Evil Must Die 22
たぶん自分のパソコンでは問題無く再生出来るから、他人の機械でも大丈夫だと根拠無く考えるのだろう――誰しも自分の環境がものを考える基準になるものだからそれはわからなくもないが、もう少しなんとか出来ないか今度聞いてみよう。
室内の電気はパオラが出てくるときに消したので、窓がロックされていることだけ視線を向けて確認して、リディアは小さなテーブルの上に置きっぱなしにしていた真鍮色のキーを取り上げた。
キーだけ持って部屋から出ると、パオラとフィオレンティーナがそれぞれ自分の部屋の戸締まりを確認しているところだった――このアパートは比較的セキュリティに気を遣っているほうだが、さすがにオートロックは無いらしい。
「お父さんとお母さんがこっちに来てるんですか?」
「忠信じいちゃんと、あと陽輔兄ちゃんも来てるよ」 フィオレンティーナと凛がそんな話をしている――恭介とデルチャ、忠信と陽輔。どうやら、昨日アルカードの部屋に立ち寄って犬を散々かまってから帰った面子全員と、陽輔がやってきたらしい。
相変わらず豪雨はやんでいないので、共用廊下の側溝がえらいことになっている――二階の共用廊下の排水溝から伸びる雨樋の排水口から滝みたいな勢いで水が流れ出しているのは屋上からの水も一緒に排水しているためだが、どうも降雨量に側溝の排水能力が追いついていないのかグレーチングの蓋がされた側溝から水があふれださんばかりの状態になっている。側溝の位置が割と低く、建物の土台が少し高いので、仮にあふれてきても浸水したりなにか被害が出ることにはならないだろうが――
それぞれ傘を手にアパートの建物から出て、おそらく今頃泥だらけになっているだろう庭は通らずに老夫婦の自宅に向かう――残念ながら道路もあまり変わらなかったが。道路の表面を万遍無く水が流れており、こちらもグレーチングで蓋をされた側溝に流れ込んでいる。幸いなことにこちらはあふれ出すほどではなかったので、グレーチングを踏んで塀に沿って歩いていくことで足をほとんど濡らさずに老夫婦の家まで歩いていくことが出来た。
店の隣に塀の裏側で一体になった形で建っている老夫婦の自宅は周りの建築と似た様な洋風の切妻型の屋根の住宅で、下から見上げるとスレート葺きの屋根の表面を猛烈な勢いで雨水が流れ落ちているのが見えた。
そういえば店のスペースではなく老夫婦の生活圏に入るのは、夜間は昨夜、昼間は今日がはじめてだな――そんなことを考えながら、リディアは凛に続いて門を抜けた。フィオレンティーナは何度か招待されたことがあると、言っていたが――
玄関の扉を守る様に張り出した庇の両端から垂れ下がった、底の抜けたバケツの様な形状の純銅製のピースを鎖の様に連結した装飾的な雨樋を伝って、大量の雨水が流れ落ちている――それなりに年月が経っているためか、銅のピースはすっかり錆びて緑青で覆われていた。
「おじいちゃーん、お姉ちゃんたち連れてきたよ」 土間で靴を脱ぎながら、凛が奥に声をかける――リビングから顔を出したのは、こちらも招待されたのかアンだった。
「あ、おかえりー」
「ただいま」
「あ、アンさん――どうでした、沖縄」
パオラが声をかけると、ちょっと日焼けしたアンがにっこり笑って、
「最高。ご飯も美味しいし海も綺麗だし、貴女たちも日本から帰る前に、一回寄っておくことを勧めるわ」
それを聞いて、リディアは苦笑した。一応彼女たちは仕事として日本に来ているので、行動の経費は基本的にヴァチカンから出ている。さすがに飛行機の距離の寄り道は必要経費として認めてもらえないだろうし、日程としても認可されないだろう。
「お邪魔します」 声をかけてリビングに足を踏み入れると、リビングはすでにピークを過ぎて酔い潰れる者の出始めた飲み会みたいになっていた――すっかり出来上がった忠信とアレクサンドル老が、楽し気に肩を組んで歌っている。忠信に肩を抱かれて逃げるに逃げられず、蘭が困った顔をしていた。曲目がアン●ンマンのマーチなのは、あえて突っ込むまい。
リビングの角に設置された大型の液晶テレビは衛星放送でエイリアンが放送されているのだが――誰も観ている様には見えなかった。
テーブルの上に真空パックのパッケージと開封された包装紙、厚紙の箱がいくつか拡げられている――個包装されたビスケットみたいなお菓子の封を切っていた陽輔が、こちらに視線を向けて適当に片手を挙げた。恭輔のほうは酔い潰れてしまったのか、干からびた菜っ葉みたいにテーブルで突っ伏している。デルチャはキッチンにいるのか、カチャカチャという食器を扱う音が聞こえてきていた。
「いらっしゃい、どうぞ座って座って」 三脚並んだカップにコーヒーを注ぎながら、イレアナが席を勧めてくる。勧められるまま適当に席に着くと、イレアナがいい香りのするコーヒーを彼女たちの前に並べてくれた。
「いただきます」
「どうでしたか? 温泉」 スティックシュガーの封を切りながらそう尋ねると、
「うん、急なことだったから部屋がなかなか確保出来なくて大変だったわ」 よほど大変だったのか、イレアナがそんな返事を返してくる。
「ところでアルカードは? 凛ちゃん、いなかったの?」 イレアナにそう聞かれて、凛がかぶりを振った。
「いなかったよ。あっくんとみーちゃんをおばちゃんちに連れてったんじゃないかな」
「なんだね、それは?」 事情は承知していないのか、すっかり顔が赤くなったアレクサンドルが口をはさむ。
「ああ、実は……」 それまで萎びた大根の葉っぱみたいになっていた恭輔が、上体を起こして口を開いた。一通り説明を聞き終えて納得したのか、老人が小さくうなずいて、
「ああ、それであのちびちゃんたちを送っていくという話か――まあいい、アルカードは酒だけあればそれで十分なタイプだしな」
「そうね、あとでお酒だけ持ってってあげましょう」
「アルカードっていつから日本酒を飲む様になったんですか?」 パオラが尋ねると、老人はかぶりを振って、
「知らん。わしらとはじめて酒を飲んだときはもう日本酒派だったよ――明治維新のころに日本に来たことがあるとか言ってたから、そのときに覚えたんじゃないかね」
という答えを返してくるということは――
「やっぱり、おじいさんたちも知ってるんですね」 小さく溜め息をつきながらのフィオレンティーナの言葉に、老人はあっさりとうなずいた。
「ああ、知っとる――あの男、わしらに正体を知られたときに、だいたいの事情を教えてくれた。わしらが引き留めるのをあきらめさせるために、だがね」
苦笑してそう言ってから、アレクサンドル老は新たに缶ビールの封を切った。
「十年くらい前、まだ蘭が生後半年ちょっとの赤ん坊だったころの話だよ。山の中の無人の神社に祭られていたとかいう蜘蛛の姿をした化け物が、デルチャと蘭を攫いおってな。いち早く見つけ出して助け出してくれたのが、ちょうど傷が癒えて出ていったアルカードだったんだ」
当時を思い起こしているのか、老人は少しだけ苦笑した。
「なぁんで、わしらもあんな、鎧を着て銃を持って満身創痍になってたあいつを、うちに匿おうと思ったんだかな――あのときはあいつの歳もわからんかったが、死んだ息子が生きとったらあれくらいの歳だったからかな」
「亡くなった息子さん、ですか――」
「ああ、デルチャの妹、マリツィカというんだが、その双子の弟だ――十歳のときに川に落ちて死んでしまってね」
「それは――」 パオラがなにか言いかけたのを苦笑しながら手で制し、
「気にせんでくれ。まあそんなこともあったというだけだよ。生きとったらあいつの見た目くらいの歳、十七くらいのはずだった――まあ、当のアルカードは五百年以上生きとると聞いて腰抜かしたが」 ビールをあおってから老人はちょっとだけ笑い、
「まあそんなわけで、わしらも神城さんも、だいたいの事情は知っとる――まだ完全に復調してないというから、しばらくとどまっていってはどうかと勧めて、そのまま十年近いつきあいになってしまったがね」
ちょっと気まずい雰囲気になりかけたとき、きんこーん、とチャイムの音が聞こえてきた。
「お客さんかな」 ソファから腰を浮かせかけた凛に、
「こないだ頼んだ新しいオーヴンレンジじゃないかね」 と、これは席を立ったアレクサンドル老だ。
「じゃあ俺が行きます」 陽輔がそう言って、老人を椅子に再度座らせた。
「あら、いいのよ気を遣わなくて」 イレアナの言葉に、陽輔が軽くかぶりを振る。表情から察するに、彼はすでにべろべろになっている老人が転倒して怪我でもするのを心配しているのだろう。
「凛ちゃん、ハンコある?」
「えーとねえ、靴箱のとこ」 そんな会話をしながら、叔父と姪が連れ立ってリビングから出ていく。それを見送って、リディアは窓の外に視線を向けた。
再びチャイムの音が聞こえ、凛と陽輔が見事にハモりながらはーい、と返事をする声が遠ざかってから、玄関の扉につけられたベルが鳴る音が聞こえてきた。
「陽輔君、ひとりで持てるかな」
「大丈夫じゃないか」 アレクサンドルの言葉に、忠信が安請け合いしている。
果たしてその言葉通りに、陽輔が両手で国産メーカーのロゴが入ったひとかかえもある段ボール箱をかかえて姿を見せた。
「これ、どこに置けばいいですか?」
「ああ、ありがとう。そこの隅にでも――」 キッチン側の部屋の隅を指差しながらアレクサンドルが返事をしかけたとき、陽輔が体勢を崩してつんのめった――どうも足元が見えずに、リビングの敷居に蹴躓いたらしい。
バランスを崩して転倒しかけた陽輔に、フィオレンティーナが殺到する――彼女はさっと箱の下側の角に手を添え、同時に陽輔の肩を押してバランスの崩壊を押しとどめた。
「あ、ありがとう」 礼の言葉を口にしてから陽輔があらためて段ボール箱を持ち直し、リビングの隅のほうに運んでいく。
蘭がその様子を見送ってからフィオレンティーナに視線を向け、
「お姉ちゃん、力持ちだね」
え、と返事をしてから、フィオレンティーナはその理由に思い当たった様だった。すでに事情を知っているのなら話してもいいと判断したのか、ブラウスの袖を捲って腕を剥き出しにする。
その腕にびっしりと紋様が浮き出ているのを目にして、蘭がきょとんとした顔を見せた。
「なにこれ、いれずみ?」
「いいえ」 フィオレンティーナはかぶりを振って、
「なんというかですね、わたしは別に腕の力で陽輔さんを支えたわけじゃないんですよ――この模様はわたしの霊体に直接刻まれてるんですけど、わたしの魔力の一部を使って身体能力を補強する刻印魔術の一種なんです」
ちんぷんかんぷんという顔をしている蘭に、フィオレンティーナは続けた。
「
それを聞いて、蘭がびっくりした様に眼を見開いた――まあわからないでもないが、聖堂騎士にとっては珍しくもない。
本来、吸血鬼の戦闘能力は人間とは比べ物にならない。下級の
それに効果的に対抗するために教会の魔術師たちが考案したのが霊体に術式を直接『書き込む』ことにより霊体そのものを一種のエミュレーターとして使い、身体能力や反射能力を補強する常駐起動魔術だった。
霊体に直接術式を書き込むので、抗魔体質も問題にならない――フィオレンティーナは高度な結界も無害化してしまうという異能に分類されるほど強力な抗魔体質の持ち主だが、刻印魔術は肉体よりも内側に存在する霊体に直接術式を書き込まれているために抗魔体質を維持しつつ、効果的に身体能力の強化を行うことが出来る。さらに魔力供給源である本人が生きている限り、術式が解けることも無い。術式そのものは常時稼働しているため、基底状態から励起状態への移行が非常に迅速かつ滑らかなのも特徴のひとつだ。
フィオレンティーナの腕に浮かんだ紋様が、徐々に薄れて消えてゆく――もともとあれは魔力が励起した際に刻まれた魔術刻印が肉体に投影される現象で、別に肉体になにか彫り込まれているわけではない。術式が稼働を止めて基底状態に戻るのに伴ってあっという間に元通りの普通の肌に戻ったのを見て、蘭がぺたぺたとフィオレンティーナの腕を触っている。
フィオレンティーナは服の袖を元通りに直して、きちんと理解出来ていない様子の蘭に曖昧に笑いかけてからソファに座り直した。
「ところで――」 話題を変えるためか、パオラがテーブルの上に合ったビスケットの様な形のお菓子を取り上げる。
「これはなんですか?」
「ちんすこうっていうお菓子だって。那覇空港で買ったんだけど」 アンがそう答えて、箱を包んていた包装紙を取り上げた。原材料のところを見遣って、
「えっと、ラードと砂糖と小麦粉を混ぜて焼いたお菓子だって――カロリー高そう」
パオラが沈黙したまま、手にした焼き菓子を箱に戻す。一昨年亡くなった祖母の肥満体を思い出しているのだろう。高カロリー高コレステロールな食生活の結果の肥満体を思い出して憂鬱な気分になりながら、リディアも溜め息をついた――そんなふたりの様子を見ながら、フィオレンティーナが首をかしげている。
とりあえず胸の内にもやもやっと湧きあがった憂鬱な気分を振り払おうと、リディアは紅茶に手を伸ばした。
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