Evil Must Die 11

 

   *

 

 数本の触手が、様々な角度からアルカードに向かって襲いかかる――それらすべてを滑る様な動きで躱しながら、アルカードが蜘蛛の本体に向かって肉薄する。触手をいくら相手にしても埒が開かないと判断したのだろう。

 すでに瓦礫と化した石畳を触手の尖端がえぐり、そのたびに地響きが伝わってくる。

 ――ギャァァァァァッ!

 身の毛も彌立つ絶叫が、再び頭の中に直接響き渡る――疾走するアルカードが、口元をゆがめて冷たい笑みを浮かべた。正確には表情の窺えない彼の気配が、背筋の寒くなる様な冷笑の形をとったのだ。

 手にした見えない武器を両手で構え直し、蜘蛛の本体に肉薄する――より早く、蜘蛛がその場で大きく跳躍した。

 百トン以上はあろうかという巨体が、高々と宙を舞う――目標を失って踏鞴を踏んだアルカードが頭上を仰いだその瞬間、蜘蛛の腹から噴き出した白い繊維状のものがアルカードに向かって降り注いだ。

 完全に視界をふさがれて驚いたのか動きを止めたアルカードの全身を、白く粘つく糸が絡め取る。振りほどこうとするアルカードが、一瞬こちらに視線を向けた――助けを求めている様でもなく、さほど焦っている様にも見えない。強いて言うなら――こちらとの距離を確認しただけの様にも思えた。

 そしてそれと同時にいったいなにが起こっているのか、ふたりを包みこんで要る半透明のドームの形状が変化していく。六角形のパネルを組み合わせた様なドームの、その六角形のサイズが小さく数が密になり、同時に刃物の断面の様に蜘蛛やアルカードのほうに尖端を向けた楔状に変形し始めた。

づがまえだぞ、ずばじごいぞうめが!」 絶好の機会を得たからだろう、勝利を確信した声をあげながら地響きとともにその眼前に着地した蜘蛛が再び触手をうねらせる。

「ざあ、がみいがりをどぐど味わえ!」

 蜘蛛の糸は同じ太さの鋼鉄製の糸の五倍の引っ張り強度とナイロンの倍の伸縮性を持っていると聞いたことがある――糸の太さはわからないが本物の蜘蛛の糸よりは太いだろうし、あれだけ雁字搦めにされては身動きがとれまい。

 無数の触手が全方向から殺到する――触手で姿が見えなくなる瞬間、アルカードが嗤った様に見えた。

 次の瞬間――

「なっ!?」 いったいなにをされたのか、蜘蛛が驚愕の声をあげ――

 そしてさらにその次の瞬間、触手の群れが吹き飛んだ。まるで触手の群れた中心で爆発物が破裂したかの様に触手が大小の肉片とどす黒い体液を撒き散らしながら粉砕され、強烈な衝撃波に擂り潰されてゆく。

 蜘蛛のあげた驚愕の声が、途中で凄絶な絶叫に変わり――

 細かく粉砕された肉片と体液が爆風に乗って押し寄せ、光の壁にぶつかって立て続けに視界が激光に塗り潰された――どうやらあの光の壁は、衝突してきた物体の運動エネルギーを光に変換して放出することで運動を止め、内部の物を保護する仕組みになっているらしい。先ほどからちかちか光っていたのも、小さいけれど高速で飛来した物体を絡め取り、運動エネルギーを奪い取っていたのだ。

 視界を塗り潰した閃光が収まったときには、周囲の様相は一変していた――周囲の御神木はあらかた放射状に薙ぎ倒されている。社は痕跡すら残っていなかった――手水屋があったあたりの地面では、破壊された手水屋に導かれていた水道管から水があふれ出している。

 石畳は完全に粉砕されて地面が剥き出しになり、おそらくは衝撃波そのものの威力も光の壁が防ぎきったからなのか、まるで絶海の孤島の様に彼女たちの足元だけ石畳が無事に残っていた。押し寄せてきた衝撃波を引き裂いた光の壁が徐々に形を変え、再びドーム状へと変化していく。

 アルカードに群がっていた触手は悉く挽肉になるまで粉砕され、残った部分だけが汚らしい体液を撒き散らしながらのたうっており、蜘蛛の本体も体の半分くらいがずたずたになっている――再構築はすでに始まっているらしいが、先ほどに比べるとペースがかなり遅い。

 アルカードは先ほどの衝撃波で触手と一緒に糸も吹き飛ばしたのか、拘束から解放されて悠然とした仕草で手にした黒い曲刀を肩に担ぎ直した。

 そう、曲刀だ――眼をモチーフにした装飾が施され、金属で出来てはいないのかいささかの照りも無い、刀身も柄も一体になった刃渡り一メートル半ほどの長大な曲刀。

 アルカードが軽く柄を握り直すと同時に、手にした曲刀がまるで虚空に溶け込む様にして見えなくなった――指を緩めてはいないから、おそらく見えなくなっただけなのだろう。先ほどまで触手を迎撃するために攻撃を繰り出していたときも、あの曲刀をああやって隠していたのだろうか。

「おのれ……おのれぇッ!」

 光の壁があるのにもかかわらず、蜘蛛の声が聞こえてくる――頭部は完全に無くなっているのだが、その状態でも意識はあるらしい。発声器官が破壊されているからか、蜘蛛の声は鼓膜を介さずに、時折聞こえる絶叫同様直接頭の中に響いてきた。

ぞう……、げがらわじぐなま意気いぎむじげらよ、もばやらぐにばごろざぬ! 爪先づまざぎだげを形相干渉げいぞうがんじょう修復じゅうぶぐじながら、ばい心臓じんぞうぎざんでぐれるぞッ!」

 爪先だけ回復してどうするのかという疑問は残るが、アルカードも似た様なことを考えたらしい。彼は適当に肩をすくめて何事か口にすると、そのまま盛大に鼻で笑った。

 そのまま蜘蛛が再び行動可能なほど復元する前にとどめを刺すつもりなのか、アルカードが蜘蛛に向かって歩いていく――手にした剣を構えて刺突を繰り出そうとするより早く、蜘蛛の体が再び膨張した。

 全身からうねうねと触手が生え出し、蜘蛛というよりイソギンチャクのてっぺんみたいな有様になってゆく蜘蛛を見遣って、アルカードがうんざりした様に溜め息をついた。

 軽く開いた左手の中に虚空から溶け出す様にして、おそらくは先ほどの曲刀のためのものであろう鞘が出現する――手にした曲刀を旋廻させる様な動作を見せたのは、おそらく逆手に持ち替えたのだろうが、再び姿を見せた曲刀の柄に指を絡めて保持し、鯉口に鋒をあてがって、そのまま鞘に刃を叩き込んだ。

 次の瞬間蜘蛛の周囲の光景がぐにゃりと歪んで見えたかと思うと、蜘蛛の全身から生え出した触手が悉くぶつ切りにされた――半ばから分断された蚯蚓の様にのたくりながら、切断された触手がぼとぼとと地面に落下してのたうちまわる。

 再生の時間などやらないということか、アルカードが再び地面を蹴った。

 ――ギャァァァッ!

 ――ヒィィィッ!

 ――いやぁぁぁぁぁっ!

 再び頭の中に絶叫が響くと同時、アルカードが手にした曲刀を再び鞘走らせる――本体に最接近して剣を振るったその瞬間、再び激光が視界を塗り潰した。

 

   *

 

「――そういえばさ」 空になったティーカップをソーサーに戻して、香澄が口を開く。

「おう?」 こちらはアルカードである――紅茶の代わりにスポーツ飲料の入ったチタン製のマグカップを持っている。

 いつも彼は自分のぶんだけはこれなので、なにか理由があるのかと思ったら、ただ単にお気に入りらしい――ダイニングテーブルの上に置いた汗をかいたペットボトルから白っぽい液体を注ぎながら言葉の続きを待っているアルカードに、香澄が質問の続きを口にした。

「なんでひとりだけアクエリアスなの?」 アルカードは手元のカップを見下ろして、

「こっちのほうがよかったのか?」

「そういうわけじゃないけど。ただの疑問――さっき、コーヒーの準備してたじゃない」

「ただの水分補給だよ――水気の無い室内で靄霧態に変化すると、短時間の変化でも疲れるんだ」 アルカードはそう答えて、再びいっぱいに注いだマグカップに口をつけた。

「あの、ひとつ質問していいですか?」 フィオレンティーナが片手を挙げたので、アルカードがそちらに視線を向ける。

「俺にか?」

「貴方でもいいです――香澄さんたちにはどこまで話してるんですか?」 それを聞いて、アルカードが首をかしげる――確かに、平然と靄霧態などという単語を口にするということは、アルカードは香澄に自分の正体についてかなり突っ込んだことまで教えているということだ。

「まあ、ある程度は。無理矢理調べようとして無意味に危険に首を突っ込まない程度のことは話してる――必要以上のことは話してないつもりだが、それなりにつきあいは長いしな」 五年ほど前に凛ちゃんが迷子になったときに靄霧態ばらしちまったし、とアルカードは続けた。

 彼は香澄に視線を戻し、

「霧に変化するには空気中の水分子が十分に必要なんだが、この部屋はちょっと乾燥しすぎてて水分が足りなかった。そのぶん体内の水分を消費したから、それを補わないといけないんだ――環境によっては、靄霧態を取るのが自殺行為になりかねない様な状況もある」

「たとえば?」

「空気中に水分がまったく無い砂漠地帯とか、あとは雪国もまずいな――雪はあるが、飽和水蒸気量が低すぎて空気中に水分がほとんど無いし」

「雪国って、湿度が高そうなイメージあるけどね」

「それはイメージだけだな――確かにそこらじゅうに水分があるが、全部凍結して雪になってるだろ。気温が低いと飽和水蒸気量は下がるから、実際の水蒸気量は下がっていても飽和水蒸気量に対する水蒸気量の割合を表す湿度は増える事態は別に珍しくない。実際の水蒸気量が同じでも、気温が上がればそれだけで湿度は下がるからね――ぶっちゃけて言えば、冬の百パーセントより夏の十パーセントのほうが空気中の水蒸気量が高いことだってある」

 アルカードはフィオレンティーナたちに対する講義のつもりなのか、教師の口調で先を続けた。

「今言ったとおり、靄霧態の条件として依存するのは空気中に含まれる水蒸気量だ。自分の肉体の重量は何百キロあろうが関係無いんだが、装備や荷物に関しては靄霧態に取り込める限界値が水蒸気量で変動する」

 アルカードはそんなことを言いながら、先ほどまで子供たちが遊びに使っていたホワイトボードの様な玩具――『せんせい』というらしいが、それに下側に向かって膨らんだ線グラフの様な曲線を引いた。

「気温が摂氏二十度の場合の飽和水蒸気量は、一立方メートル当たり十七・二グラムだ。摂氏十度の場合は九・四グラム――ロイヤルクラシックが長時間安定して靄霧態を取るためには空気中の水蒸気量が体重にかかわらず少なくとも立方メートルあたり七グラム程度必要で、摂氏マイナス六~七度で飽和水蒸気量は七グラムになる。よって摂氏七度以下の低温環境下では、空気中の含有水蒸気量が飽和水蒸気量に達していてもロイヤルクラシックは長時間安定して靄霧態をとれない」

 アルカードはそう言ってから、まるで春先の陽気で溶けかけた雪だるまみたいな顔をしている三人の少女たちに、なぜか昔を懐かしむ様な笑みを見せてから先を続けた。

「ちなみに俺の場合だが、諸事情あってほかのロイヤルクラシックに比べて取り込める重量に制限があってな。俺が長時間安定して靄霧態に変化するためには、立方メートル当たり十グラム程度の水蒸気量が必要だ――武装解除したこの状態でもな。完全武装の状態だと、もっと多くの――十三グラム程度の水蒸気量が必要になる」

 弱点ともとれる内容を平気で話しながら、アルカードは『せんせい』をダイニングテーブルの上に置いた。

「飽和水蒸気量が十グラムを超えるには、気温が十二~三度なければならない。俺は身ひとつの状態でも、外気温がそれを下回った環境では長時間安定して靄霧態をとることが出来ないということだ。完全装備の状態だと、もっと高い気温が必要になる」

 否――痛ましい気分で、アルカードの横顔を注視する。これは講義ではない。

 あれはフィオレンティーナに対するヒントだ――自分アルカード

「それより低い温度だと、靄霧態をとれないんですか?」 パオラが疑問を口にする。

「とれる。ただしその場合は、飽和水蒸気量の限界に達していても空気中の水蒸気量が足りない。それを補うために、自分の体内の水を消費する必要がある」

 アルカードがそう返事をして、

「周囲の気温が低すぎて飽和水蒸気量が必要な基準を下回っている、もしくは十分な量の水または水蒸気が近くに無い場合、真祖が靄霧態をとるためには体内の水分から触媒にする水分の不足分をひねり出す必要がある――その場合、靄霧態はごく短時間しか維持出来ない」

 一分も持たないだろうな――そう続けてから、アルカードはちょっと考え込んだ。

「周囲の水が足りない、もしくは飽和水蒸気量が足りなくなる低温環境下で自分の体内の水分を使って靄霧態をとった場合、靄霧態を維持する時間が長引けば長引くほど消耗する――ただし俺の経験上三十秒以上靄霧態を取ると、それ以上靄霧態を維持出来ないうえに数時間はまともに動けないほど消耗するな。ほぼ緊急回避にしか使えないということだ」

「その水分不足は、手っ取り早く元に戻せるんですか?」 リディアの質問に、アルカードはうなずいた。手にしたアクエリアスを見下ろして、

「単純に水を飲む――よりももっと早いのは、十分な水と温度のある環境で再度靄霧態をとることだ。通常必要な量よりも少し多くの水を消費して靄霧態をとれば、人間の姿に戻ったときには体内の水分量が元に戻ってる」

 アルカードはそこで言葉を選ぶ様にちょっと考えてから、

「基本的には、ロイヤルクラシックも寒い環境では靄霧態を取れないものと考えていい――緊急回避はともかく、その場から逃げ出す可能性は排除出来る。雪が降ってる様な環境だと、特に――空気中の水蒸気はほぼ凍結して雪になってるから、水蒸気含有量はゼロに近い。必要なほぼ全量を自分の体内の水分で賄わないといけないから、ごく短時間しか持続しない」

「その状態で、限界に達するとどうなるんですか」 フィオレンティーナの質問に、アルカードはかぶりを振った。

「わからない。限界まで試したことは無いから――靄霧態が強制解除キャンセルされるか、もしくはそのまま人間の姿に戻れなくなって死ぬんじゃないかと思う」 前に試したことがあるけど、周りに水の無い状況での靄霧態変化へんげって水の中で息を止めてるみたいに時間が延びれば延びるほど苦しくなるんだよ――アルカードはそう続けてから、それを試したときのことを思い出したのか盛大に顔を顰めた。

「水が近くに無いって?」 香澄の口にした疑問に、

「さっきも言ったが、靄霧態に変化するには一定以上の水分が要る――ただし必ずしも水蒸気の状態である必要は無い。飽和水蒸気量が必要な基準を上回っていれば、あとは十分な量の水分が周囲にあればいい。ただし最低限気体もしくは液体状であることが必要で、雪や氷は役に立たない」

「つまり、たとえば――」 香澄は手にしたティーカップを翳して、

「これも?」 その問いに、アルカードがああとうなずく。彼はテーブルの上のアクエリアスのペットボトルに視線を向けて、

「もちろんこれもな――真水であろうが海水であろうが紅茶や電解質飲料であろうが、主成分が水の液体でさえあれば不純物は問題にならない。ただし、大気に触れてることが必要だ――水がじかに空気に触れているか、もしくは鍋とか瓶なんかの容器の中にあるのなら水蒸気に変わって自由に出ていけることが必要で、配管の内部を流れる水や気密された容器の中の水は役に立たない」

「つまりコップのアクエリは大丈夫だけど、きちんと栓をされたボトルの中身は駄目なのね」

「そういうことだ――あとはまあ、魔力で干渉して液体の状態の水を水蒸気にするわけだが、あまり遠い距離は駄目だろう。少なくとも、ここから川の水を触媒に使って靄霧態をとることは出来ない。あとはそうだな、水道の配管もだな――蛇口から水が出てる状態ならいいんだがな、蛇口が完全に締められてる状態だと干渉出来ない。そういう場合は蛇口を開けるか、近くに蛇口が無い場合は水道管を破壊する必要がある」

「あ」 なにを思い出したのか、フィオレンティーナが声をあげる。

「そうだ」 アルカードがうなずいて、

「君の生家が襲われたとき、俺が水道管を破壊したのもそのためだ。廊下にも暖房が入ってたから温度は十分だったが、まとまった量の水が周りに無かったからな――外は雨が降ってたけど、近くに窓が無かったし」

 普段とは違う真面目な講義口調でそう言ってから、アルカードは言葉を切った。ちんぷんかんぷんという顔をしている香澄と、そもそも言葉の意味も理解出来ないままアルカードのズボンの裾を掴んで抱っこをせがんでいる秋斗を見比べて、差し出した手を掴んだ秋斗の体を抱き上げる。そこで、アルカードは妙な顔をして自分を見つめているパオラに視線を向けた。

「なんだ?」

「そういう顔も出来るんですね。いつもそういう真面目な顔して、真面目なしゃべり方してれば素敵なのに」

「失礼なことを言うなあ」 アルカードは不満そうに顔を顰め、

「俺はいつだって真面目に生きてるんだ」

「真面目に生きてる結果があの変な歌なんだったら、それはそれで問題だと思いますけど」

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