Evil Must Die 28
石畳の破片に衝突した小瓶がぱりんと音を立てて砕け、小瓶に封入されていた少量の水銀が一気に容積を増して足に纏わりついてくる。
まるでスライムの様に蠢く水銀が両手足に絡みつき、両手足を鎧う装甲の上から手足を覆っていく。一瞬のちには、銀色に輝く籠手と脚甲が彼の両手足を鎧っていた。
「俺は貴様に敵うべくもないと、さっきそう言ったな――なら俺も言っておこう」 そこでいったん言葉を切って、アルカードは口元をゆがめて笑った。
「その認識は間違いだ」
ご、と音を立てて極太の触手が鞭の様にしなり、頭上から襲いかかってくる。
アルカードの姿を探しているのかきょろきょろと左右を見回しているデルチャのかたわらを通り過ぎて、アルカードは前に出た。
デルチャと蘭を包み込んでいた、光の壁が消滅している――先ほどダメージを負ったときに構成が破綻したらしい。
「やれやれ、どんどん大きくなっていくな」 ぼやいて、軽く左拳を握り込む。
「というか、俺がさっき言ったこと全然理解してないな? 貴様」
まあどうでもいいんだけどな。
そうこぼしてから、アルカードは拳を蜘蛛のほうに突き出した――親指で弾く様にして四指を広げた瞬間、銃声に似たぱぁんという破裂音とともに圧縮された空気の塊が猛烈な勢いで蜘蛛に向かって殺到する。
次の瞬間、蜘蛛の周囲の地面が四箇所、轟音とともに爆裂し、巨大なクレーターが生じた。四十キロ近い空気を圧縮し、それを指先ほどの大きさの不可視の力場に閉じ込めて撃ち込んだのだ。体内に潜り込んで破裂すれば、人間であれば一撃でばらばらになるのだが――どうも軌道を捻じ曲げられて防がれたらしい。
聳え立つ蜘蛛の巨体が、まるで陽炎のごとく揺らいでいる。陽炎が起こると向こう側の像が正しく見えなくなるのと同じく、光が直進していないために起こる現象だ――違うのは陽炎は空気の対流による屈折率の変化によって起こるものだが、こちらは周囲の空間そのものに干渉して変形させていること。
周囲の空間を圧縮したり引き延ばしたりして滅茶苦茶に捩じ曲げることで、直進する軌道で飛来してくる
「やっぱりな――」 適当に肩をすくめて、アルカードは溜め息をついた。
「
「おお、ぞのどおりだども。
そう返事をしてから、蜘蛛が凄まじい咆哮をあげた。鼓膜が破れるかと思うほどの凄まじい咆哮が瞬時に可聴範囲を超え、強烈な衝撃波となって押し寄せてくる。
「うるさい、黙れ」 身も蓋も無く毒づいて、アルカードは右手を突き出した――連続して構築した『楯』で引き裂かれた衝撃波が、背後のデルチャと蘭の両脇の地面を削り取ってゆく。
「俺も言ったはずだぜ?」 適当に肩をすくめて、アルカードは続けた。
「――そいつは間違いだってな」 続けて口ずさんだ呪文とともに、デルチャと蘭が再び光の壁に包み込まれる。
再び触手の一本がしなり、アルカードの頭上に向かって降ってくる――アルカードは金属製の手甲に覆われた右手を握り込み、いったん脇に引きつけてからまっすぐに突き出した拳打で触手の先端を迎え撃った。
*
アルカードの真新しいジープ・ラングラーのエンジン音が聞こえてきたのは、十五分ほどしてからのことだった。
すぐにわかったのは、後から組み込んだ特徴的な過給器音のせいだ――あとづけで過給器を組み込んであるせいか、アルカードのラングラーのエンジン音は少し甲高く聞こえる。
デルチャの話だと電話に出たときは深川の孝輔の自宅だったというから、結構飛ばしてきたらしい。
吸血鬼は犬三匹を片手で抱きかかえ、空いた手で傘を差して、塀に設けられた扉を使わずに塀を廻り込んでアパートの敷地に入ってきた。
玄関の前で壁にもたれかかっていた陽輔が適当に片手を挙げると、アルカードはずぶ濡れになった陽輔に気づいてぽかんと口を開けた。彼は足元に仔犬たちを降ろしつつ、
「……なにしてるんだ?」
「うん。実はだね、着替え貸してくれないかと思って――そろそろ帰ってくるころだと思って待ってた」 部屋の戸締りはすでに終わっている――あの黒髪の女の子、フィオレンティーナといったか、彼女がアルカードの部屋の合鍵を渡されていたらしく、部屋に入ってシャッター式の雨戸を下ろし、玄関の施錠をしてくれたのだが、問題は彼の着替えが無いことだった。
恭輔は蘭が五歳になって以降老夫婦の自宅を出ているので、こちらには荷物が残っていない――アレクサンドル老では体格が違いすぎて、仮に服を借りても着られない。家に帰るには車が必要になるが、すでにずぶ濡れのこの状態で乗りたくない。アルカードは体格がほぼ一緒なので、彼に頼めばいいと思いついたのだ。
「せめて中に入ってればよかったろうに――泥棒は玄関を開けて出ていったんだろう?」 なにもこんな寒風吹きすさぶ共用廊下で待たんでも、という意見を口にするアルカードに、
「俺もあとからそれを思ったんだけど、合鍵で施錠してくれた女の子があっち行っちゃったもんだから」 アレクサンドル邸のほうを視線で示してそう返事をすると、アルカードはうなずいた。
「そうか」
アルカードは陽輔についてくる様に手で促して、玄関の施錠を解いて扉を開けた――肩越しに覗き込むと、三和土や絨毯に泥のついた靴跡が残っているのがわかる。革の表面が湿ったブーツと、三和土に落下して破損したおもちゃの様なサイズの小さな扇風機を目にして、アルカードが忌々しげに舌打ちした。
片づけは後回しにすることにしたらしく、アルカードは脱いだブーツを造りつけの靴箱の下に押し込んで陽輔のほうを振り返り、
「上がって――着替えは俺のを貸すから、ちょっと水気をとったほうがいい」
「そうする。ドライヤー借りていい?」 と質問をしたのは、下着は借りずになんとかしたかったからだが。
このアパートには浴室乾燥機があるが、アルカードの部屋には洗濯機と一緒にビジネスホテルに置かれている様な衣類用の乾燥機のたぐいは無い――アルカード本人が化学繊維の衣服を好んで着ているため、乾燥機など役に立たないからだ。
なので、濡れた服を乾燥させようと思うと浴室乾燥機を使うかアイロンをかけるか、もしくはドライヤーなどで熱風を浴びせるかの三択になってくる。
「ああ――この足跡を踏まない様に気をつけてくれ、君もちょっと温かいものを体に入れた方がいい。子供たちの昼食にしたスープがまだ残ってるから、それを温め直しておくよ」 そう言い置いて、アルカードは犬を抱きかかえたまま寝室に歩いていった。すぐにTシャツとジーンズを持って戻ってくる――犬は足跡を踏み荒らされても困るということか、とりあえず寝室に置いてきたらしい。
「あ、タオルは洗濯機の横の棚にあるのを好きに使ってくれ」
アルカードが風呂場の脱衣場にいる陽輔に着替えを渡して硝子戸を閉めようと手をかけたとき、部屋の呼び鈴が鳴った。
「あの女の子たち?」
「否、違うと思う」 そう言って、アルカードが玄関に歩いていく。とりあえずそちらからは注意をはずして硝子戸を閉め、陽輔はタオルに手を伸ばした。
†
「あの女の子たち?」
「否、違うと思う」 そう答えたところで再び呼び鈴が鳴ったので、アルカードは玄関に向かう足をちょっと早めた。
さて、誰だろう。こないだ頼んでおいたKGB出身の大統領の写真集でも届いたのだろうか。
「はーい」 気楽に返事して扉を開けると、外に立っていたのは見知った顔だった。
昼前に秋斗と美冬を保護したときに会ったふたりの制服警官だ。ひとりは以前からつきあいのある中村と――もうひとりはたしか、片桐と名乗っていたか。
「どうも、突然すみません」
「いえ、別に――どうかなさったんですか? このへんで強盗でも?」
会釈してくる片桐に、アルカードはそう返事を返した。
「いえ、今朝の子供さんの様子を見に、近くを通ったから寄っただけなんですが」 説明してきたのは中村のほうだった。アルカードはああと納得の声をあげて、
「それなら御心配無く、さっき親御さんのところに送ってきたところです」
そうですか、とうなずいて、そこでふと気づいた様に片桐はアルカードの背後を指差した。
「それは?」
片桐が指差したのは、廊下に敷き詰めた靴文化圏用の絨毯の上に残った足跡だった。さすがは現役警察官、事件の匂いを嗅ぎつけたのか。
「ああ、これですか。ちょうど通報しようかどうか迷ってたところだったんですが、どうも空き巣に入られた様でして」
「迷わず通報してください」 中村がそう言って、
「被害は?」
「まだ見てないんですよ。本当についさっき帰ってきたところでして――まだ十分も経ってないんです」 そう答えて、アルカードは彼らを招じ入れる様に扉を開け放った。
床の上に残った痕跡を目にして、片桐と中村が眉をひそめる――浴室の明かりがついているのを見て、片桐がこちらに視線を向けた。妙に視線が遠慮がちなのは、気まずい状況に踏み込んでしまったと思ったのかもしれない。
「ほかにもどなたか?」
「友人です。ずぶ濡れになってたので着替えを貸しました」
足跡はリビングから続いている――通報するにせよどうするにせよ、侵入経路の特定が終わるまではうろちょろされても困るので、犬たちは寝室に入れてあった。部屋で粗相などしていなければいいのだが。
「ずいぶんとあからさまな痕跡ですね」
「土足のままで上がり込んだらしいな」 ふたりの制服警官たちがあまりぼかさない会話をしながら、土間の足跡を踏まない様に靴を脱いで部屋に上がり込む。
「この絨毯はもともとのものですか?」 片桐の質問に、アルカードはかぶりを振った。
「いいえ。ここに入居することになったときに敷き詰めたものです。下の床はフローリングですよ」 そう返事をしてから、アルカードは自分が履いたブーツを指差して、
「習慣でしてね、非常時にすぐ行動を起こせる様に、室内でもブーツを履いたままでいるんです。泥だらけになった靴で家の中を汚したくないから、履き替えてるんですが」
そんなふうに続けながら、アルカードはリビングの扉を開けた。
キッチン横の掃き出し窓が割られている――シャッター式の雨戸が閉めてあるのは、陽輔の判断だろう。現場の保全という意味では好ましくないが、指紋の残っている可能性のある窓に触れずにそれ以上風雨が吹き込むのを防ぐという意味では最善の判断だと言える。
窓硝子は外から割られたらしく内側に硝子の砕片が散乱し、絨毯が吹き込んできた雨粒で濡れていた。
床の上に残った泥だらけの足跡や床に散乱した硝子片を踏まない様に注意しながら窓に近づいた片桐が、
「防犯フィルムをあらかじめ刃物で切り刻んでから、叩いて割ってある様ですね。手の込んだことを」 あきれた口調でそんなコメントをしてから、片桐は足跡を視線で追った。
つまるところ侵入経路はこちらだろう――ぬかるんだ地面に足跡が残る庭側から侵入したということは、侵入者に非破壊解錠の技術が無いことを示唆している。防犯フィルムを切り刻める刃物やハンマーのたぐいを持っていたということは、最初から窓を破る腹積もりであった可能性もある――あるいはディンプルキーを解錠するのが難しいと踏んで、侵入経路を変えたのか。
いずれにせよ窓を破り、泥だらけになった土足で上がり込んだらしい。掃除する身にもなれよ馬鹿が。
これだけあからさまに証拠を残さなければならない様な状況なら、普通の泥棒は侵入を躊躇するものだが――
「女がふたり、か」 何気無くつぶやいたその言葉に、片桐がこちらに視線を向けてくる。
「はい?」 聞き返してくる片桐に視線を向けてから、アルカードは開けっ放しになった扉からリビングに入り込みながら、
「侵入者は女がふたり、です――パンプスかなにか、女物の靴跡がひとつと、もう一方はスニーカーですかなにかですね。爪先の向きと歩幅から察するに、ふたりとも女。女物の靴のほうは身長は百六十センチ前後、スニーカーのほうは百四十センチくらいでしょうね――意図的に歩幅を変えていなければの話ですが」
「……ドラゴスさん、野戦訓練でも受けてるんですか?」
「ええ、まあ」 中村の言葉に曖昧にうなずいて、リビングの様子を観察する――陽輔のための着替えの用意、仔犬たちを寝室に入れたりもしていてその暇が無かったのだが、帰宅後はじめて入ったリビングの様子にアルカードは顔を顰めた。窓の一枚が無惨に割られていて、破片が絨毯の上に散乱している。
「ここから踏み込んで――キッチンのほうに移動して、そのまま逃げている感じですね。リビングから出たあとはそのまままっすぐ玄関に向かっていましたし」
「ええ、テーブルのそばの足跡の乱れからすると、ここでなにかあったのかな」 片桐の言葉にそう返事をしてから、アルカードは周りを見回した。
「そもそも見た感じ、特になにも盗られたものが――あれ?」 テーブルの上にあるはずのないものが置いてある、その決定的な違和感に、アルカードは小さく声をあげた――それを聞きつけて、中村がいぶかしげに声をかけてくる。
「どうしました?」 出かける前にはそこに無かった大皿が二枚、ダイニングテーブルの上に放置されている。カウンターからキッチンを覗いてみると、犬用クッキーと激辛クッキーを目指して作ったはずの謎の物体を冷ますのに使っていた大皿が、出かける前に置いてあった場所に無い。そしてダイニングテーブルの上に移動した大皿は、空になっていた。
それを片桐と中村に説明していると、着替えが済んだ陽輔がリビングに入ってきた。
「――それまさか、クッキーを盗んで逃げたってこと?」 同じ説明を繰り返すと、陽輔が首をひねった。
「アルカードさんの部屋なら、ここだけでも十分金目になるものはあるだろうに」
「確かに」 片桐が同意して、テレビのほうに視線を向けた。ブルーレイ対応のHDDレコーダーに大型の液晶テレビに山の様なブルーレイディスクとDVD。寝室のほうに移動すれば、ほかにもいろいろ置いてある。嵩張りはするが、盗もうとすればいくらでも盗めるだろう。
そこで思い出して、アルカードはテレビ台に歩み寄り、録画状態にしたまますっかり忘れてほったらかしにしていたビデオカメラを手に取った。相変わらず録画が続いていたので、スイッチを操作して録画を止める。
「どうしました?」 無言のままテレビに配線をつないでいるアルカードに、中村がいぶかしげに声をかけてくる。
「いえ、このカメラ、出かける前から今までずっと録画してた様でして」
犯人が映ってるかも――答えながらテレビのスイッチを入れ、アルカードは再生ボタンを押した。
最初のほうは子供たちがボウルをかかえてがしゃがしゃやっているだけだったので早送りで飛ばし、全員出ていったあたりから二倍速で再生する。
倍速なせいで妙に甲高くなった硝子の破砕音とともに、ふたりの女が部屋の中に入ってくる――アルカードはそこで倍速を止めて通常再生に戻した。
いないみたいね、素直に渡せばいいのに――聞き覚えのあるキンキン声とともに土足で上がり込んだのは、服装に見覚えのある女だった。
「あの女か」
「知り合いですか?」
「いいえ」 中村の言葉に、アルカードはかぶりを振った。
「子供たちにクッキーのタネを作らせてるときに、なにやら裏庭に入り込んでタカりにきてた女です。追い払いましたが、まさか泥棒に入るとは」 クッキーなんぞ、缶入りのをひと缶千円も出せば買えるだろうに――かぶりを振るアルカードに、
「警察官が言うのもなんですが、盗むことそのものが目的の人もいますからね」 中村が物憂げな口調でそう返事をしてから、画面に視線を戻す。
「精神病の一種らしくて、心神耗弱になって釈放されることもあるんです」
「両手切り落とすか檻の中に入れるか牢屋に入れるか、どれでもいいから処理してほしいもんですね。ナチュラルボーン犯罪者だとわかってる奴を、心神耗弱だの病気だのを理由に野放しにするとか無しでしょう」 そうコメントしてから、アルカードは画面に視線を集中した。
女と一緒に入ってきたのは、身長百四十センチほどの女だった。こちらは部屋の中を興味深げに見回してから、窓の附近にとどまって外の様子を窺っている。
持参のタッパーウェアに皿二枚ぶんのクッキーを詰め込んで、ふたりはそのまま玄関に通じる扉のほうに足早に歩いていった――割った窓から出るより玄関のほうが楽だと思ったのかもしれない。
「物損が出ている以上、正式に通報はなされるべきだと思いますが」 片桐がそう進言してくる。
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