Ogre Battle 33
*
ごう、と音を立てて吹き抜けていった突風で土埃が舞い上がり、それが目に入りそうになって彼は顔を顰めた――身を預けた精悍な黒馬が同じ様に目に埃でも入ったのか、頭を振って低いいななきを漏らす。
手を伸ばして牝馬の首を撫でてやり、ヴィルトール・ドラゴスは再び視線を前方に戻した。
雲ひとつ無い空から降り注ぐ夏の真昼の太陽が、視線の先で雲霞のごとくに群れた騎士どもの甲冑に反射してきらきらと輝いている。
高々と掲げた
それだけではない――騎兵部隊の旗も見て取れる。おそらくは戦力の減ったイェニチェリとどこかの騎兵部隊が指揮権を統合して、混成部隊として行動しているのだろう。
彼のかたわらまで馬を進めてきた兵士のひとりが、少しだけ溜め息をつく。
「かなりの数ですな」 文字通り生まれたときから知っている古参兵の言葉に、弱冠十七歳のヴィルトール・ドラゴスは小さくうなずいた。
「ああ」 物量で圧倒的に上勝るオスマン軍の兵力としては、少ないと言えなくもない――だがそれよりもさらに圧倒的に兵数の少ないこちらからすれば、劣勢を強いられるのは確実だった。
「そうだな」
普段であれば、彼はヴィルトールに対して下手に出た言葉遣いなどしない――実戦経験で言えばはるかに豊富なこの古参兵はただ単に優秀な兵士だというだけでなく、ヴィルトールにとっては養父の友人でもあり基礎訓練を受けた師のひとりでもあるからだ。
「総数は三千――イェニチェリの
「
「わかりました」 その返事を確認して、ヴィルトールはかたわらで轡を並べた古参兵と拳の甲を軽く打ち合わせた。
ヴィルトールは背後を振り返り、そこに並んだ兵士たちのほうを見遣った。ほとんど無補給状態での長い戦でろくに手入れもされていない装備を身につけた、二百人そこそこの寡兵。
彼の養父の直属指揮下にあった部隊の兵士がそのうちの半数、残りは散り散りになっていたところを纏め上げた他部隊の兵士だ。
「お父上はお屋敷にご無事で帰り着きましたかな」
「さあな――だがここからじゃ、ここにいても屋敷にいてもたいして変わらん。俺たちがここで負ければ結果は同じだ」 古参兵の言葉に、ヴィルトールはそう返事を返して、彼に視線を向けた。
「すみません、ニコライさん――つまらない意地張りにつきあわせて」
「かまやせんよ、ヴィー坊――さあ行きましょう、隊長」 その言葉にうなずいて、ヴィルトールは馬の横腹を踵で軽く押した――体重を預けた馬が、ゆっくりと歩を進める。両軍がどうにかこうにか声が届く距離まで近づいたところで、前方に集結した指揮官と思しき恰幅のいい騎兵のひとりがこちらに誰何の声を発した。
「何者か」
「ワラキア公国軍の当残存部隊隊長、ヴィルトール・ドラゴスだ――貴軍の将の御名を伺いたい」 ヴィルトールが流暢なトルコ語でそう答えると、言葉がわからないものと侮ってこちらの返事を期待してはいなかったのか、男は感心した様に少しだけ眉を上げた。
「当部隊隊長ルステム・スィナンである――指揮官にしてはずいぶん若いな」 そんなに人材がいないのかね? 揶揄する様なその問いかけに気色ばむ部下たちを手で制し、ヴィルトールは適当に肩をすくめた。
「あいにく、俺より指揮権が上の者がいなくなってしまってな」
「なるほど。で――降伏する意思は?」
「無論無いさ」 それを聞いて、ルステム・スィナンと名乗った男はうなずいた。
「この戦力差を前にしても、一歩も引かぬその度胸は買う――だが、もはや我らの進撃を止めるすべは無いぞ」
「さあ、どうだろうな」 揚げ足を取る様なその返答に、スィナンは一瞬眉をひそめたあと、左手をいったん掲げてからまっすぐこちらに伸ばした。
「――
鬨の声をあげて、それまで待機していた歩兵や騎兵が押し寄せてくる。
「行くぞ――敵は三千そこそこだ、ひとり十二人殺るだけでこっちの勝ちだぞ!」
声をあげて、ヴィルトールは馬の鞍に取りつけていた鞘から身の丈ほどの刃渡りの長剣を抜き放った。
押し寄せてくる兵士どもの頭上を越えて、ざぁっという音とともに無数の
降り注いでくる箭を横薙ぎに振るった長剣の一撃で叩き墜とし――ヴィルトールは馬の腹を踵で押した。それに応えていななきをあげ、愛馬が地を駆ける。
側対歩で走る彼の黒馬は振動こそ激しいものの、速度はそこらの駿馬と比較にならない。文字通り人馬一体となった騎馬は仲間さえも置き去りにして――しかしその代わりに敵陣にいる誰の予想も上回るほどの速さで敵陣へと斬り込んだ。
ひとり一騎駆けを挑んだヴィルトールと背後から続く仲間たち、どちらの対処を優先すべきか決めかねた射手たちが火縄銃の照準を定めるいとますら与えぬまま、彼は敵の先陣に斬り込んでいた。
「
馬の首と右腕、それに胴の半ばを薙がれた騎兵が平衡を崩し、転倒した馬の背中から落馬しながら悲痛な絶叫をあげる――だが転落した際に首の骨でも折れたのか、その絶叫はすぐに途絶えた。
やや遅れて突っ込んできた騎兵数人が、槍や剣を翳して接近してくる――だが遅い。一撃目を目にしてもなお、彼らはヴィルトールと彼の愛馬の突進速度を甘く見ている。
「
うなりをあげて襲いかかった彼の愛剣が間合いに入った騎兵の首を刎ね飛ばし、斬撃の軌道に巻き込まれて叩き折られた長剣の刃がくるくると回転しながら宙を舞う――回転の角度が変わるたびに刃が時折太陽の光を反射して、視界の端できらきらと輝いた。
じっくり見れば、それはそれで美しい光景だったのだろうが――その光景に見惚れている暇は無い。彼はそれ以上かまわずに、うめき声をあげる別の騎兵に殺到した。
「こ、このぉっ!」 おそらくこちらの攻撃に対処するためだろう、手にした長剣を振り翳した騎兵の一撃を水平に振るった一撃で弾き飛ばし――体勢を崩して落馬するその騎兵には、それ以上の追撃はかけない。どうせ落馬の際に首でも折るだろう。よしんば生き延びても、骨折は免れまい。とどめは仲間が刺してくれる。
ヴィルトールはさらに二度、三度と剣風を奔らせて突進の障害になる数騎を斬り斃し、そのまま先陣の一団を駆け抜けた。
残りの連中は後続の仲間に任せておけばいい――ヴィルトールの最初の行動目標は、敵の先陣の連携を崩してしまうことだ。ヴィルトールは先陣を斬り抜けると、そのまま馬首を返して第二の標的、イェニチェリの
ルステム・スィナンをじかに狙ってもいいのだが、
馬の腹を踵で押すと、それに応えて黒馬がさらに速度を上げた――それに比例して揺れもさらに激しくなるが、どうというほどのことでもない。ヴィルトール・ドラゴスとともに戦場を駆け抜けてきた駿馬だ――本気で駆ければ、その影以外に追従出来るものは無い。
イェニチェリの
本来であれば数人がかりとはいえ持ち歩くことの出来る大型の楯があるはずなのだが、これまでの戦闘で失ったのだろう。
馬鹿が――そんなものがどれだけ役に立つ?
こちらの突進が予想以上に速かったからだろう、
仲間に先んじて射撃準備の整った
騎兵用の長剣を手放して丸腰になった騎兵の突貫をその一弾で阻止出来るものと確信していたらしい
誰が予想するだろう――照準を定めて発砲したその銃弾を、眼で見て躱す男がいるなど。
同時に愛馬の腹を踵で押して、馬の進路を変える――敵がこちらに照準を向けた以上、直進での突貫は危険だ。一発や二発ならヴィルトールは動体視力と反射神経だけで銃弾を躱せるが、態勢の整った
複数の
そんな邪魔臭い楯など用意するから――ちょっと射撃方向を変えるだけでおたおたしなくちゃならんのだ、間抜けども!
胸中でつぶやいて、彼は長剣の代わりに鞍に固定した雑嚢鞄の中からいくつかの塊を取り出した。
取り出したのは紐を取りつけた拳大の塊で、紐の一端が固定されて振り回せる様になっている――紐の末端を握って振り回し、ヴィルトールは後続の味方に向けて隊列を整えていた連中が接近してくる彼に対応するために隊列を崩し始めている只中に、遠心力で勢いをつけた塊を次々と投げ込んだ。
今日は乾燥して風がほとんど無い――ちゃちなおもちゃの様な武器ではあるが、彼の目論みどおりに行けば十分に役に立つ。石くれの様に手で投げるのではなく一端を接続した紐を振り回して投擲するその塊は、事前に投擲の練習を重ねたこともあってそれなりに距離が開いていても十分に届くからだ。
いくつもの塊が黒い粉塵を撒き散らしながら射手隊の頭上に降っていき、彼らの軽装甲冑や丸太の防塁に当たってぱりん、がちゃんと音を立てて砕け――彼らの周囲を黒い煙の様なもので包み込む。
次の瞬間だった。
爆発音が乾燥した空気を震わせ、彼らを包み込んでいた黒い煙の様なわだかまりが瞬時に炎上したのだ。
炎に巻き込まれてイェニチェリの兵士たちが悲痛な悲鳴をあげ、彼らが携行していた装薬用の黒色火薬が爆発したのか、白い煙の中から爆発音と悲鳴が聞こえてくる――それを確認してヴィルトールは馬首を返し、白煙立ち昇る火縄銃部隊の陣形に斬り込んだ。
ヴィルトールが投げつけたのは、部隊の手先が器用な者たちがここ数日かけて作った拳大の小さな壺に炭鉱で掘り出してきた石炭と鹵獲した火薬、雑穀類を挽いた粉を混ぜたものを入れて布や革で蓋をしたものだった。
壺の中には石炭と雑穀の粉は石臼で丁寧に挽いて細かな粉末状にし、そこに敵から鹵獲した装薬用の火薬を混ぜたものが入っている。
火薬だけをなにかに詰めて投擲用の爆弾にでもしようかとも思ったのだが、動きながら点火するのが難しそうだったのでやめにしたのだ。どのみち彼らには導火線が用意出来ない。ならばこちらのほうがいいだろう。
高い位置で壺の中身が撒き散らされれば、内部に入っていた細かな粉塵が空気中に漂うことになる――イェニチェリが装備している
そこに大量の粉塵が降り注げば、どうなるか――
舞い上がった粉塵が
石炭そのものは瞬時に燃え尽きてしまうだろうが、それで問題無い――この天候なら衣服は乾燥しているから簡単に燃える。それにイェニチェリの
ドカァンという爆発音に、ヴィルトールは目を細めた。種火で点火された粉塵が炎上した際の炎が、彼らが用意していた火薬の樽にまで届いたのだろう。今日は雨の気配は無いから、彼らは火薬の樽にいちいち蓋をしたりはしていなかっただろう――安全対策上はすべきだったのだろうが、これから銃撃戦を始めるという状況でいちいち蓋を取って蓋をしてということはすまい。
結果、樽の中の火薬が一気に燃焼して爆発が起こったのだ――ひとつが爆発すれば、その爆風と炎はかなり遠距離まで届いて別の火薬の樽も巻き込む。結果としてかなり広範囲を加害するのだ。
イェニチェリの
激痛と恐怖で恐慌状態に陥りながらもなんとか火を消そうと地面を転げ回っているその素っ首を、ヴィルトールは長剣の一撃で刎ね飛ばした。
「ひとぉつ!」 ヴィルトールは黒馬を駆って倒れた防塁を跳び越えさせ、騎兵用の長剣を抜き放って
先ほどの粉塵爆発に巻き込めたのは全体の二割ほど――だがすっかり泡を喰った兵士たちは動きの速い騎兵に照準を合わせるいとまも無いまま、ヴィルトールの斬り込みをまともに受けることになった。
まあ当然だろう――爆発が起これば危険なことは理解出来ているだろうし、目の前に火だるまになった友軍射手がいれば混乱に陥るのも無理は無い。
だが――逃がしはしない。ひとりも逃さぬ――ここで全員を潰さなければ、この戦闘に
「
「うぁぁぁっ!」 腕を斬り落とされた兵士が悲鳴をあげながら、地面を転がる様にして逃げ出し――
「逃げるな、戦え!」 そいつが
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