思った以上に消耗が激しすぎる。
朦朧とする意識を繋ぎ止めることも出来ず、アルカードは再び昏倒した。
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