The Otherside of the Borderline 44
†
ぐるぐるとうなり声をあげながら、笠神は左目を獣毛に覆われた手の甲でこすって血を拭い取った――先ほど奪われた太刀、
眼前にいる金髪の男は唇をゆがめて笑いながら、実に手慣れた仕草で細雪を構えた――先ほどの黒禍と紅華の扱いもそうだったが、まるで長年使い込んだ愛用の獲物であるかの様な習熟度だ。
しぃぃぃっ――刃の間から息を吐き出しながら、金髪の男がすっと目を細める。
「
咆哮とともに――眼前の金髪の男が地面を蹴った。
押しのけられた空気が音を立て、一瞬でこちらの間合いを侵略してきた男の口元にかすかな笑みが浮かぶ。
速い――!
地面を削り取りながら繰り出された寄せ斬りを、笠神は振り下ろした鉤爪で受け止めた――次の瞬間、細雪の刃と噛み合った四本の鉤爪が火花とともに斬り飛ばされる。
なに!?
振り抜いた太刀を頭上で旋廻させて、金髪の男が袈裟掛けの一撃を繰り出してきた――それをあわてて躱す。笠神の鉤爪をほとんど衝撃すら与えずに斬り飛ばす様な相手だ、まともに撃ち合うのは危険すぎる。
いったん後退して体勢を立て直し――斬撃の勢いを殺しきれずにこちらに背中を向けた男の背中に向かって渾身の一撃を繰り出すより早く、そのまま回転を続けてこちらを肩越しに振り返った男の口元にかすかな笑みが浮かんだ。
「
否、違う――彼が蹴ろうとしたのは笠神ではない。
先ほど斬り飛ばされ、いまだ宙を舞っていた笠神の右手の鉤爪四本だ――金髪の男の繰り出した蹴りに弾き飛ばされて一直線にこちらに飛んでくる。
跳躍するために重心を沈めた直後の今の体勢では、回避は難しい――親指にだけ残った鉤爪でそれらを弾き飛ばした瞬間、鉤爪に注意のそれたこちらの隙に乗じて金髪の男が地面を蹴った。
振り下ろされてきた太刀の刀身を、躱し切れずに右腕で受け止める――衝突の瞬間に筋肉を締めると、収縮した筋肉に絡め取られた刃の喰い込みが止まった。そのまま一気に押し返そうとするより早く、ふいに衝撃と激痛とともに右目の視界が失われる。
男が口に含んだなにかを含み針の様に吹きつけたのだと気づくより早くブーツの爪先に下顎を蹴り上げられて、笠神は上体を仰け反らせながら小さくうめいた。
もともとライカンスロープは鼻面が邪魔になって、実はかなり視界が狭い。それでも敵対する者にとって脅威になっているのは、瞬発力とパワーでごり押しが出来るからで――逆に言えば、身体能力的に互角以上の相手であれば、戦い方次第ではライカンスロープの獣化形態はまったく利点にならない。
この男はそれがわかっている――最接近した場合、ライカンスロープは下段からの攻撃にほぼ対応出来ない。鼻面が邪魔になって目線よりも下、人間の姿であれば見えるはずのものが見えないからだ――この男はライカンスロープの利点も欠点も、それに合わせた戦い方も熟知している。
筋肉に喰い込んで止まった細雪の刃が、顎を蹴り上げられて筋肉が緩んだ隙に力ずくで引き抜かれ――次の瞬間にはわずかに踏み込んだ男が、軸足を回転させながら横蹴りを繰り出してくる。
普通ならそんなもの、電柱に蹴りを入れる様なものだろう――重量に差がありすぎる。だが次の瞬間、繰り出されたその横蹴りは両腕を交叉させてガードした笠神の体を易々と吹き飛ばした。
なん――だと!?
後方にあった公営住宅の外壁に、再び背中から叩きつけられる――背中の痛みにうめく間も無く視線を向けるも、すでに男はそこにはいない。
つい先ほどまで彼がいたあたりの地面で、土埃が舞っている――だがそれだけだ。
彼の動きが理解出来たのは、公営住宅の建物の間の講演を照らす常夜燈の光が彼の体によって遮られたからだ――照明のポールがそこらの街燈の二倍くらいの高さがあり、そのために光源の位置が高かったのが幸いした。そうでなければ気づけずに、頭蓋を叩き割られていただろう――高々と跳躍し、太刀を大上段に振りかぶった男が嗤う。
次の瞬間、オレンジ色の軌跡を描いて闇夜を引き裂きながら振り下ろされた太刀が咄嗟に翳した鉤爪と激突する。先ほどと同様鉤爪は易々と叩き折られたものの、軌道を変えることには成功した。
横に流れた刀身に引っ張られて体勢を崩した男のがら空きの脇腹に、渾身の打撃を叩き込む――大人の頭ほどもある巨大な拳で脇腹を殴りつけられ、男の肋骨が何本か折れる感触が伝わってきた。
激痛に顔を顰め、吹き飛ばされながらも――信じられないことに、男がそのまま反撃を繰り出す。有効打を一撃入れた直後で油断していた笠神の左腕を、男が手にした細雪を振るって下膊の半ばから切断したのだ。筋肉と骨の切断される厭な感触とともに、左腕に激痛が走る。
くるり――と空中で一回転して、金髪の男が危なげ無く地面に着地した。空いた左手で口元から伝い落ちる血を拭い、口の中に残った血を唾と一緒に吐き出して、ゆっくりと嗤う。
油断無くそれを見ながら、笠神は地面に落ちていた肘の先から斬り落とされた左腕を拾い上げた。傷口を接合させるとたちまちのうちに癒着が始まり、指先の感覚が戻ってくる。
笠神は試す様に指を二、三度動かして、金髪の青年に視線を据えた。
†
攻撃を受けて吹き飛ばされたときには、折れた肋骨はすでに完治している――自動車に撥ねられたみたいに空中を舞いながら、アルカードは体勢を立て直して足から地面に着地した。
一時的なものではあったが折れた肋骨が肺を傷つけて、喉の奥から血塊がこみ上げてきている。アルカードは口の端からあふれ出した血を乱暴に左手の甲で拭い去り、口の中の血は唾と一緒に足元に吐き棄てた。
笠神に視線を向けると、彼は油断無くこちらに注意を向けながらも、切断してやった腕を拾い上げて傷口同士をくっつけている――咄嗟のことだったのでたいした魔力は込められなかったが、それでもすぐには完治しないだろう。癒着はした様だが、完全に神経がつながるまでには時間がかかるはずだ。
とはいえ、元になった個体が人間ではなくライカンスロープであるためか、早くも指がある程度動かせる様になっているらしい。握力が完全に戻ってはいない様だが、それでも――
でかい図体してるだけあってタフだな――そこらの野良吸血鬼とは違うかよ。
上等――軽く柄を握り直すと同時に太刀の刃が帯びた魔力が漣の様なざわざわとした感触とともに励起し始め、白銀の刀身が青白い光を帯びて電光をまとわりつかせる。
なら、腕がつながる前に――胸中でつぶやいたとき、咆哮とともに笠神が地面を蹴った。
笠神が鈎爪の間合いに入るより早く、アルカードは太刀を振るい――異変が起こったのは、そのときだった。
†
鉤爪を再生させながら、笠神はいつでも動ける様にわずかに重心を下げた――あれは本物の怪物だ。今は棒立ちになっているが、その気になれば瞬きひとつぶんの時間もかけずにこちらの間合いを侵略し、首を落としにくるだろう。
あっという間に体勢を立て直し――こちらの殴打で骨折した肋骨は、着地するよりも早く完治しているらしい――、金髪の青年が地面を蹴った。
金髪の男が太刀を手にした右手首を軽く返し――同時に長大な刃が青白く輝き、絶縁破壊の際のバチバチという音とともに周囲に電光がのたくる。りいんという鈴を鳴らす様な音が、かすかに聞こえた様な気がしたが――
なにか攻撃を仕掛けるつもりでいるのだ。ならば――先手必勝あるのみ。
胸中でつぶやいて、笠神は地面を蹴った。どんな攻撃かは知らないが、出力を高めるためにチャージが必要な攻撃なのだろう。
ならば態勢が整うより早く、鈎爪で串刺しに――
眼前の金髪の青年が、血の様に紅い目をすっと細めるのが見えた。唇の端がめくれ上がり、薄い笑みが覗く。
――しまった!?
振り翳した頭上に雷華を纏う太刀――細雪を金髪の青年が予想よりもずっと早く振り出したのを目にして、笠神は致命的な失策を悟って小さくうめいた。予想していたよりもはるかに遠い間合い。こちらへ接近する様な挙動は見せていない――笠神の疾走では、斬撃動作が終わる前に彼の間合いに入らない。
思ったよりもずっとチャージが早い――否、そもそもチャージなど無くてもある程度の威力は引き出せるのかもしれない。なによりこの距離で攻撃動作に入ったということは、接近戦を想定した攻撃ではない。
なにかを飛ばす攻撃だ――このままでは笠神の間合いに入るよりも早く、金髪の男の攻撃が発生する。
袈裟掛けの軌道で振り抜かれた太刀の刃が薙いだ空間が、まるで爆鳴の様な巨大な轟音をひしりあげる――同時にその太刀筋に沿ってまるでそこだけ急激に気圧が変化したかの様に風景が歪んで見え、なにか強烈な衝撃波の様なものが押し寄せてきた。
なんだと――
疾走を始めてしまったために、回避体勢を取ることも出来ない――走行の軌道を変えて回避するには、攻撃範囲が広すぎる。
――間に合わん!
走行体勢に入って前傾しすぎているために、跳躍で回避することも出来ない――跳躍しても踏ん張りが効かないので、高さが不足して脚を薙がれる。あれがどんな攻撃かは知らないが、文字通り足元をすくわれて動けなくなったらそれまでだ。
舌打ちをひとつして、笠神は一瞬で覚悟を決めた。
跳躍して衝撃波を躱す。おそらく脚はやられることになるだろうが、前方に跳べば、おそらく笠神の鈎爪の間合いの内側で墜落することになるだろう。金髪の男が次の攻撃に移る前に、鈎爪の攻撃で男を仕留める。
だが――衝撃波を跳び越えるために地面を蹴るより早く、押し寄せてきていた衝撃波が唐突に消滅した。
男が消したわけではない――本人にとっても予想外のことだったのだろう、男の表情に驚愕が貼りついている。
なにが起こったのかは知らないが――笠神はその瞬間を見逃さなかった。
必殺のはずの攻撃が突然失敗したことによる驚愕で一瞬動きを止めた男に向かって、左手の鈎爪の一撃を突き出す。砕かれた左腕の骨格が治りきっていないために思っていたよりはるかに遅い攻撃を、男は体を仰け反らせて躱した。事態を悟ったのか、表情をゆがめている。舌打ちを漏らすのが聞こえた、だが驚愕のために反応が遅れ、体勢が崩れた今の状態からでは次撃は躱せまい。
勝利を確信して、右腕の鉤爪を突き出す――驚嘆すべきことに男は自分なら間違い無くまともに食らっていたであろうその攻撃を、剣を振り抜いた直後の前傾した体勢から後方に跳躍して躱してみせた。
だが後退したはいいが――次の瞬間男に向けた親指の鉤爪が六メートルほどまで高速で伸長し、その尖端が男の腹を貫く。
背中まで貫通するより早く、男が右手で保持した太刀を振るい――その一撃で鉤爪を叩き折られ、笠神は右腕を引き戻した。
左手の神経や筋肉、皮膚が完全に癒着し、はっきりした感覚が戻ってきている。踏み込みながら左手の鉤爪を伸ばして男に向かって叩きつけると、男は手にした太刀でその一撃を受け止めた――だが伸ばさずにいた親指の鉤爪が高速で伸び、男の顔を狙う。
男が身をよじってその一撃を躱し――しかし躱しきれずに、頬がざっくりと裂けて血が噴き出す。次の瞬間そちらに注意を向けていた男の体が、胸めがけて叩き込んだ左拳の一撃をまともに受けて吹き飛んだ。
同時にようやく治癒した左腕に強烈な激痛を感じて、笠神は弾かれた様に後退した――先ほど切断された鈎爪の一本が、肘裏のあたりに突き刺さっている。おそらくこちらの撃ち込みに合わせて、腹に突き刺さっていた鈎爪の一本を引き抜いて突き刺してきたのだろう。
金髪の男はそのまま足から着地し、数歩後退して間合いを取り直した。
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