抵抗するなよ
「ちょっ、待っ、いや、あの」
じりじりと逃げの態勢に入る。ゆくてを腕が突っかい棒となってふさいだ。
「他の誰にもそんな格好は見られたくないだろ? だったらおとなしくしてろ」
「いやいやいや、むしろ逆に助けを呼ぶべき状況なのでは……?」
「心配するな。悪いようにはしない。俺がワガママで亭主関白で、好きな女にはからきし頭が上がらない男だってことぐらい、君も分かってるだろ」
言ってから、チェシーはまたニヤリと笑った。
「覚悟しておけよ」
相変わらずやたら意地悪な、人をからかってばかりの微笑み。
ニコルは、チェシーの腕の中からその表情を見上げた。
懐かしい笑顔だった。果てしない遠回りをしてまた同じところに帰ってきたのかと思うと泣きそうだった。
最初から迷う必要などなかった。
ずっと、思っていた。
いつかこんな日が本当に来たらいいのに、と。
罪の記憶を心の奥底にひた隠して。かりそめの名を名乗り、皆をあざむき、本当の自分を覆い隠そうとしてきた。いつか心から笑える日が来たらと願いながら、重い過去にとらわれてどうしても前に進めずにいた。
本当は、生きていてはいけなかったのではないかと——ずっと思い込んでいた。
恋すること、夢見ることすら、ゆるされぬ禁忌だと思い込んでいた。
それが、自分に与えられた罰だと。
ずっと思い込んでいた。
でも、今は。
チェシーの胸に頭をもたせかけ、詰めていた息を安堵まじりにほうっとつく。白い吐息がふくらんだ。
薄雲に隠れる月が見えた。雲の縁がきらきらと明るくなってゆく。風が雲を吹き払った。夜空がこんなにも明るいなんて。夜を照らす月がこんなにまぶしいなんて、思ったこともなかった。星が無数にかがやいて、風が吹いて、大地を照らしている。
街の向こうに山がある。山の向こうには河がある。河の向こうには森、森の向こうにはどこまでも続く果てしない道があって。
行きたいと望めば、どこまでも行ける気がした。
ぐすっと鼻をすすり、月明かりの下で変な顔になってやしないかと袖で目元をごしごしする。そのせいでよけいに汚れたような気がして、笑って、またいきなり泣きそうになって。
あわててごまかした。話をそらす。
「そういうことなら、ひとつだけお願いがあります」
チェシーは眉をぴくりと吊り上げた。笑みが深まる。
「ちょうど良かった。俺もひとつ君に頼みがある」
ニコルは眼をぱちぱちさせた。
「……頼み事って」
「構わない。君が先に言え」
「え、いや、その、チェシーさんからどうぞ」
さすがに差し出がましいような、気おくれもあってもじもじと口ごもる。
チェシーはやや興醒めした顔をした。
「遠慮するな。レディファーストだ」
「チェシーさんのいうレディファーストって僕を肉の盾がわりにすることでしょ」
「くどいぞ」
チェシーはむすりとさえぎった。
「告白したいなら君の方から言え」
「……僕が何で告白なんかしなきゃならないんですか」
「俺のこと嫌いになるって言っただろ。つまりそれまでは好きだったってことじゃないのか」
ニコルは頬をふくらませた。喧嘩腰でチェシーをにらむ。
「勝手に決めないでくださいよ。いったい、いつ、チェシーさんのことを嫌いだなんて言いました」
売り言葉に買い言葉。完全にお互いかちんと来ている。
「さっき言った」
「言ってません!」
「言った」
「言ってないってば!」
「ああ、そうかい。分かったよ」
チェシーはついにがらりと態度を変えた。顎をそらし、傲岸極まりない態度でニコルを見下ろしながら、因縁を付けるかのように凄んでくる。
「前から君のそういうへんくつで意地っ張りな態度は問題だと思っていた。ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う。君がそこまで言うなら先に言ってやる。いいのか。ホントに言うぞ」
「だからお先にどうぞって」
チェシーの指先が、ニコルの顎にかるく触れた。
「君が言ったんだからな」
「へっ?」
「今さら、後にしてくれとか言うんじゃないぞ」
「え、ええっ……!?」
チェシーは、ゆっくりと身をかがめた。
「動くな」
「……あっ、たっ……ちょっ……たんま……」
「もう遅い」
大きすぎる手がそろりと頬を包んだ。指が髪に差し入れられ、耳朶を揺らし、首筋を撫でる。
「あ、わ、わわわ……!」
情けないぐらいあっけなく、甘い吐息の罠に落ちて引き寄せられる。チェシーの声が襟すじに忍び込んだ。
「俺の頼みは、抵抗するなよ、ってことだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます