Black and Black 4
*
昨夜の集中豪雨は、関東圏各地でかなりの被害を出しているらしい――土砂崩れが起きた地域もあるし、場合によってはその泥が家に流れ込んだところもあるらしい。
ショベルカーを自在に操って土砂を撤去する作業員を背に、家の軒先が土砂に呑み込まれた六十歳くらいのおじさんがテレビのインタビューに答えている。たまたま帰省していたのか、垢抜けた格好の若い女性に抱っこされた三歳くらいの男の子が玄関先で泣きわめいているのが画面の端に映っていた。
ガチャリという音に振り返ると、ちょうどアルカードが入ってきたところだった――先程とは頭の包帯の巻き方が変わっている。先程までに比べるとずいぶん手早く、というより単に乱雑な巻き方をされている。
アルカードは昨夜の豪雨の被害で土砂崩れを起こした山道の様子を中継しているテレビ画面に一瞬視線を向けてから、興味を無くしたのかなにも言わないままテーブルの向かいで席に着いた。
天板の上に置きっぱなしになっていたハンディターミナルに手を伸ばし、手前に引き寄せる――貼られたシールの手書きの管理番号から察するに、普段はフィオレンティーナが使っているものの様だが。
「どうしたんですか、その包帯」 リディアが声をかけると、アルカードは包帯の上からこめかみを指でこすって、
「さっき汚れたから替えた」 と答えたそばから、包帯がほどけ落ちる――どうも急いで適当に巻いたせいで巻きが緩いらしい。事務室には鏡が無いので巻き直すことも出来ないからだろう、面倒臭くなってきたのか包帯をほどいてゴミ箱に投げ込もうとするアルカードを、リディアはあわてて制した。
「よかったらわたしがやりますよ」
アルカードは引き剥がした包帯とリディアを見比べてから、
「……じゃあ、頼む」
アルカードが差し出した包帯を受け取って、引っかかっていた留め具をはずし、リディアは包帯をくるくると巻き取った――ひととおり巻き終わったところで席を立ち、アルカードのかたわらに歩み寄る。
ハンディターミナルをいじっていたアルカードが、いったん作業を止めて正面を向く様に頭の角度を変えた。リディアがこめかみに包帯の端末を当てると、手を翳してそこを押さえてくる。髪が少し湿っている――汚れた理由はパオラから聞いて知っている。コーヒーの匂いが強かったから、シャワーでも浴びたのだろう――衣服に染み込んだコーヒーが乾くと、すごく臭くなるし。
ガーゼに触れない様に注意して、アルカードの前髪をそっと掻き上げながら包帯を額に巻きつける――後頭部に回して端末部分を上から押さえつけたところで少し強めに引いてから、再び前髪に手を伸ばす。アルカードが自分で前髪を掻き上げ、そのまま手で押さえたので、リディアは先程とは少し位置をずらす様にして包帯を巻きつけた。巻きつけながらテーブルの上に置かれたハンディターミナルに視線を向け、
「どうしたんですか、それ」
「お嬢さんが持ってきた――動かなくなったらしい」 そう答えて、アルカードがハンディターミナルの電源スイッチがあるあたりを二、三回動かしてみせる。液晶がまったく反応しない――電池切れかとも思ったが、そんなことはフィオレンティーナも真っ先に考えるはずだ。バッテリーを交換しても動かないから、フィオレンティーナもアルカードに頼ったのだろう。
「どこか壊れたんでしょうか」
「たぶん、な――これ、俺が使ってる機械を除けばこの店で一番古いやつだから。いい加減新しいものを買うべきかもしれないが、個人経営の店に最新のPOSをわざわざ用意するのもな」
「POSって?」 耳慣れない単語にそう尋ね返すと、
「point of sale system、販売時点情報管理とでも訳せばいいのかね。物品販売の売上実績を単品単位で集計する経営の実務手法と、そのためのシステムのことだよ――商品名や価格、数量や日時なんかの販売実績情報を収集して、『いつ』『どの商品が』『どんな価格で』『いくつ売れたか』という売れ行き動向を経営者が把握しやすくするためのものだ。あと、売れ筋商品を自動的に発注する様なシステムの構築に使うこともある――飲食店の場合なら、よく注文される料理の食材とかね」
つまり売り上げや発注情報を電子管理するシステムなのだろう――コンピューター経由でネット管理すれば、地域ごとの売れ筋なども簡単に把握出来る様になる。
「うちにあるのはただ単にオーダーを取るだけの古いやつなんだが、最近のハンディターミナルはそのPOSと組み合わせてあるものがほとんどというかほぼ全部だ。でもセントラルキッチン(※)を採用した大型のチェーン店ならともかく、個人経営のちっこい店でそこまで御大層なPOSなんか役に立たないしな。迷いどころだ――経理担当としては頭が痛いよ」
セントラルキッチン――中央の厨房? 手を止めないまま首をかしげるリディアに、アルカードが再度口を開く。
「集中調理施設といって――簡単に言えば、あとは加熱したり盛りつけるだけの状態まで調理したものを出荷する施設のことかな。飲食店とか、病院とか学校の給食とか――場合によっては盛りつけまで済んでることもある。例えばマク●ナルドだと、中にはさむハンバーグはあとは焼くだけの状態で納品されるんだが、つまりその焼くだけの状態にして冷凍出荷する施設のことだな」
「ああ」 それで納得して、リディアはうなずいた。
「手間の一部を省いて人員を抑えて人件費を抑えたり、調理スペースの一部を省略して、そのぶんを客用スペースにすることで増客・増益を図ったり出来る。POSと組み合わせることで効率的に管理を図れるんだが、言うまでもなくうちには無いから意味が無い」
そう説明してから、アルカードはしゃべり疲れたのかちょっと息を吐いた。
「最新式のPOSは大手の外食産業なら価値があるんだろうけどな、食材の管理から調理まで全部自店舗でやってる個人経営の店じゃPOSなんぞたいして役にも立たないしな――当時人手不足だったんで俺が自腹で導入してみたんだが、今時のやつはきっと高い」
「自腹なんですか」
「ああ。当時雇ってたパートのおばちゃんを、業務上横領でクビにしたばかりでな。事務処理が全部俺に回ってきて、給仕はマリツィカが手伝ってくれたんだが、デルチャは当時もう店の手伝いをしてなかったし、俺とマリツィカともうひとりしかいなかったんだ」
きりきり舞いに耐えかねて自腹で買った、とアルカードが付け加える。
「オウリョウって?」 知らない単語に尋ね返すと、アルカードは少しくすぐったいのか眼を細めながら、
「イタリア語でいう横領だよ――当時電話代の請求が跳ね上がっててな。調べてみたら事務処理を引き受けてたパートのおばちゃんが、北海道に進学した息子のところに毎朝店の電話で連絡してたんだ。一回アレクサンドルから警告されてもやめなかったから、クビにした」
おかげで事務処理が全部俺に回ってきて大変だった。アルカードはそう言ってから、リディアが留め具に手を伸ばしたのを見て作業がしやすい様にちょっと頭を傾けた。
「まあおかげで、表計算ソフトの扱いには慣れたけどな――仕事以外で役に立ったことが無いけど」
「仕事で役に立てば十分だと思います――あ、アルカード、ちょっとここを押さえててください」
「ん、まあそうだな」 言われるままに包帯の端末を指で押さえながらアルカードが同意したところで包帯の端末を留めて、手を離す。
「はい、終わりました」
「ああ、ありがとう」
「どういたしまして」 視線を向けて礼を言ってくるアルカードに笑顔で応えたとき、廊下に通じる扉が開いてパオラが顔を出した。
「アルカード、ちょっといいですか――」 言いかけたところで言葉を切り、彼女はアルカードとそのすぐそばに立っているリディアをまじまじと見つめてから、
「……お邪魔でした?」
「なにがだ」 冷静に突っ込んでから、アルカードが用件を促す様に適当に手を振った。
「なにかあったのか?」
「ええ、ちょっと――アンさんがアルカードに来てほしいらしくて。コンパートメントでトラブルです」
「わかった」 アルカードはうなずいて席を立ち、道を譲ったパオラのそばを通って事務所から出ていった。
それを見送ってから、パオラがリディアに視線を向ける。
「いい雰囲気だった?」
「別に。包帯を巻き直してあげてただけ」 そう答えて、リディアはテーブルの上に置いてあったテレビのリモコンに手を伸ばした――どのみちそろそろ休憩時間をオーバーしているので、仕事に戻らなければならない。テレビを消してから最後にお茶を飲んでいこうと冷蔵庫を開けながら、
「ところで、なにがあったの?」
そう聞かれて、パオラは眉間に皺を寄せた。
「どう言えばいいのかしら――コンパートメントのお客さんが、よそのコンパートメントのお客さんのところからコース料理の大皿を持ち逃げして揉めてるの」
という姉の返答に、リディアは眉間に皺を寄せた。
「……なにそれ」
†
フロアに出ると、昼食時の喧騒が押し寄せてきた――まだ十一時過ぎだが、もうそろそろ客の入りが日中のピークになる。
店の入り口とは反対側の壁際には入口からは見えない位置にパーティションで仕切られたいくつかのコンパートメントがあり、予約席として使うことがある――普段はあまり客も入らないのだが、今日は珍しく二件埋まっていた。
昨日予約が入っていないのは幸いだった――予約客がいたら、臨時休業はそれなりの修羅場になっていただろう、特にキャンセルの連絡を実際に行わなければならないアルカードが。
こちらに気づいた近所の女子大生――三渡梨葉が、こちらを指差して連れの女の子に声をかけている。聴力を抑えているので聞き取れなかったが、自分の頭を指差しているからきっと包帯のことだろう。
さて、なにがあったのやら。
胸中でつぶやいたとき、仕切りの陰から姿を見せたフィオレンティーナが露骨にほっとした表情でこちらに歩いてきた。
「どうかしたのか?」
「コンパートメントのお客さんが、別のコンパートメントからコースメニューの大皿を持ち逃げしたとかで。今アンさんが対応してるんですけど」
今ひとつ要領を得ない説明を聞きながらコンパートメントに足を向けると、なにやら言い争う声とそれを宥めるアンの声が聞こえてきた。
「アン」 アルカードが声をかけると、アンはこちらもあからさまにほっとした表情を見せた――パーティションで区画された席の入り口附近で、大皿を持った女性がふたりともともとその席にいたものらしい女性ふたりが言い争っている。
「お嬢さん、君は向こうに戻ってくれ――それと、休憩中のところ悪いがリディアもフロアに呼び出して、アンが戻るまでフロアに入ってもらってくれ」 かたわらの少女にそう言い置いて、アルカードは言い争っている女性たちに近づいた。
「どうかなさいましたか?」
「あ、店長さんですか?」 仕切りの内側から顔を出した五十代の女性がこちらに声をかけてきたので、アルカードはかぶりを振った。
「いいえ。ですがフロアの全責任は私に任されておりますので」
そう答えると、言い争っていた女性のうち大皿を取られたものらしい女性が、
「この人たちがわたしたちのところから、コース料理の大皿を持っていこうとしてるんです」
大皿を持ったほうの女性に視線を向けると、
「急に地元から友達が来て、予約より人数が増えたのよ。料理が足りないから、それでほかの席からもらおうと思って」 一瞬理解出来ずに眉をひそめてから、アルカードは尋ね返した。
「コース料理の人数を増やすことは、お話しいただければ承れますが」
「でもそれだと余計にお金かかるでしょ?」
「もちろん人数ぶん割増しになります」
「ほかのところからもらえばただじゃない」
「いやいや、なんで縁もゆかりも無い貴女たちに」 料理を取られた女性のひとりが抗議すると、
「だって人数より多そうだし。残すの勿体無いし」
要するにたかり行為のたぐいらしい――そう判断して、アルカードは状況を見極めるために両者を見比べた。
もうひとつのコンパートメントから顔を出した別な女性が、
「ねえ、まだ?」
「この人たちケチで」 その言い草に殴りかからんばかりの表情を見せている女性たちを、アルカードは宥める様に手を挙げた。
※……
外食産業におけるセントラルキッチンは最終的な加熱をするだけにした食材を、店側で保存出来る様に冷凍もしくは低温冷蔵の状態で出荷するのが一般的です。
セントラルキッチンは供給能力や供給速度、それに加えてサービスの一元化や価格の一律化が図り易いというメリットがあるのですが、この点において大規模なセントラルキッチンを全国各地に複数用意することで大量かつ迅速な供給を可能にしたのがケンタッキーやマクドナルド、びっくりドンキーといった大型チェーン店です。
そのまま供給するために冷蔵冷凍設備を持たないのがいわゆる給食センターで、こちらもセントラルキッチンの一形態だと言えます。
また、冷蔵冷凍による消費期限延長を行わないため消費期限が短くその日のうちにすべて消費されてしまう学校向け給食センターの場合、外食産業のセントラルキッチンに比べて配送範囲がかなり狭いそうです。
なお、北海道千歳市のJR千歳駅が入っている建物には以前はバーミヤンが入っていたのですが、バーミヤンはセントラルキッチンを北海道に持たないために採算が合わず、撤退して代わりにガストが入居したそうです。
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