第44話 白金と黄金の円舞曲
王都の訓練場での激闘から数時間後、
クレメンス王主催による同盟締結を祝う歓迎晩餐会が、王城随一の壮麗な大広間で催されていた。昼間の手合わせで、レリュート・レグナスが王弟イクティスの持つ
クレメンス王は、一段高い壇上から広間を見渡すと、厳かな面持ちで深く頷いた。
「貴公らの勇気と、ユリア公女の志が、この大陸に平和をもたらす礎となることを願う」
その厳かな挨拶と共に、グナイティキ公爵シグムンド殿とクレメンス王は、正式に軍事同盟の協定書に署名を交わした。直後、歓喜の拍手という名の祝福の嵐が広間を包み込んだ。
レリュートは、普段の耐魔布の黒い長衣ではなく、夜会のために誂えられた深紺の礼服を纏っていた。漆黒の髪と精悍な顔立ちが、その礼装によって一層引き立てられ、昼間の戦士の顔とは異なる端正で紳士的な雰囲気を漂わせている。腰には、愛用の魔剣『
広間の中央には、華麗なシャンデリアの光を浴びた大勢の貴族たちが集い、弦楽団の奏でる優雅な音楽に合わせてダンスが始まっていた。
レリュートは、自然な所作でユリア・ルクス・グナイティキと並び立っていた。ユリアもまた、淡い白銀の夜会服に身を包み、腰に携えた聖剣『ユグドラシル』が、周囲の光を反射して神々しい輝きを放っている。彼女は公爵家の娘であり、聖剣の継承者として、この場における最も注目される存在であったが、その瞳はひたすらにレリュートだけを見つめていた。
レリュートの端正な礼服姿に、ユリアは息を呑み、一瞬呼吸を忘れたかのように見惚れた。その輝く瞳で彼を見上げると、恥じらいで頬を染めながら、嬉しそうに囁いた。
「レリュートさん、本当に素敵です。いつもの御召し物も格好良かったけれど、この深紺の礼服も本当によくお似合いですね」
レリュートは口元に微かな笑みを浮かべ、優しくユリアを見つめた。その瞳には、彼女の称賛に対する戸惑いと、それ以上の喜びが宿っている。
「そう言ってもらえると光栄だ、ユリア。君こそ、その衣装がよく似合っている。まるで夜空に浮かぶ白金の星のようだ。……実は、社交ダンスはあまり慣れていなくてね、訓練も少ししかしたことがないんだが、一曲おねがいできるかな?」
ユリアは、なんでも一定以上の事をこなして見せる彼にも苦手なものがある事を知り、胸の奥がきゅんと締め付けられるのを感じた。
「ふふ……はい、喜んで。私がリードさせてもらいます」
そのまま、彼はユリアの手を取り、ダンスの輪の中へと導いた。二人の間には、傭兵と貴族という身分の壁や、護衛対象と雇い主という関係を超えた、深い信頼と個人的な愛慕の感情が流れている。シグムンド公爵が二人の様子を温かい眼差しで見守っていることも、ユリアの心を安堵させていた。
ゆったりとしたワルツに合わせて、二人は優雅にステップを踏んだ。ユリアの顔は喜びで輝き、ユリアのリードに合わせて身を任せるその姿が、周囲の貴族たちの羨望の的となっていた。
*
そのダンスの光景を、グラン王国第一王女セフィール・レス・グランは、会場の隅から静かに見つめていた。
セフィールは、まだ幼いとはいえ、王族としての気高さを纏い、明るい金色の夜会服を着ていた。彼女の瞳は、輝く広間の中心で踊る二人に釘付けになっている。レリュートの圧倒的な武勇を目にし、彼を「英雄」として認識して以来、彼女の胸に芽生えた感情は、今や抗いがたい恋慕であることを自覚していた。
セフィールは、人目につかぬよう、そっとテーブルの陰に身を潜めた。指先でドレスの裾を強く握りしめ、満たされない憧憬を込めた小さなため息と共にそう呟いた。
「ユリアさんは、本当に幸せそう……。ああ、わたしも、あんな風にレリュートさんと……」
その願いは、すぐに自己抑制の鎖に繋がれる。セフィールは、レリュートとユリアが、古代の英雄譚に登場する「勇者と聖女」のような、強固な絆で結ばれていることを知っていた。そして、彼女自身、王族でありながら、平民であるレリュートへの想いは、身分の壁とユリアの存在という二重の壁に阻まれていることを痛感している。
(横恋慕はいけないわ。ユリアさんとレリュートさんの絆は、神聖なものだ。わたしが立ち入っていいものではない。これは、わたしの、報われることのない憧れなのよ)
セフィールは、昼間の手合わせで、自身の願いでレリュートを危険に晒したという罪悪感を拭い去るかのように、心の中で強く誓っていた。
しかし、今夜は、祖国が新たな同盟を得て、平和への一歩を踏み出した歓喜の夜であった。そして、明日になれば、レリュートはユリアを護衛して、アルベルクへと帰還する手筈となっている。別れの時が刻一刻と迫っている寂しさが、彼女の心を締め付けた。
セフィールは、白い絹のドレスの裾を強く握りしめた。その指先に、わずかな震えが伝わる。王族の矜持をかなぐり捨てるかのような、痛切な決意を込めて小さく呟いた。
「……せめて、たった一度でいいから」
彼女は、王族としての体面や、幼い恋の苦悩を一時的に脇へ追いやった。この瞬間だけは、純粋に「命の恩人」であり「憧れの英雄」である彼との、たった一度のダンスを求めることに、すべての勇気を振り絞る決意をした。彼の優しさ、その力強さ、すべてを肌で感じる、最初で最後の機会かもしれないからだ。
ユリアとのダンスが終わり、レリュートがユリアを伴って観客席に戻り、公爵と言葉を交わしていた。ユリアは公爵との会話に相槌を打ちながらも、視界の端でセフィールが近づいてくるのを捉えた。いつもの明るい笑顔ではなく、その顔はかすかに紅潮し、幼いながらも瞳には固い決意が秘められているように見えた。
(セフィール様? レリュートさんにダンスを申し込みにきたのかな?)
ユリアの胸に、年相応のちくりとした嫉妬心が芽生えた。年下の王女といえど、レリュートが自分以外の娘と優雅に踊る姿を見るのは、正直に言って少し嫌だった。レリュートとの間には身分を超えた強い絆があると確信してはいたものの、二人はまだ正式な交際をしている訳でも婚約者という訳ではない。王女殿下からの申し出を、一介の公爵令嬢である彼女が止めることは難しかった。
ユリアは苦い思いを飲み込み、自らの想いを悟られぬよう、そっとレリュートから距離を取り、邪魔をしないよう身を引いた。
そのわずかな隙を、ユリアが意図せず作った瞬間、セフィールは静かに、しかし迷いのない足取りでレリュートの元へと歩み寄る。
「レリュートさん」
レリュートは、王女の予期せぬ呼びかけに、軽く眉を上げてすぐに顔を向けた。その瞳には、穏やかな敬意が宿っている。
セフィールは、緊張で手が微かに震えるのを隠しながら、淑やかに膝を折ってカーテシーをとった。
震える声に、しかし王族としての気高さを必死に乗せて、セフィールはレリュートの瞳をまっすぐに見据えた。
その、王族としての体面を捨てたかのような真剣な態度と、切実な瞳を見た瞬間、ユリアの心臓は締め付けられた。
(もしかして、セフィール様もレリュートさんのことが好きになってしまったのだろうか……)
ユリアはヤキモキしながら、レリュートが王女の申し出にどう応えるのかを、公爵の隣から見守るしかなかった。
「レリュート・レグナス殿。恐縮ですが、わたしに、この場にいるただの一人の少女として、一曲お付き合いを願えませんか?」
その言葉には、王女としての気高さと、一人の少女としての切なる願いが込められていた。
レリュートは、一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに納得したように表情を和らげた。セフィールがグラアティスからの救出劇を共に乗り越えた大切な護衛対象であり、この同盟締結の功労者であることを理解していたし、一国の王女の誘いを断るなどあり得なかったので、その申し出を断る理由はなかった。
「セフィール王女殿下。光栄に存じます」
彼は恭しく一礼し、その大きな手でセフィールの手を優しく取った。その指先から伝わるレリュートの逞しい手の温もりに、セフィールの胸は大きく高鳴った。
*
二人がダンスの輪に加わると、優雅なメロディが再び大広間に響き渡った。
レリュートのリードは正確で、セフィールは安心して身を任せることができた。彼女は背筋を伸ばし、王女としての品位を保ちながらも、内心では彼の黒衣の胸元に抱かれていることに、抗いがたい安堵と高揚感を感じていた。
セフィールは、思わずうっとりと目を細めた。
(ああ、なんて素敵なの。この逞しい腕に抱かれているのは、まるで夢のよう!)
彼は、あくまで護衛者としての敬意と優しさをもって接してくれていた。その手はあくまで節度があり、彼女を「幼い王女」として扱っていることの証であった。彼の心の全てがユリアに向かっていることも、肌で感じている。しかし、セフィールは敢えてその現実に目を向けなかった。
(これで十分。これ以上を望むなんて、本当にわがままな横恋慕だわ。わたしは彼の隣に立つ資格はない。でも、この瞬間だけは……)
セフィールは、そっと目を閉じた。彼の体からわずかに漂う、魔力と汗の混じった、戦士特有の匂い。彼の力強い鼓動。全てが、彼女にとって憧れという名の光であり、彼女の心を救い、導いてくれた英雄の存在の証であった。
このダンスは、王族の務めでもなく、未来への希望でもない。それは、報われないと知りながらも、愛する人に触れることを許された、たった一人の少女の贖罪の念と、胸の奥に秘めた純粋な恋慕が、交錯する瞬間であった。
セフィールは、彼の胸に抱かれたまま、そっと心の中で誓った。この温かい記憶を、明日からの厳しい現実を生き抜くための、心の奥底の宝箱に大切に閉じ込めておこう、と決意をしたのだった。
やがて曲が終わり、深々と一礼するレリュートは、優しく、そして柔和な表情をしていた。
「楽しいひとときでした。セフィール殿下」
セフィールは、胸に残る温もりを噛み締めながら、心からの笑顔で応えたが、その後方の遠くからユリアがこちらを見ていたのに気が付いた。
それを見て何か思いついたように、彼女は一歩踏み出し、意を決したような表情をすると、耳元に顔を寄せ、花の香りのような息遣いを彼の耳に吹きかけるようにそっと囁いた。
「あのね、レリュートさん。わたし、貴方のことが、どうしようもなく好きになっちゃったみたい!」
レリュートの穏やかだった表情が、一瞬で驚愕に固まった。彼は何が起きたのか理解できず、思考が停止した。しかし、セフィールはすぐさま追い打ちをかける。
「だけど、今、返事は求めないわ。だって、今貴方に尋ねたところで、答えは分かりきっているもの」
セフィールは、いたずらっぽく、そして真剣に、挑戦的な視線をレリュートに向けた。
「いつまでもユリアさんと進展がないのなら、数年後、このわたしが成長して大人になった時には、貴方の心をいただきに来ちゃうんだから。だから……アルベルクに戻っても、わたしも貴方を想っている事を絶対に忘れないでね」
セフィールは、レリュートが何かを言う隙を与えず、勝ち気な笑みを浮かべて身を翻した。彼女の姿が遠ざかっていくのを呆然と見送ったレリュートは、深く息を吐き、微かに頬を緩ませた。
「やれやれ、まったく驚かせてくれる、困ったお姫様だ」
彼は軽く頭を振り、小さくそう呟いた。その声には、困惑と同時に、幼い王女の無垢な好意に対する、どうしようもない戸惑いと照れくささが滲んでいた。
レリュートは表情を引き締め直し、ユリアが再び並び立つ姿を、遠くから静かに見つめるのであった。
*
その時、広間の照明の陰に隠れていたカレンは、聴力拡大の魔術を発動させたまま、セフィールの呟きを静かに聞いていた。彼女の表情は、予想外の展開に、呆気にとられたように固まっている。
「……今の、セフィール王女殿下の告白、全部聞こえたんだけど。兄さん、どうするつもりなんだろう?」
カレンは、腕を組みながら、信じられないという様子で頭を振った。
「やっぱり、兄さんは
義兄の予期せぬモテ期に、カレンは面白がるような、少し呆れたような表情で、静かに王女と兄のやり取りを観察し続けていた。この一件は、アルベルクへ帰還した後、家でネタにしてやろうと密かに決意した。
*
レリュートが、困惑と照れくささの混じった表情でセフィールの退場を見送る様子を、ユリアはシグムンドの隣で静かに観察していた。セフィールが最後にレリュートの耳元で何かを囁いたことは、ユリアにも見て取れた。
レリュートはセフィールの姿が見えなくなると、小さく息を吐き、頬を緩ませたが、すぐに表情を引き締めてユリアの方へ向き直った。
「ユリア、公爵、ここにおられましたか」
彼は何事もなかったかのように優雅に一礼したが、ユリアの胸の焦燥は募るばかりだった。
(セフィール様は、一体何を言ったのだろう? レリュートさんは、なぜ少し照れているように見えたの……?)
ユリアは、王族の娘であるセフィールの真剣な表情と、レリュートのあの穏やかながらも動揺した様子から、あれが単なる別れの挨拶ではないことを痛感していた。もし本当にセフィールが想いを伝えていたとしたら、自分の立ち位置は危うくなる。ユリアは優雅に微笑み返しながらも、レリュートの瞳の奥を鋭く見つめたが、彼の表情からは何も読み取れなかった。
「レリュートさん、ダンス、お疲れ様でした。セフィール様も楽しんでいらっしゃったようで、わたしも嬉しく思います」
ユリアはそう口にしながらも、内心では嵐が吹き荒れていた。
表面上は穏やかに振る舞いながらも、ユリアの心は波立ち、シグムンドとの会話も上の空だった。
*
その頃、セフィールは王城の一角にある、公的な控え室ではなく、身内だけが使用する小さな休憩室へと駆け込んでいた。使用人を遠ざけ、扉を閉めた瞬間、彼女の顔は喜びとは程遠い、猛烈な羞恥に紅潮した。
「あああ、なんてことを……! わたしは、なんて馬鹿なことを言ってしまったの!」
セフィールは、顔が熱くてたまらず、両手で覆ったまま、その場に崩れ落ちそうになった。王族としての気高さは一瞬にして霧散し、そこにいるのは、勢いで初恋の相手に無謀な告白をしてしまった、たった一人の幼い少女だった。
彼女は熱を持った指先で、丁寧に結い上げた金色の髪をぐしゃりと掻き乱した。膝を抱え込み、苦しげに声を絞り出す。
「ユリアさんがこちらをずっと見てたから、思い付きで行動しちゃった……。わたしはユリアさんのことも尊敬しているのに、あんなことして、嫌な気持ちにさせちゃったかもしれない。わたしはレリュートさんの事は好きだけど、ユリアさんから奪おうとか、そういうのじゃないのに……」
その衝動的な自己嫌悪に耐えきれず、セフィールはハッと顔を上げた。部屋の隅に置かれた天蓋付きのベッドに駆け寄ると、顔を赤くして、無造作に枕を何度もポスポスと叩いた。声は怒りにも似た羞恥に震えている。
「『好きになっちゃったみたい』ですって? あんな、あんな恥ずかしいセリフ! 『貴方の心をいただきに来ちゃう』だなんて……どうして、あんなに格好つけてしまったの! 明日どんな顔で見送りすればいいのかしら!」
彼への抗いがたい憧れが、衝動的な行動へと駆り立てたとはいえ、実行後の自己嫌悪は激しかった。彼女は顔を上げ、手鏡に映る自分の赤く熱を持った顔を見て、さらに身悶えた。
「きっと、レリュートさんは困惑しているに違いないわ。ああ、恥ずかしい、恥ずかしい……! 明日、アルベルクへ帰ってしまうのに、わたしは最後に、困った王女という印象しか残せなかった」
セフィールは、ドレスの裾を強く握りしめたまま、その場にうずくまり、悶え続けた。報われない憧れを秘めたまま終わるべきだったと、激しく後悔していた。しかし、心の奥底には、レリュートの瞳が一瞬驚愕に固まった光景と、「わたしも貴方を想っている事を絶対に忘れないでね」という小さな願いを伝えた充足感が、確かに残っていた。
以下、執筆メモ
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