Ogre Battle 39

 

   *

 

「――はい、お湯をかけますよ」

 レバー式の蛇口を動かして、シャワーヘッドから噴き出してきた液体に手を翳す――大体ちょうどいい温度になったところで、フィオレンティーナは浴用椅子に腰を下ろした凛の頭にお湯をかけ始めた。

 それにしても変わった造りではある――アルカードによるとニセタイジュウタクというらしいが、ひとつの住宅の中に浴室やキッチンがふたつあるのだ。

 ニセタイジュウタクという言葉がどういう意味を持つのかフィオレンティーナにはわからないのだが、どうも二階建ての家の一階と二階で明確なテリトリーわけがなされている様な気もする。

 凛や蘭の子供部屋は二階にあるし、外から直接二階に上がることが出来る様に階段も設置されている――まるで一階と二階で違う家族が住んでいる様な印象も受ける。ただ、二階には凛と蘭の住んでいる部屋以外は家具がなにも無い――今は空き家なのだろう。二階には外から直接入れるが、屋内は施錠可能な階段でつながっていて、普段は開け放されている様だった――今は老夫婦しかいなくて、建物内部すべてを老夫婦が管理しているからだろう。

 ふたつの家族が普段は家の中を明確に分けて生活するためのもの、ということだろうか。

 この家を見る限り、もともとは老夫婦は娘夫婦と同居するつもりだったのだろう――実際のところはそう離れていないところにある父の実家を居宅に定めたらしく、ここには住んでいない様だが。

 こうやって子供たちがしょっちゅう行き来しているくらいなのだから、ここで同居してもいいと思うのだが――まあそこらへんはいろいろ事情があるのだろう。あるいはこれから同居するのかもしれない。

 そう言えば三匹の仔犬を店に連れてきた凛と蘭とはじめて会ってから、もうだいぶ経つ――ふたりが仔犬の入った段ボール箱を引きずって店にやってきたとき以来だから、一ヶ月半ほどか。否、長いつきあいというわけでもないが、子供たちの両親を一度も見かけたことが無いのが不思議な程度には長いと言えるだろう。当時のフィオレンティーナは老夫婦の店で働くことになってからまだ一ヶ月足らず、子供たちと出会ってほとんど経っていないフィオレンティーナがずけずけと尋ねるのも僭越な気がしたし、アルカードや老人たちも特に話題を振らないので、なにも知らないのだ。

 どんな人なんだろうと思いつつ、フィオレンティーナは浴室の天井に視線を向けた。

 二階の同じ位置にあるもうひとつの浴室で、今頃パオラが蘭を風呂に入れているだろう。子どもたちは四人で一緒に入りたがったが、四人一度に入るには浴室が狭すぎたのだ。

「ねえ、凛ちゃん」 凛の金髪につけたコンディショナーが完全に流れたところで、フィオレンティーナは凛に声をかけた。

「なにー?」 浴槽に移動しながら、凛がそう返事をしてくる――フィオレンティーナはボディソープのボトルに手を伸ばして手元に引き寄せながら、

「凛ちゃんのお父さんとお母さんは、今なんのお仕事をしてるんですか?」

 という質問は、夕食のときのアルカードと子供たちの会話を踏まえてのものだった――長いこと家を空けている子供たちの両親から今帰宅の途についているのだという連絡があったと、アルカードが子供たちに話していたのだ。

「よく知らない。ビルとかのセッケイの仕事だって」

 漢字がまったく読めないので――最近になって漢数字くらいは読める様になってきたが――セッケイという単語の意味がわからないフィオレンティーナにはまったくピンとこなかったけれど、まあつなげたい会話はそこではないので気にしないことに決める。ビルというのはつまり建築物ビルのことなのだろうから、建設関係の仕事ではあるのだろう。フィオレンティーナはボディソープをスポンジに取って泡立て、それで腕をこすりながら、

「お父さんはいつも、おうちにいらっしゃらないんですか?」

 たぶん祖父母と孫の様に複数が同時に入浴することや介護も視野に入れているのだろう、半身浴も出来る二段構造になった湯船の浅い段に腰かけて、凛は小さくうなずいた。

「うん。お仕事が休みになると、時々帰ってくるんだけどね」 アメリカとかに行っちゃうこともあるから、と凛が続けてくる。

「引っ越しばっかりしてると友達が出来にくいからって、凛たちはここに残ってるの。そんなに何年もいなくなるわけじゃないし」

 普段はパパのおじいちゃんちに住んでるんだけどね――凛がそう続けてきたので、フィオレンティーナは体についた泡を洗い流しながら凛に視線を向けた。凛と蘭の父方の祖父母が健在なら、この子たちが両親の不在時にチャウシェスク邸に預けられる理由など無いはずだ。

 フィオレンティーナの疑問を察したのか、凛はこう答えてきた。

「おじいちゃんはね、パパにおうちをあげて、静岡県に行ってるの」 今はパパがおじいちゃんちで暮らしてるの、と凛は続けてきた。

「おうちをあげた?」 シャンプーのボトルのノズルを押してシャンプーを手に取りながらそう尋ね返すと、

「うん。どうしても豚さんとかを飼う農家――ちくさんっていうんだっけ?――をやりたいからって、おじいちゃんが『ていねん』でお仕事辞めてからそっちに引っ越したの。死んじゃったおばあちゃんが子供のころから、ずっとそれをしたかったんだって――おばあちゃんは死んじゃったけど、だったら俺だけでもその夢を実現するぜって言って」

 つまり豚の畜産農家か――ていねんってなんだろう。胸中でつぶやいて、フィオレンティーナは凛に続きを促す様に視線を向けた。

「おじいさんはそれまで、なんのお仕事をしてたんですか?」

「えっとねえ、うんとえらいおまわりさんだって言ってた。けいしちょうふくそうかんとかって言ってたけど、よくわかんない」 上目遣いで天井を見ながら、凛がそう答えてきた。当然フィオレンティーナにもよくわからないので、そこらへんは気にしないことに決めて、泡立てたシャンプーで髪を洗い始める。

「おじいさんは、お仕事が変わる前はこの近くに住んでたんですか?」 もう一ヶ月半ほど前の話になるが、以前凛と蘭がふたりで店に仔犬を連れてきたとき、彼女たちは家にいる母親から仔犬を棄ててくる様にと言われて老夫婦の店に来たのだ――子供にとっては大荷物であろう仔犬の入った段ボールを引きずった子供の足でも来られるくらいだから、父方の実家からこの家まではそう遠くないはずだ。

「うん。ほら、ショッピングセンターに行く途中にコンビニあるでしょ? あそこを左に曲がっていった先」

 はざま西か――髪についたシャンプーの泡をシャワーで洗い流しながら、フィオレンティーナは凛の言葉に胸中でだけ納得した。ショッピングセンターに行く途中、右手に近隣の有力者の邸宅だという日本家屋、左手の手前にコンビニエンスストア、向こう側に機械化された有料駐車場のある丁字路の交差点を、アルカードが硲西と呼んでいた。ショッピングセンターのある幹線道路に行くまでの間にコンビニはその一軒しか無いので、彼女が言っているのはそこを左折していった先だろう――実際に行ったことは無いが。

 目を閉じたまま手を伸ばしてコンディショナーのボトルを探していると、凛がボトルを差し出してくれた。

「凛のおじさん――パパのお兄ちゃん――は『かんりょう』っていう仕事をしてるから家にいなくて、亮輔おじちゃんはおばちゃんのおうちに住んでるからパパがおうちをもらうことになったんだって。今はお兄ちゃん、あ、パパの一番下の弟なんだけど、兄ちゃんと一緒に暮らしてるよ。パパとお母さんが『しゅっちょう』してるから、今はお兄ちゃんがひとりで住んでるけど」

 つまり、凛たちは父親が祖父から相続した自宅で、両親と叔父と一緒に住んでいるということなのだろう――現時点での登場人物は父方の祖父、『かんりょう』という仕事をする伯父、昼間あった本条亮輔という医者の伯父(叔父かもしれない)、父親、それに父親の末弟という叔父。両親が家にいなくても叔父がいるのにこちらに預けられているということは、多忙な仕事にでも就いているのだろうか。おじさんではなくお兄ちゃんと呼ぶということは、かなり若いのかもしれない。

「そうなんですか――」 髪についたコンディショナーの泡を洗い流して、フィオレンティーナは浴槽に爪先を差し入れた――浴槽のお湯の温度設定が家人の誰かの好みなのか、夏場の風呂にしては少し熱い。立ち昇る湯気が浴室全体にもうもうと立ち込めて、少し温度が低めのサウナの様だ。

 汗を流したばかりの肌に再び汗が噴き出すのを感じながら、フィオレンティーナは浴槽のお湯を手で掬って肩にかけた。

 肌を伝ったお湯が胸のふくらみを伝って、浴槽に流れ落ちていく。

 腰元までお湯につかる高さの湯船の中の段差に腰かけたまま膝をかかえる様な仕草をして、凛が続けてきた。

「おじいちゃんはまだ元気だけど、おばあちゃんは凛が生まれたときに死んじゃった」 おじちゃんが働いてる病院だったんだけど――凛がそう続けてくる。

 おじちゃんというのが本条亮輔、昼食を取るために入った蕎麦屋で会ったあの双子の子連れ夫婦の夫のほうだとすれば、凛が産まれた病院はライル・エルウッドが入院していたあの大きな病院なのだろう。

 これ以上立ち入ったことを、聞いてもいいものだろうか――迷っているフィオレンティーナにかまわずに、凛は続けてきた。

「おじいちゃんと一緒に病院に行く途中で、事故に遭ったんだって。雨の日だったんだけど、交差点で信号待ちしてるところに、トラックが曲がってきてぶつかったんだってアルカードが言ってた」

「アルカードが?」

「うん。凛が生まれたときに、アルカードもおじいちゃんとおばあちゃんとお姉ちゃんを車に乗せて、パパのおじいちゃんとは別の車で病院に行く途中だったの。スピードを出しすぎたトラックが交差点を無理矢理曲がろうとして、曲がれなくておじいちゃんの車に突っ込んできたんだって、パパが言ってた。アルカードの車もパパのおじいちゃんと一緒の道路を走ってたけど、何台か後ろで信号待ちしてて、どうしようもなかったって」

 つまりアルカードの運転するアレクサンドルとイレアナ、それに蘭を乗せた車は凛の父方の祖父の車の後ろで信号待ちをしていたのだろう――二度ほど行ったことがあるからわかるが、ライル・エルウッドが入院していた(つまり、亮輔の勤務先の)病院はショッピングセンターの斜め向かい、幹線道路沿いにあって、交通量がかなり多い。

 シスター舞に連れられて病院に行った日(つまりアルカードとショッピングセンターではじめて出会った日のことだが)の帰り道でも、高架道路下の交差点のところで事故が起こって運転手同士が喧嘩をしていた――後日今度は衣料品や冷蔵庫、洗濯機などの最低限の必需品を購入し、アルカードの運転するレンタルトラックでショッピングセンターから帰る途中、その交差点を通ったときにもやはり事故が起きて喧嘩をしている光景を見かけたが。

 アルカードが言うには完全に歩車が分離されているのだが、信号の点燈時間その他の関係で車が無茶な突っ込みをしやすいらしい。アルカードの口ぶりでは、それだけが原因というわけでもなさそうではあったが。

 雨で視界が利かない日に数台車を間に入れて距離を隔てた後方で、しかも車の中にいたのでは、さしものアルカードもどうしようもなかったのだろう。

「おばあちゃんはお母さんが入院してたのと同じ病院に運ばれて来て、生まれたばっかりの凛の顔を見てから死んじゃったんだって」

「それは悲しいですね」 フィオレンティーナは手を伸ばして、かたわらの凛の肩をそっと抱いた。出生直後の自分の顔を見るために病院に向かっていた祖母がその道中の事故で亡くなったと知ったら、やはり生まれてきた子は悲しいだろう。

 孫の顔を見たうえで逝けたことだけが、せめてもの救いというところか。

 フィオレンティーナは凛の背中に両腕を回して、こちらの胸元にギュッと頭を押しつけてくる凛の背中を優しく抱き寄せた。それで両親もしょっちゅう家にいなかったら、子供たちはきっとさびしい思いをしているに違い無い。

 フィオレンティーナの胸元に顔をうずめて、凛がちょっと笑う。

「でも大丈夫、さびしくないよ。おじいちゃんたちもアルカードもお店の人たちも、みんないるから大丈夫」

 お姉ちゃんもいるしね、背中に手を回しながら、凛はそう続けてきた。

「凛ちゃんは強い子ですね」 濡れそぼった髪をそっと撫でてやると、凛は少しだけくすぐったそうに笑った。

「お姉ちゃんは?」

「え?」 不意の問いかけだったので意味がわからずに問い返すと、凛はフィオレンティーナの胸元に顔をうずめたままささやく様な声で、

「お姉ちゃんのパパとかママは?」

「わたしの家族は亡くなりました。両親と、それに妹も――もう何年も前の話です」

「じゃあお姉ちゃんも強い子だね」 その言葉に、フィオレンティーナは少しだけ口元をゆるめた。

「そうだといいんですけど」

「うん、きっとそうだよ」 そう言って、凛が妙に落ち着いた手つきでフィオレンティーナの背中をぽんぽんと叩いてから、再びフィオレンティーナの胸元に顔を埋める。フィオレンティーナは赤ん坊をあやすときの様に凛の背中を軽く叩きながら、右手で凛の髪をそっと撫でた。

「でもね、あとはお姉ちゃんがアルカードと仲良くなってくれたら凛はうれしいな」

「え?」

 フィオレンティーナの胸元に顔をうずめたまま、凛がもぞりと身動ぎする。

「お姉ちゃん、いっつもアルカードに怒ってばっかりでしょ?」

「うーん……」 返答に窮しながら、フィオレンティーナはアルカードとの昼間の遣り取りを脳裏に思い描いて眉をひそめた。

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