The Otherside of the Borderline 4
*
「いやぁぁぁぁぁっ!」 悲鳴とともに、フィオレンティーナは跳ね起きた――視界に入ってきたのは石造りの壁でも真っ赤に染まった夜空と月でも、もちろん腹に突き立てられたままになった剣の煌めきでもなく。
もう見慣れたと言ってもいい、吸血鬼の部屋のリビングに置かれた液晶テレビと、テレビ台の上に置かれたイチローのホームランボールと炭入り樹脂の熊の置物とOVAの初回版限定特典のアンデルセン神父の半身フィギュアだった。
「フィオ、よかった、気がついたのね? 気分はどう? 吐き気とかは?」
心底彼女の状態を心配していたのだろう、パオラが彼女の肩に触れて声をかけてくる。
「ええ、大丈夫です」
肩に置かれたパオラの指先にそっと手を添えて、フィオレンティーナは弱々しく笑ってみせた。
「リディアとアルカードは?」
「リディアは自分の荷物を部屋に置きに行ったわ。アルカードはわたしに貴方を任せて、わたしの荷物を置きに行ってくれてる――貴女が突然倒れたから、様子を見ていてくれと頼まれたの」
「そうですか……」 パオラの言葉にうなずいて、フィオレンティーナは小さく息を吐き出した。
「どれくらいの間、倒れてたんですか?」 フィオレンティーナの質問にパオラは壁の時計を見遣って、
「まだ二、三分しか経ってないわ――それより本当に大丈夫?」
「ええ、大丈夫です。心配しないで」 そう言ってから、フィオレンティーナは寝かされていたソファーの上で上体を起こした。ソファーの下で座っていた仔犬たちがフィオレンティーナが動き出したのを見て尻尾を振り始めるのが視界に入ってきて、フィオレンティーナはうっすらと笑った。
ちょうどその会話が終わったところで、リビングの扉が開いてアルカードとリディアが入ってきた。
「あ、フィオ――気がついたの? 体調はもう大丈夫?」 近づいてくるリディアに小さくうなずいてから、フィオレンティーナはアルカードに視線を向けた。アルカードは物問いたげな表情でこちらを見つめていたが、やがて言葉を引っ込めて足元にかがみこみ、寄ってきた仔犬たちの頭を撫でてやってから立ち上がった。
「なあ、三人とも――俺はそろそろこいつらを散歩に連れ出しに行ってくるよ」
それを聞いて、パオラがそれまで座っていたソファーから腰を浮かせる。
「君たちが部屋で寝るのかお嬢さんのとこに泊まるのかわからないが、まあ気が変わったらここの二階で寝ててもいい――そこらへんの判断は任せる。それと、朝食は明日の朝の六時半には出来る様にしておく。一応四人ぶん用意しておくから、お嬢さんも気が向いたら来るといい――栄養失調で倒れたんだとしたら、肝心なときになにも出来なかったら困るだろう?」
そう言って、アルカードは三人の少女たちを部屋から送り出した。
「リディアとパオラは、明日はまだなにもないから――落ち着くのにゆっくりするといい。少し街を歩き回って、感覚を掴んでおくのもいいかもな――車が要る様な買い物をしたいなら、午後からでよければつきあうよ。二、三日の間には、店長に話をするから。じゃ、おやすみ」
「はい、おやすみなさい、アルカード」
そう答えて、リディアが礼儀正しくお辞儀をする。パオラもそれに倣ってお辞儀をすると、にっこりと微笑んで挨拶をした。
「おやすみなさい、アルカード。これからよろしくお願いします」
フィオレンティーナはなにやら複雑そうな表情でこちらとふたりの少女たちを見比べていたが、挨拶が終わったと判断したのか、ふたりを促して歩き出した。
とりあえずフィオレンティーナの部屋でシャワーを借りるという算段になり、三人で彼女の部屋に入ろうとしたときに視線を向けると、糞を回収するためのチラシとスコップ、ビニール袋と水の入ったペットボトルが入った小さな樹脂製のバケツを手にしたアルカードが、仔犬たちを連れ出したところだった。
†
この近隣には、公園がみっつある――ひとつは高速道路と平行に走る国道を越えてもっと北のほうに行った先にある尾奈川という二級河川の河川敷、もうひとつは店の前の道路をショッピングセンターや高速道路方面とは逆方向に行った先にある市民公園。
おっと、高速道路の高架下にあるバスケットボールコートやスケートボードのハーフパイプなんかも公園に含めたら、よっつか。
そして最後のひとつは近隣住民の間で三角公園と呼ばれている公園で、店の前の道路を国道のほうに歩いていくとものの三十秒ほどで到着する。一応砂場、ジャングルジム、滑り台などの子供向けの遊具はだいたいそろっている――敷地形状が四角形なのになぜ『三角』公園なのかという素朴な疑問は、この十年間解決していないが。
それとも、もともとは三角形だったのだろうか? あとからなにかの理由で敷地が継ぎ足されたのだろうか。そんなことを考えながら、アルカードは自動車や原付の進入を防ぐための太いバリカーの隙間を抜けて公園内に足を踏み入れた。
でも少なくとも、子猫イジメしてたガキどもを締めたときには、もうすでに四角だったよな――胸中でつぶやいてベンチに腰を下ろし、じゃれついてくる仔犬たちの頭を軽く撫でる。
雲ひとつ無い夏の空に、無数の星が瞬いている――それを見上げて試みにいくつか星座を探し、有名どころをいくつか見つけたところでアルカードは飽きてやめた。
足首にしがみつかれて、足元を見下ろす――ウドンが右足首に前肢でしがみついて、パタパタと尻尾を振っていた。
上体をかがめて、ウドンの小さな体を抱き上げる――膝の上で胸に前肢をかけ、顔に鼻面を近づけて口元を嘗めてくる仔犬に苦笑して、アルカードはしばらくしたい様にさせてからウドンの体を一度引き離し、あらためて胸元に抱き寄せた。
甘える様に首元に頭をこすりつけるウドンの頭をアルカードが撫でているのに気づいて、ソバとテンプラが足元できゅうきゅうと鳴き声をあげる――アルカードはウドンを脇に降ろして上体をかがめ、自分たちも抱き上げてくれとせっついているソバとテンプラを順番に抱き上げた。
ベンチの上で膝に寄り添う様にしてぴったりくっつき、甘える様に鳴き声をあげながら尻尾を振っている仔犬たちの頭や背中、お腹を撫でてやりながら、苦笑する――懐いてくれるのはいいが、暑い。
今度はベンチから降りたがっているテンプラを抱き上げて地面に降ろしてやり、立ち上がる――ソバとウドンも降ろしてやると、仔犬たちはもう少し歩きたいのか公園の出口のほうに向かって歩き始めた。
綱が絡んでいたので一度手首から抜き取ってほどきながら、それについて歩いていく――道路に出る前に、自転車の走行音が聞こえたので綱を軽く引っ張って止める。無燈火の自転車が走り去るのを確認して、アルカードは仔犬たちを促して車道に出た。
そのままアパートのほうには戻らずに、丁字路のほうへと歩き出す――数歩歩いてはいちいちこちらを振り返って尻尾を振る犬たちに笑みを浮かべ、アルカードはちょっと足を速めた。
本条邸を右手に見ながら歩いていくと、やがて丁字の交差点が見えてくる――手前にはローソン、向こう側には機械化された駐車場。駐車場は本条の持ち物で、ライトエースを普段止めているのもここだ。
せっかくなのでちょっと中を見ていこうと考えて、アルカードはローソンの窓に歩み寄った――ポテトチップやカラムーチョなどのスナック菓子のコーナーが窓の外から見えるので、新商品が出ていれば窓から覗けばすぐわかる。
残念ながら、新商品はなにも無いらしい――溜め息をついて、アルカードは仔犬たちに引っ張られるままに踵を返した。
そのままアパートのほうへと歩き出す――おそらくもう少し大きくなればこの程度の距離では物足りなくなるだろうが、今の体格では十分な長距離なのだろう。
普通に歩けば五分もかからない――のだが、仔犬たちは歩くことそのものよりアルカードにじゃれついているほうが楽しいらしく、一歩踏み出すたびに足首にしがみつかれて歩きにくいことこの上ない。
別にそれはかまわないのだが、踏んづけてしまわない様にゆっくりと歩かなければならない――五分で着くところを二十分くらいかけてようやっとアパートまでたどり着き、門を通り抜けて共用廊下に足を踏み入れて、アルカードは部屋の玄関の施錠をはずした――すぐに部屋の中に入ろうとしている仔犬たちを宥めて、ウェットティッシュで肢の裏を拭いてやる。
肢の裏を拭いた犬から順にハーネスをはずして上がり框に放してやると、彼女たちは扉を開け放したままにしてあったリビングへと駆け込んでいった――リビングの隅に置いてある水の入った小鉢のところに行ったのだろう、ぺちゃぺちゃという音が聞こえてくる。
リビングを覗くと、仔犬たちが小鉢に鼻面を突っ込む様にして水を飲んでいる――それを見遣って目を細め、アルカードは寝室に足を踏み入れた。
さて、最後の日課が終わったところで――
思いきり伸びをしてから、アルカードは机の横に置いたパソコンの電源ボタンに手を伸ばした。
Windowsが起動するのを待つ間になにか飲み物でも飲もうと思いついて、席を立つ。
リビングに向かうと、仔犬たちが足元に寄ってきた――遊び足りないのかじゃれついてくる仔犬たちの仔犬たちの相手をしてやってから、冷蔵庫に入れてあった烏龍茶の硝子製ボトルを手に取る。
冷凍庫の急速冷凍室に放り込んであったチタン製のタンブラーに注いだ烏龍茶に口をつけてから、アルカードは空になったタンブラーを水ですすいで水切り籠に置いた。そのまま犬たちにまとわりつかれながら、寝室まで戻る――ログイン画面になっていたので、アルカードは椅子に腰を下ろして手早くユーザー名とパスワードを入力した。
しばらくゲームでもやって時間を潰そうかと思いつつ――画面の右下隅に電子メールの着信を示すアイコンが表示されているのを見て、メーラーを起動させる。
メールソフトに登録されているのは数件のアドレスだけで、アクセスするのはヴァチカンの専用のサーバーだ――同じく独自設計のソフトウェアを使って暗号化されたメールを抽出し、ソフトウェア上で復号化する様に出来ている。
もっともその内容は、馬鹿話からドラキュラがらみの情報まで様々だったが。
起動したメーラーの新着メールの中に聖堂騎士団長レイル・エルウッドからのメールを二通見つけて、アルカードは眉をひそめた。
レイル・エルウッドは日常的な雑談や近況報告と吸血鬼がらみの重要な連絡を一緒に送らない――二通送ってきたということは、一通はなんらかのフリークスがらみだということだ。
アルカードは聖堂騎士団の教師であり、戦力のひとりだ――ヴァチカンのではないが。だが、アルカードは聖堂騎士団の実質的な最強戦力だと言える――今までは教皇庁に対して秘匿されていた以上、ある程度使い道が限定されてしまっていたのも事実だったが。
アルカードはレイル・エルウッドからのメールを開いて、完全に目を通すよりも早く眉をひそめた。
「なんだと?」
ナハツェーラーの――
最新の被害者は崎山町――ここからそう遠くない。関連は不明だが――待て、昼間の警官の言っていた死体は、これの被害者か?
今朝の新聞に載っていた病院から盗み出された死体、名前は島崎真美子。はっきり確認したわけではないが、状況を総合するとおそらく彼女は吸血被害者だ――だとすると、この女も含めて数人の
まずいな――胸中でつぶやいて、アルカードは小さく毒づいた。
意外に思われるかもしれないが、世界でもっとも広範な情報を持っているのはどこの国の情報機関でもなくキリスト教カトリックだといわれている――これは実際そのとおりで、特に欧州圏においては絶大な影響力を持っている。
その広大な版図がかつての十字軍に代表される傲慢極まり無い布教政策の結果であったとしても、圧倒的な信徒数は高度でない情報であれば圧倒的な供給能力を持っているのだ。
ヴァチカンを総本山と戴くカトリック教会の端末は、日本国内にも無数に存在する――そこから上がってくる情報もまた無数に。
ほとんど民間の草の根レベルの情報ばかりではあるが、その真偽を確認するために秘密裏に行動している者たちもいるのだ。
CIAやSIS、モサドといった国家の暗部を担う諜報工作員たち顔負けの高度な諜報訓練を受けた彼らは、民間人に偽装し街中に紛れ込んで活動している――おそらくアルカードが挨拶を交わす様なご近所さんの中にも、そういった者たちの息がかかった者は紛れ込んでいるに違い無い。
そういう連中も存在しているから、ヴァチカンの影響力の及ぶ土地では上がってくる情報の精度は結構高い。
メールに添付されていたリストをひとつひとつ確認して、眉をひそめる。最初に出た犠牲者のひとりに、そういった諜報員が含まれていたらしい――ヴァチカンがここまで本腰を入れて調べ上げたのはそのためか。
電子メールの内容は、当該吸血鬼の抹殺の依頼、詳細は電話連絡の際に説明する旨で締め括られていた。
「……」 さて――ヴァチカンがなにかの対魔任務を行う際は、必ず聖堂騎士団にお鉢が回ってくる。古くは異端審問、現代においては悪魔祓いや不死者殺しといった任務は、すべて聖堂騎士団の担当だった――日本にはライル・エルウッドがいるので、聖堂騎士団がアルカードに妖魔抹殺を依頼することは滅多に無かった。ここしばらくは駆り出されることが多かったが、それはエルウッドが入院していて大っぴらに動けなかったからだ。
ライル・エルウッドは聖堂騎士団の規則に従って、基本的にはアルカードと
先日の小泉純一の事件の上位個体を取り逃がしたことで痛感したが、やはり人数がいるというのは強い――手数うんぬんもそうだが、逃げ道をふさぎやすい。
エルウッドは今日退院したばかりだ、本調子ではあるまい。そう判断してレイル・エルウッドが彼にこの任務を回したのだとしたら――
「そこそこ手強い、ということか」
声に出してそんなつぶやきを漏らし、アルカードはかすかに獰猛な笑みを浮かべた。
結構――
「今度はもう少し手ごたえがあるんだろうな、レイル?」 そんなことをひとりごちて、アルカードは机の隅のほうに置いてあった黒い電話機に手を伸ばし、本体を手元まで引き寄せた。
一般には販売されていない無骨な電話の受話器を取り上げて、ショートカットを押して相手を呼び出す。ローマは日本より八時間遅いから、今は十三時前か。レイル・エルウッドは、総本山で職務に忙殺されているはずだ。
目的の番号を呼び出すと、三コールほど待って相手が出た。
「私だ。現在、この電話は秘話回線ではない」
「俺だ。回線を切り替えてくれ」 アルカードがそう告げると、電話機の緑色のパイロット・ランプが点燈した。それは、この電話が盗聴される恐れが無くなったことを示していた。
「切り替えた、師よ――メールは読んでもらえたか?」
「ああ、読んだ。事実か? ――否、聞くまでもないか」
「事実だ。詳しくはあとで秘話ファクスで送るが、師よ、すでに貴方の住んでいる街からそう離れていないところで、百人以上が行方不明になっている」
そう言われて、アルカードは眉をひそめた。
「らしいな――またずいぶんと派手にやってるな」
「ああ――我々が把握しているだけで百人だ。実際にはもっと多いだろうな」
というレイル・エルウッドの言葉に、アルカードは電話のこっち側でうなずいた。
「で、標的は? ナハツェーラーの
「ああ――その話をする前に、師よ。
カテゴリーV――いわゆる吸血種の大部分は、吸血を受けることによって感染して吸血種となり、さらに別の通常の人間の血を吸って仲間を殖やす。
彼らは――ドラキュラの様なロイヤルクラシックも含めて、人間と遺伝子レベルではなにも変わり無い。ロイヤルクラシックも含めて、吸血鬼は人間なのだ――吸血鬼が人間の、あるいは吸血鬼の異性との間で子供をもうけたとしても、生まれてくるのはなんの変哲もないただの人間だ。
人間の遺伝子にはもともとロイヤルクラシックの肉体の構造の遺伝子情報が含まれており、それがなんらかの刺激によって発現するのだろうというのが、ヴァチカンの見解だった。
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