The Otherside of the Borderline 40

「お腹が空いていたのだもの。喉も渇いていたし。最初は手近に倒れていたアハロンの血を吸ったんだけれど。死体の血ってなんだか不味いのよね。屋敷の中を探していたら、兄様と一緒になって、ふたりでここに来たら母様がまだ生きていたから、とりあえず美味しく戴いたってわけ」

 これは――なんだ? あの虫も殺せない様な性格の、モニカが口にしている科白なのか?

 眩暈に似た感覚を覚えながら、彼は一瞬だけ部屋の中を見回した。床に倒れているのはひとりだけ――その周囲に人の形をした影がある。彼の膝より少し高いくらいか。ほかには誰もいない――炎に巻かれている者もいない。倒れているのはナディアだ――なら、彼の母はどこに行ったのだ?

 焦燥の中で疑問を思い浮かべたとき、小柄な影がこちらを振り返った。小さな影にはもちろん覚えがある――長い間ずっとオスマン軍と戦い通しだったので、物心ついたあの子とまともに接したことは無かったが。

「……ウジェーヌ……」 その声に、小さな影がはっきりとこちらに視線を据える――その両目が爛々と紅く光っているのを見てとって、ヴィルトールは絶望的な気分で小さくうめいた。

 こちらの注意がよそに逸れたのに気づいたのだろう、こちらが気取るのを遅らせるために声はあげないまま、モニカが床を蹴った。

 普通の人間なら残像も追えない様な動きだったが、どうにもモニカの考えは甘すぎたと言わざるを得ない。

 ワラキア軍最強の剣士に師事し、こと速さにおいては肉食獣をも凌ぐとさえ云われたヴィルトール・ドラゴスにとっては、たとえ魔物に変じた今であっても――否たがいに魔物と化した今だからこそ――モニカの動きは蛞蝓の様に遅かった。

 そちらに視線も向けぬまま繰り出した迎撃の一撃は、今度はモニカが間合いに入るのを待ってから発生していた――右腕を切断されたモニカが、短い悲鳴をあげながら失速する。

 その鳩尾に、ヴィルトールが繰り出した横蹴りが突き刺さった――普通に腕を伸ばせば届く位置にいたモニカの体が、蹴りに押し出される様にして派手に吹き飛び、背後の壁に叩きつけられる。

 相当な衝撃が加わったのか、背後の壁に蜘蛛の巣の様に亀裂が走った――派手に咳込みながらも、モニカがこちらを睨みつける。だがその表情はヴィルトールが踏み込みながら繰り出した斬撃に左腕を斬り落とされたことで凍りついた。

 ヴィルトールの動きには、もはや一瞬の躊躇も無かった――左手を斬り落としたあと旋廻した曲刀の刃が、振り抜かれるままに表情を絶望にゆがめたモニカの首を刎ね飛ばす。

 血染めの寝巻だけを残して消失するモニカを見送りもせぬまま、足元に視線を落とす――脹脛のあたりにしがみついて、幼いウジェーヌが彼の脚に牙を立てていた。石灰化していない脆い牙は甲冑の脚甲に阻まれて、彼の肉を穿ってはいなかったが。

 頭部を曲刀の鋒に貫かれて、ウジェーヌの体が消滅する――こみあげてきた嘔吐感にそれ以上耐えられずに、彼はその場で膝を折った。すでに一度嘔吐していたためにろくに入っていない胃の中身が、喉を通って吐き出される。胃液しか無い内容物を派手に吐き出して、彼は激しく咳き込んだ。

 どこかで水を飲まなければならない――胃酸で咽喉が焼けてしまう。冷静にそんなことを考えている自分に嫌悪感を覚えながら、彼はゆっくりと立ち上がり――

「……ヴィルトール?」 蚊の鳴く様なか細い声に呼びかけられて、振り返る――床に倒れていたナディアが、血の気の失われた顔をこちらに向けていた。

「奥様!」 まだ彼女が生きていたことに対する驚愕を覚えながら、駆け寄って彼女のかたわらに跪く――首筋は真っ赤に染まり、いくつもの牙の跡が穿たれていた。これではもう助からない、戦場で何万もの死者を見てきたヴィルトールの知識が冷静にそう告げている。

「よかった、来てくれたのね……」 彼が眼前で彼女の子供ふたりを殺したことはもはや認識出来ていないのだろう、初老の女性は彼の頬に手を添えて微笑んだ。

 冷たくなった手の感触を頬に感じながら、ヴィルトールはナディアの体を抱き起こした。

「奥様、しっかり」

「ねえ、ヴィルトール。いったいなにが起こったの? さっきここにグリゴラシュが来たの」

 グリゴラシュがここに……? ではまさか、母の姿が見当たらないのは――

「リーゼロッテ――貴方のお母様を連れていったわ。『追いついてこい』、貴方にそう伝えろと言った」

 その言葉に、ヴィルトールは眉をひそめた。もはや表情をはっきり読み取れてはいないのか、彼の表情の変化に気づいた様子も無くナディアが続ける。

「ねえ、ヴィルトール。あの子は一体どうなってしまったの? そのあとここに、ウジェーヌを連れたモニカとアヴラムが来て――」

 そこで咳込むナディアを見ながら、ヴィルトールは唇を噛んだ。

 これが彼女の人生の終焉か――実の子たちに殺されて生涯を終える、なんという最期か。

「御心配無く、奥様。これはきっと夢なのでしょう。少しばかり性質たちの悪い夢を見ているだけですよ――なに、目が醒めればきっとまた朝餉の席でみな待っておりますとも」

 無理矢理に笑みを作ってかけたその言葉に、ナディアが微笑む。

「そうね。さっきから痛みも感じないし。なんだか暗くなってきたわ――もうすぐ夢から覚めるのかしら?」

「そうでしょうとも――ほら、どこかで鶏の鳴き声が聞こえませんか?」

 この人はこんなにも軽かっただろうかと思いながら、ヴィルトールはそう返事をした。ナディアが血色の失われた顔で微笑する。

「そうね――庭の鶏小屋から鳴き声が聞こえてくるわ。こんな時間に――またラルカが暗幕をかけるのを忘れたのかしら?」

「昨日は風が強かったですからね――暗幕が飛ばされてしまったのかもしれません。暗幕の固定の仕方を考えてみたほうがいいですね。朝食が終わったら、ヤコブと相談してみましょう」

「そうね――グリゴラシュや貴方が帰ってきたら、ラルカやイリナが喜ぶわ。ボグダンに相談して、御馳走の用意をしないと――」 そこで言葉が途切れた。力の失われた指が、頬から離れて床の上に落ちる。

「奥様。……奥様?」

 目を伏せて、彼はナディアの体を床の上に横たえた――頬が濡れているのがわかる。意識しないまま、ヴィルトールは泣いていた。

 彼女は血を吸われていた――本人が望んだか否かという点は別として、グリゴラシュも同様に。

 グリゴラシュはなんと言った――『ドラキュラの様になりたいから、頼んで血を吸ってもらった』? 一語一句までは覚えていないが、そんな趣旨のことを言っていた――つまり、ドラキュラに血を吸われるとグリゴラシュや自分の様になるのか。

 館の入口のところにいたゲオルゲも首に噛まれた跡があり、怪物と化して襲ってきた。

 では、彼女は?

 先ほどアドリアンの寝室で目にしたとき、グリゴラシュは明らかに死んでいた――いったん死んだ状態から蘇って動き出したのか。

 だとしたら、ナディアはどうなる?

 彼女もそうなるのか?

 アンドレアはあの寝室の中で、刀傷を負って倒れていた――だが首元に血の噴き出した痕跡もあった。では、アンドレアも今頃――

 否、当面の問題はナディアだ。彼女もこれからグリゴラシュやアヴラム、モニカやウジェーヌ、ゲオルゲ、それにここに来るまでの間に何人か斃した屋敷の住人たちの様に蘇り、血を求めて動き出すのか。

 否――それなら、この館に来るまでの間に目にした同様に血を吸われた遺体たちは?

 背筋の寒くなる様な想像に行き着いて、ヴィルトールは小さくうめいた。ブカレシュティに帰り着いたとき、彼は町中にあった雑貨屋で数人、同じ様に首筋に噛み跡のある店主とその家族の屍を目にした。彼らももしや、今頃は――

 強くかぶりを振ってから、ヴィルトールは脇に置いてあった漆黒の曲刀を取り上げて立ち上がった。

 どういうことなのか、事態はまるで飲み込めない。けれど、やることははっきりしている。眠っている赤子の様に沈黙した、漆黒の曲刀を振り翳し――ヴィルトールは最後に数秒間、足元で横たわる慈悲深かった義母ははの優しげな面差しを見つめた。

「……申し訳ありません、奥様――誰ひとり救ってやることの出来なんだ、この不出来な養子をどうかお許しください」 そして今から、私が貴女様の遺体に加える蛮行も――胸中で付け加えて、ヴィルトールは曲刀を振り下ろした。

 彼女の亡骸を傷つけるのは心が痛んだが、それでも魔物と化した彼女を斬って亡骸も残らない様な有様にするよりは幾分かましだ。

 刎ねられたナディアの首が、その場でころりと転がった――盥に満たした水に短剣の鋒を差し入れたかの様にほとんど手応えも無いまま、曲刀の物撃ちはナディアの頸椎を完全に切断していた。

 どういった条件がそろうとグリゴラシュの様に死体が蘇って動き出すのかは、ヴィルトールにはわからない――だがグリゴラシュに襲われたウジェーヌも蘇っていたということは、ドラキュラに襲われた場合だけそうなるのではないのだろう。

 重要なのは、死体が動き出すという一点だった――先ほど目にした時点では死んでいたという事実は、あてにならない。

 だが、首を切り落とされてはさすがに蘇ることはあるまい――もしこの状態でも魔物に変わる様ならば、これから自分が取る行動は深刻な脅威になるだろう。だが、彼はそれでもナディアの体を抱き上げ、斬り落とした首をかかえ上げた――亡骸が残っているのならば、せめてちゃんと葬ってやりたい。

 黒い曲刀を逆手に持って、開け放したままになっていた扉をくぐって廊下に出る。

 屋敷自体が石造りなので、ナディアの寝室の中で燃え盛る炎は外に延焼はしていなかった。ここに来るまでの間に屋敷内にいた魔物と化した者たちはあらかた斃したので、廊下にはもう誰もいない。

 だが、数はまだはっきりしていない――アンドレアはまだ生き返る、あるいはすでに生き返っている可能性がある。

 噛まれた遺体がまだ残っていたら、なにかしら蘇生を防ぐための処置をすべきだろう。一番いいのは、遺体を徹底的に破壊してしまうことだろうが――

 気が重いが、かといって化け物に変わるのを放置するのも偲びない。とりあえず、ナディアの遺体をどこか安全なところに置いてこなければならない。

 遺体をかかえたままでは戦えないし、なによりすでにこと切れているとはいえ、彼女の眼前で慣れ親しんだ人々を手に掛ける様な真似はしたくない。

 ヴィルトールはナディアの亡骸を抱きかかえたまま、足早に歩き出した。

 

   *

 

 眼前の喰屍鬼グールが咆哮をあげる――それを聞き流しながら、アルカードはわずかに身を引きながら手にしたウォークライを突き出した。

 アルカードが一歩退きながら胸に突き込んだウォークライの銃剣の鋒で踏み込みを止められた女性の喰屍鬼グールが振るった腕が、目の前を水平に薙いでいく。

 それを見ながら、アルカードは背後を振り返った――前方にいた喰屍鬼グールの下腹部に突き立てたままのウォークライを、振り向き様に強振する。前にいた喰屍鬼グールの体を引きちぎりながら斬りつけるつもりだったが、銃剣が背骨に引っ掛かったのだろう。

 一緒くたに振り回された喰屍鬼グールの体を背後から接近していた喰屍鬼グールに叩きつけ、続く一撃でふたりまとめて薙ぎ斃す――ぼきりという手応えとともに衝突の衝撃で背骨が折れ、ウォークライの銃剣を突き立てられたままの喰屍鬼グールの体が腰のあたりから真っぷたつに折れた。

 背後にいた喰屍鬼グールが胴体を薙ぎ払われ、そのまま崩れ落ちる――上半身と下半身を分断されその場で崩れ落ちた喰屍鬼グールを見下ろして、アルカードは小さく舌打ちした。

 胴を薙がれた瞬間に瞬時に灰と化して消滅し衣装だけを残して吹き散らされていく喰屍鬼グールの屍を見送って、アルカードは小さく溜め息をつくとウォークライを肩に担いだ。

 今のところ、例の人間の魔殺しが月之瀬将也と接触した様子は無い。

 喰屍鬼グールの群れともめっきり遭遇しなくなったあたり、彼の配下はなかなかいい仕事をしている様だ――香坂にやられた連中は、まあ運が悪かったのだと思うしかないだろう。

 香坂の死は月之瀬に知られているはずだ――少なくとも、月之瀬が直接あの老人の血を吸っていれば。

 そんなことを考えながら、アルカードは周囲を見回した――滑り台とブランコしかない、公営住宅の棟と棟の間に造られた住民向けの小さな公園。

 厄介なのは主持たずヴァンパイヤントに変化した個体が、少なからずいるであろうことだ。

 主持たずヴァンパイヤントは小泉純一の様に噛まれ者ダンパイアが蘇生する前に上位個体が死んだ場合のほかに、上位個体が死んで回路パスの再接続、支配権の『継承』が行われる際に『継承』の対象になる上位個体がすでに死んでいる場合、あるいは『継承』した新たな上位個体も死亡した場合などにも、下位個体は主持たずヴァンパイヤントに変化する。

 そのため十分に数の増えた吸血鬼の群れの場合、普通にそこらの吸血鬼を狩り回っているだけで主持たずヴァンパイヤントが次々と増えることも珍しくない。

 したがって、たとえば香坂が噛んだ下位個体が彼らの人間の血を吸って下位個体を増やしていた場合、香坂が噛んだ下位個体がこのあとどこかで殺害されたらその下の個体がことごとく主持たずヴァンパイヤントに変わるのだ。したがって、その吸血鬼の系統が大規模なものである場合、吸血鬼狩りは標的の殺害よりもその後始末のほうが面倒である場合が多い。

 この案件も、しばらくしたら主持たずヴァンパイヤントが蝗みたいに大発生することになるかもしれない。ある意味では主持たずヴァンパイヤントよりもたちが悪いが。

「まあ、そのへんはヒビキ君のところの下っ端の頑張りに期待だな」 そんなことをつぶやいて、アルカードは手にしたウォークライを軽く振るった――容赦無く踏みつけにした喰屍鬼グールの体が、首を刎ね飛ばされた時点で瞬時に塵に変わる。

 小さく溜め息をついて、周囲を見回す――再開発地区のはずれにある、ふた棟が隣接したアパートメント。その間にある小さな公園は、今や虐殺の現場と化していた。

 現場に残っている屍の痕跡はゆうに百以上。おそらくは月之瀬配下の噛まれ者ダンパイアがアパートに侵入し、食事に興じていたのだろう。上位個体はどこに失せたのか、すでにいない――近隣の住民を喰い尽くしてよそに獲物を探しに行ったのか、あるいはアルカードの接近に気づいて気配を消して逃げ出したのか。

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