The Otherside of the Borderline 29

 老人の右手が閃く――黒華一閃、次の瞬間には突き出された黒い短鎗がこめかみのあたりを掠めて通り過ぎていった。

 狙いが甘かったのか、その一撃は彼の肌には触れなかった――だが、視界の端をなにかがかすめて愕然とする。目の前を舞い落ちていったのは、銀色の針鉄を思わせる糸状の物体だった――風圧に煽られて空中で滅茶苦茶に踊りながら落下しているその銀糸が、徐々に金色の繊毛へと変化していく。

 馬鹿な――あれは俺の髪だ。

 そう、信じ難いことに切断されて宙を舞っているのはネメアの頭髪だった――師匠の秘薬によって体組織が変質し、針鉄を思わせる外観と対物狙撃銃の銃弾をも絡め取る強度を持つネメアの髪。

 否――それだけではない。

 頬にひりつく様な痛みが走っている――ぬめりけのある液体が、頬を伝う感触。

 

 否――十分な技量と相応の得物があれば、優れた使い手は刀一本で岩をまっぷたつにするという。だからそれ自体は、驚くことではないのかもしれない――自分がそれと相対するのでなければ、だが。

 だが驚愕に動きを止めている暇など無い――短鎗を突き出したままの姿勢の老人の右腕に力が漲り、筋肉が膨張する。

 次の瞬間には、老人の手にした短鎗が横一文字に薙ぎ払われていた――反応が一瞬でも遅れていたなら、こめかみから上が無くなっていただろう。体を沈めてその一撃を回避しながら、そんなことを考える――だが次の瞬間、と視界の下端でなにかが動いた。

 それが老人の突き出した爪先なのだと理解するよりも早く、ネメアはその蹴りを鳩尾に喰らって吹き飛ばされていた。

 まるで高速を突っ走るトラックに、正面衝突されたかの様だった――背後にあった工事用足場の山に背中から激突し、その山を崩してその向こうのパーティションを薙ぎ倒しながら、裏手のビルの壁に叩きつけられる。

 スペクトラ・シールドの抗弾ベストが着弾の衝撃までは吸収してくれない様に、強靭な皮膚は外傷こそ負わないものの衝撃までは殺してくれない。強烈な嘔吐感に襲われながら、ネメアはなんとか足から地面に着地した。

 老人が軽やかな動きで地面を蹴る――反射的に防御のために翳した剣が、すさまじい衝撃に弾き飛ばされた。これもまた、暴走自動車の直撃を受けたかの様だ。

 それが老人の手にした短鎗によるただの横薙ぎの一撃を防御した結果なのだと、遅ればせながら理解する――剣が体の正面からはずれて胴ががら空きになったところで、老人が雷華のごとき苛烈さと工作機械のごとき精度で以って真紅の鎗を突き出してきている。

 いったいいつの間に真紅の鎗を抜き放ったのかも、ネメアには理解出来なかった――剣を引き戻し、斜めに立てて刺突の軌道を変える。ただ単に突撃を受け流しただけだというのに、その一撃で両腕が痺れた。

 だが老人はさして気にした様子も見せてはいない。老人の保持した紅い鎗は、すでに手元に引き戻されている。

 真紅の鎗を引き戻すときの胴のひねりを利用して、続いて黒い鎗が突き出されてきた。腰の捻転と足首の動き、腕の動きだけで繰り出されてきたというのに、その刺突は異常に速い。

 まずい――腕の痺れが抜けていない、今度は軌道を変えることさえ出来ない。

 ネメアの皮膚は老人の刺突を防げない――られる。

 そのまま老人が攻撃を繰り出していたなら、彼の攻撃は間違い無くネメアの心臓を貫いていただろう――だが次の瞬間、老人は攻撃を中断して後退していた。

 直前まで老人のいた空間を、銃声とともに豪雨のごとき無数の銃弾が引き裂く――回避行動があと一瞬遅れていたら、老人の体は文字どおりずたずたにされていただろう。

 まさか――直感だけで援護射撃を察知し避けたというのか。

「撃て! 撃て!」 カズオミが吠えるのが聞こえた――アサカがその声に応える様に、M14の火線を走らせる。銃口から銃弾はいずれも老人には命中せず、代わりに射線上にあった鉄骨や工業用足場の単管、パーティションを例外無く穴だらけにした。

 否、射撃を行っているのはアサカひとりだけではない――あの老人は信じ難いことに、九人の騎士たちのフルオート、もしくは三点規正射バースト射撃によって降り注ぐ銃撃の豪雨をすべて避けているのだ。

 香坂隆次――エクスレイ・スリーは一族の中でも長年最強の立場を争ってきた、一流の暗殺技能者だ。

 実力的に月之瀬将也に届くか否かはこの際置いておいても、だからと言ってその実力は決して侮ってかかれるものではない。

 実際、ネメアを一撃で吹き飛ばすほどの膂力に加え、重戦車装甲を超える強度を誇るネメアの体組織を易々と引き裂く技量、九挺のカービンによる集中砲火を躱す反応速度と身体能力、並はずれた勘の良さ。あれはまさに、怪物の名を冠するにふさわしい化け物だった。

 近づかせれば致命的な事態になる。それがわかっているからだろう、騎士たちは老人の接近を許すまいと途切れること無く集中砲火を浴びせている――だが、やがてそれにも限界が訪れた。

 騎士たちのアサルトライフルやショートカービンは、休むこと無く弾幕を張り続け、かつ弾薬の浪費を防ぐために三点規正射撃が基本になっている。

 それがために弾幕は細かく途切れつつも、数人が一気に弾薬が切れて弾幕が無くなるという致命的な事態だけは避けていられた。

 だが、やがて限界が訪れた。ひとりまたひとりと、銃の弾薬が切れ始めたのである。

再装填リロード!」

 まだ弾薬の残っている者たちに状況を一任して、彼らは弾倉を交換し始めた――残った者たちは自分たちまで弾薬が切れてしまうのを防ぐために指切りの間隔を狭めて発射弾数を減らしたり、三点規正射の発射のスパンを広げたりして弾薬の消費を抑え始めたのだが、その時点で致命的な隙が出来た。

 薄くなった弾幕を躱して、香坂が地面を蹴る――それに気づいて、ネメアは茨の刺刑Rosethorn Executeの柄を握り締めた。今の自分の状態では、一撃撃ち合わせることもかなわないだろう――いまだに握力が回復しきっていない自分の状態では。

 だが、銃は接近されてしまえば一気に不利になる――アサカの狙撃用にカスタムされたM14など、銃口の位置より内側に入り込まれればそれまでだ。

 香坂が短鎗を遣っているのは、おそらく普通の鎗の接近戦に対する脆弱性を嫌ったからだろう。

 つまり、あの老人は最初から接近戦を主眼に入れている――ましてや騎士たちは白兵戦に長けていない。一部の人員を除いては、騎士たちの大部分は遠距離戦闘に特化した訓練を受けているからだ。

 その彼らが懐に入り込まれたあと、はるかに間合いの狭いナイフを遣って香坂を相手に出来るとは思えなかった。

「こぉのぉぉっ!」 二回目の弾倉交換を終えたアサカが、咆哮をあげながらM14を据銃する――今この場にいる騎士の中でも突出したライフル射撃の技量を誇るアサカは、わずかばかり銃口を逸らして発砲した。

 予測射撃というやつだ――移動経路を先読みしたアサカの一斉射が、香坂の体をずたずたにせんと襲いかかり、そしてそのことごとくが老人の手にした鎗によって軌道を逸らされ弾き飛ばされて、鉄骨に命中したのか金属同士の衝突する鋭い音が聞こえてきた。

「……な」 数発で区切った一斉射を弾き飛ばされたアサカが、追撃をかけることも忘れて驚愕の声をあげる。

 その彼女の背後で、悲鳴があがった――あわてて振り返るアサカの視線を追ってそちらに視線を向けると、彼女の背後でふたりの騎士たちがコンクリートの上に倒れ込んで脚を押さえていた。

「ふむ。当たったのはふたりだけか――せめて三人は、今の跳弾で倒しておけると思ったのだがな」

 錆びた鉄が擦れ合う様な声音で、老人がそうつぶやく。

 馬鹿な――あの爺さん、弾き飛ばした弾頭を鉄骨に当てて跳弾させたのか!?

 驚愕に小さくうめくネメアには眼も呉れず、香坂が地面を蹴った――次の瞬間には、老人の長身はアサカの眼前にある。

「たいしたものだ、娘――素晴らしく正確な照準だ。よかろう――その首、先にもらうとしよう」

 すでに老人の体はアサカの銃の間合いの内側にある――すなわち長物ロングでは対処出来ない。

 だが、それよりも早くカズオミとカズマが反応した――兄弟関係にあるふたりの妖怪たちは一瞬の淀みも無い流れる様な動きで、アサカの両脇から老人に銃口を向けて据銃し、一瞬の躊躇も無くトリガーを二度引いた。

 だが、ふたりの三点規正連射が老人の体をえぐることは無かった――恐るべき反応速度で老人が弾頭の軌道を見切ってそれを回避し、ついでアサカの体を銃を掴んで引き寄せる。彼女の体が射線に重なって、カズオミが表情をゆがめるのが見えた。

 次いで、老人が動く――彼はアサカの左側にいたカズマに向かって間合いを詰めると、無造作に短鎗を振るった。手にしたKnights SR-16アサルト・ライフルの銃口附近を穂先で撃たれて軸線を逸らされ、カズマが後方に跳躍しながら後方に跳躍しながら銃を構えなおそうと――

 だが、それが失策だった。間合いが離れすぎた、正確に言うなら間合いを離してしまったことそのものが失敗だった。照準し発砲しなければならないライフルよりも、目標めがけて突き出すだけでいい鎗のほうが絶対に早い。

 黒い鎗に両肩と右肘を瞬時に貫かれて、カズマの口から悲鳴があがる――若干間合いの離れたアサカが毒づきながらも、ライフルの銃口上部に固定式照準器の代わりに取りつけられた銃剣を突き出した。

 フラッシュライトの取りつけられた銃身をはたく様にして、老人が突き出された銃剣を払いのける――目標を見失って踏鞴を踏んだアサカの背中越しに、老人は短鎗を突き出した。真紅の穂先が拳銃を抜きかけていたカズオミの右腕を貫き、そのままボディアーマーのトラウマ・パッドを貫通して胸元に突き刺さる。

「っがぁっ……!」 傷が肺にまで達したのだろう、水音の混じった悲鳴をあげながらカズオミがその場でもんどりうって倒れ込んだ――そのまま、老人はアサカの肩を騎士たちのほうへ突き飛ばした。射線上に仲間の体を放り出されて、それで騎士たちが射撃を躊躇する――銃の射線上に、彼女の体がきてしまったからだ。

 これでは撃てない――老人がその隙を衝いて地面を奔る。アサカが振り返るのが見えた――接近戦では役立たずのM14を投げ棄てて、グロック18自動拳銃を太腿のホルスターから抜き放つ。だが据銃するより早く銃口から三センチくらいのところでスライドが銃身ごと切断され、リコイル・スプリングが伸び切ってビヨンビヨンと踊った。

「くッ!」 毒づいて、アサカは空いていた左手で小ぶりのフォールディングナイフを抜き放った。手首のスナップだけでブレードを振り出し、そのまま老人の顔に突き出し――そのまま一瞬でいなされて横をすり抜けられ、踏鞴を踏んだ背中を突き飛ばされて地面に倒れ込む。

 射界がクリアになった騎士たちが、老人に銃口を向ける――が、そのときにはすでに遅かった。

 彼らの手にしたショートカービンの銃身が、ことごとく半ばから斬り飛ばされ――その切断が銃身のみならず機関部に及んだために、彼らの銃は即座にその機能を失った。

 老人がゆっくりと笑う―――否、ネメアの位置からは彼が笑う表情などわからない。正確に言うならば、老人の気配が笑いの形を取ったのである。ネメアはそれをはっきりと知覚した。

 一番手前にいた騎士が、両膝を貫かれて悲鳴をあげる――大ぶりの鉈の様なナイフを引き抜いたアスマが、SR-16アサルト・ライフルを放り出して老人に躍りかかった。

 今いる二チームの中では、彼がもっとも近接白兵戦に長けている――彼が繰り出したコンパクトな動作の刺突を、しかし老人はやすやすと避けてみせた。

 下腹部を短鎗の穂先で穿たれ、アスマの体が崩れ落ちる。

 突き飛ばされて倒れていたアサカが、弾かれた様に跳ね起きた――振り返り様に、老人の背後から攻撃を仕掛ける。だが老人の挙動のほうがなお早かった。

 老人は振り返ると同時に短鎗を手にした左手でアサカが繰り出したナイフの刺突を受け捌くと、彼女の体の外側に廻り込んで後足の踝のあたりを踏み抜いた。

 腱をやられたのか、そのままうつ伏せに倒れ込むアサカ――その背中に向かって、老人が声をかける。

「いい判断だ、娘。筋も度胸もなかなかだ。だが――」

 言葉とともに、老人の手にした真紅の鎗の穂先がアサカの右手首を貫いた。

「――まだ接近戦の経験が足りないな」

 その言葉に、アサカが屈辱に唇を噛んだ。漏れかけた苦鳴を押し殺し、香坂に受けられたときに手元から叩き折られたナイフを手放す。

 彼女はそのまま上体をねじって、左手を老人に向けて突き出した。若干ゆったりとしていた袖口から、ギミックによって仕込んでいた九ミリ口径の自動拳銃が飛び出す。

 ネメアは銃には詳しくないので機種もメーカーも知らなかったが、いずれにせよ彼女が据銃した小型の自動拳銃は香坂に銃口を向けた次の瞬間至近距離から火を噴いた。

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