Evil Must Die 23
*
「……?」 風に乗ってかすかに聞こえてきた声に、アルカードは飛び移った電柱の上で足を止めた。
今のは――アレクサンドルと名乗った、あの老人と娘婿の声か?
何度か民家の屋根を飛び移って、周囲の住宅とは不釣り合いな年季の入った工場の屋上に降り立つ。高度視覚で透視してみた限り、鉄骨で組まれている様だったので、体重をかけても大丈夫だろう。しっかりした鉄骨の上に降り立って眼下の様子を窺うと、アレクサンドル・チャウシェスクと神城忠信、その四人の息子たちが眼下の道路の端のほうで集まっていた。
「いましたか?」
「否――家には?」
「家には戻ってない――あのアルカードとかいうのがいなくなっとるそうだが」
「じゃあ、あの人が――」 神城亮輔の口にした言葉はアルカードが連れ去ったのか、という意味だろう――アレクサンドルがかぶりを振って、
「否、それは無い。さっき家に電話をしてイレアナと話をしたが、あの男、礼状と札束を置いて出て行ったそうだ。それにあれにはデルチャの行き先は話してない――どこに行ったか特定出来るはずもない」
自宅から焼け出されて仮住まいで暮らしている老夫婦の家に礼状と、しばし滞在した謝礼として二千万円ばかり置いて家を出たのは、つい十分前のことだ。アルカードが家を出て行く前に老人は外出しており、娘のデルチャは昼前から生後半年ほどの娘を連れて友人に会いに行くと外出していた。
言葉の端々から焦燥のにじみ出た会話の内容から察するに、あの老人の娘と孫がいなくなったか? たしかに老人が出ていくとき、妙にあわただしかったが――
焦燥もあらわに周囲を見回している十歳くらいの末弟から視線をはずし、アルカードはかがみこんでいた鉄骨の上で立ち上がった。たった数週間、霊体に負った損傷がある程度治癒するまでの間世話になっただけの相手だ。礼状は置いてきたし謝礼も支払って義理は果たした。
別にデルチャと蘭がいなくなったことについて自分がなにかかかわりがあるわけでなし、彼が気にしなければならない道理も無い。
第一、会う予定だった友人の家を辞したあとでそこらでお茶でも飲んでいるだけという可能性もあるのだ。いくらこの近辺でおかしな気配を感じたといっても、それが必ず関係があるとも限らない。だいたいその気配の主がなんであれ、自分にはかかわりの無いことだ。
たまに笑う様になってきた赤ん坊の顔を思い出して、小さく舌打ちする――ウジェーヌも赤子のころ、あんなふうに笑っていたか。
馬鹿な――なにを考えてる?
自問しながら、アルカードは屋根の端に接続された電線の支柱に左手を当てた。
次に表示されたのは、上下前後左右に至るまであらゆる方向を同時に表示する視覚だった。やはりセンサーが拾い出した情報を突き合わせて合成したもので、球状のプラネタリウムの様な全方位モニターを脳で直接見ている様な感じに近い。使用者の体は見えず、代わりに周囲の状況を死角無く把握出来る。
これと
最後に起動したのは、
視界や視野は肉眼と変わらないが、熱の分布など様々なセンサー情報をイメージ化することで、必要に応じて壁の向こう側を透視するなど用途が広い。
高度視覚と機能が重複するのだが、アルカードにとっての利点は光源になるものが必要無いことだった。
ステータスメッセージはやがて周囲の環境や状況を示すサラウンドメッセージへと変わり、マテリウス氏単位で検出された周囲の気温や空気中の水蒸気量、空気の組成、現在時刻と太陽の位置から算出されたアルカードの現在位置、その他の様々なデータが表示され始めた。
攻撃時には砲台とすべての触手に周囲の気温や気圧の変化と空気の振動から周囲の状況を検索する一種のモーション・センサーと、温度分布や音響反響定位、レーザーレンジファインダー、周囲の物体の放射する熱や熱源探知システム、電磁場の形成や地磁気などから周囲の状況を検索する磁気センサー、透過型光電センサーやレーザーセンサーなど、十数種類もの高精度センサーを複合した照準器官が形成される。
これらは射撃モードに移行しなくても構築可能であるため、その気になれば非常に捜索範囲の広い索敵装置として機能する――捜索能力は索敵触手の密集密度に左右されるために電線伝いでは捜索範囲に穴が出来やすいのが欠点だったが、今回は集中して捜索する場所はすでにわかっている。
そこに彼女がいないなら、別に放置していてもかまわない――怪異にかかわっていないのならば、彼がかかわる道理も無い。あとは警察の仕事だが――
水銀に接続された疑似神経から目標発見の反応が返り、重層視覚の
場所は小高い山の中腹にある神社――位置情報から判断すると今いる場所よりもう少し北寄りだ。頭に入っている地図から判断する限り、午前中まで借りていた本条家の駐車場のある硲西の交差点から丁字路を左折した先だ。
今は無人の社らしいが昔は住み込みの神主がいたらしく、社のすぐそばに木製の電柱が立てられて送電線が伸びている。
その送電線を伝って神社のすぐ近くまで伸びた索敵触手が、神社の境内にいるデルチャ・チャウシェスク・神城とその娘、それになにやら背中から無数に伸びた蚯蚓の様なおぞましい触手でふたりの体を巻き取っている巨大な蜘蛛の姿を発見したのだ。
どうもふたりを喰おうとしているのか、火がついた様に泣き叫ぶ蘭とおびえきって抵抗することも出来ないらしいデルチャを、大きく開いた口に運ぼうとしている。
「――ッ!」 疑似神経を介して脳裏に再現されたその光景を認識した瞬間、意識が沸騰し血が逆流して、視界が真っ赤に染まるのがわかった。
――殺す!
経度や緯度だけでなく海抜も含めた正確な三次元位置情報、周辺の気温や気圧、空気の組成や水蒸気含有量、土壌の組成、すでに確認済みの個体以外の、脅威になりうる生命体――
それと同時に
それまで分子を収縮させる機能を使って体積を抑えていた水銀が瞬時に膨張し蛇の様に鎌首をもたげたあと、まっすぐに蜘蛛に向かって伸びた。水銀の触手の先端が針の様に硬化して、鋭利な棘を形成する。
神社の雑木林の中に設置された木製の電信柱のてっぺんから複数に分岐しながら伸びた水銀の棘が、次々と蜘蛛の体に突き刺さる――蜘蛛の体内に入り込んだ水銀の触手が内部で無数に枝分かれして巨大な蜘蛛の肉体を蹂躙し、デルチャと蘭を絡め取っていた触手も枝分かれした棘によってずたずたに破壊された。
ぎゃぁぁぁぁっ――それが蜘蛛の悲鳴なのだろう、巨大な蜘蛛の発した轟音じみた絶叫を
そのときには、全体積の三分の一程度が神社の近辺に集中している――
長大な斬撃触手が二本、うなりをあげて蜘蛛に肉薄し――デルチャと蘭を絡め取っていた太い触手を一撃で寸断した。次の瞬間蜘蛛の触手をぶつ切りにした斬撃触手が変形して網の様に拡がり、切断された蜘蛛の触手ごと放り出されたふたりの体を受け止める。
それで
そして問題は移動手段のほうだが――ここから神社までは、アルカードの足でも十数分かかる。全力で走れば数分でたどり着けるが、それでは目立ちすぎる。
手っ取り早いのは周囲のまとまった量の水を強制的に気化させて周囲の水蒸気量を上げることだが、あいにく周囲に水が無い。
つまり、まずは十分な量の水を確保する必要があるのだ。
水道管の中には水があるだろうが、あいにく地中の水道管の中を流れる水に干渉するのは無理だ――それをするには地面をえぐって水道管を破る必要がある。そしてそれは神田忠泰がいい顔をしないだろうし、余計な目撃者を作ることになるし、なにより時間がかかる。
アルカードはコートの内側に手を入れ、内ポケットから『
グリーンウッド家の『
使用者の脳に直接術式を書き込み、必要に応じて読み出すことで、魔術の訓練を受けていない人間を一時的に魔術師に仕立て上げる術式を
そういった負担をかけずに魔術を使える様にするのが、
結果、
アルカードが所有している
また最大で五千七百もの魔術式の
必要な術式が記述されたページが開くと、羊皮紙のページに記された文字列がぽうっと淡く輝いた。魔術を記述するためだけに使う特殊な文字で、見た目は楔形文字に似ていなくも無い――
術式が起動すると同時に、開いたページから虹色の文字列が水が噴き出す様にあふれ出した。次の瞬間周囲の空気が稀薄になり、アルカードの足元を虚空から突然したたり落ちてきた大量の水が濡らす。
周囲の水素分子と酸素分子を化合させて、大量の水を生成したのだ――ペットボトル数本分程度だが、
続いて『
同時に発生した水が猛烈な勢いで蒸発し――発生した水蒸気に溶け込む様にして、アルカードは靄霧態に変化した。
猛威を振るう蜘蛛の頭上で実体化すると同時に、アルカードは落下しながら
「
大量の魔力を流し込まれた
デルチャと蜘蛛のちょうど中間、数百合にも及ぶ触手の交錯によって蹂躙の限りを尽くされたボロボロの石畳の上に着地し、アルカードは軽く鼻で笑って右足を引いた。
それまで蜘蛛の体や触手を切り刻む一方、自在に変形する触腕を伸ばして赤ん坊の体を抱きかかえていた
手を伸ばして表面をプルプルと蠕動させる巨大な水銀の塊が伸ばした触腕から赤子の体を受け取ると、
「御苦労、我が血潮」 聞くべき相手も無いねぎらいの言葉を口にして――アルカードは平然と蜘蛛に背を向け、地面にへたり込んでいるデルチャに歩み寄った。
雑木林に囲まれた境内を、初夏にしては冷たい風が吹き抜けてゆく。
「
背後の蜘蛛がまるで壊れかけたスピーカーを通しているかの様に罅割れた耳障りな声で怒声を発し、デルチャが反射的に両手で耳をふさいだ。
蜘蛛の声は
「
「ほう」 強烈な殺気を気にも留めず、アルカードは肩越しに背後を振り返った。
「さすがにこの程度じゃ斃せんか」
それだけ返事をしてから、石畳の上に尻餅を突いたまま顔色を失ってアルカードを見上げているデルチャへと視線を戻す。
「逃げられるか」 その質問に、デルチャが表情を引き攣らせたままかぶりを振る。
「駄目、腰が抜けて――」
その返答に、アルカードは左手で抱いた蘭の体を母親に引き渡した。甲冑の
「――なら、そこから動くな」
「
ショットガン――
「
「つまり一番下っ端なのか」
盛大に鼻で笑い、アルカードは左手を腰に当てた。
「どこの疫病神様だか知らんがな――ああ、小難しい日本語はまだわからんから名乗らなくてもいいぞ、どうせ聞いてもすぐ忘れる。育ちすぎの下等動物の名前なんぞ覚えたところで、たいして役に立たんからな」
「赦ざん……赦ざんぞッ!」 濁声でそうわめく蜘蛛に、アルカードは無造作な仕草で手にした銃の銃口を向けた。
「たかが下等動物風情に赦してもらう必要など無い。分際をわきまえろよ、節足動物――ついでに貴様はもう、
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