「大口をたたいた責任は取る」
ニコルは、ふるえる手に留めつけたルーンを見つめた。
「そこまで言うなら、じゃあ、どうして寝返ったりしたんです。最初から敵と分かっていれば、チェシーさんをすき……仲間だなんて思ったりしなかったのに」
「敵だったんだ」
チェシーは低くつぶやいた。
「でも、今は違う」
「ばか。嘘つき。ペテン師。裏切り者。まただまそうとしてそんなことを言ってるようにしか聞こえません」
「ああ、全部認める。俺はばかでうそつきでぺてん師で裏切り者だ」
「分からない。チェシーさんの言ってることが、僕にはぜんぜん分からない。本当のチェシーさんはどっちなんですか」
ニコルはチェシーの手を押しのけた。振り払う。言いたいことがいっぱいあってもずっと言えなかったことが一気に口をついて出た。止まらなかった。
「僕には自分を信じろと言い、なのに自分は敵だったと言う。今さらそんなこと言われたって壊れてしまったものは戻らないのに、何で……!」
「分かってる。君の言うとおりだ。大口をたたいた責任は取る」
チェシーは、自らの心の中の真実を追い求めるかのようにいったん言葉を切った。
「俺はふたつの過ちを犯した。さっきも言ったように、一つはノーラス破壊工作の密命を帯び、祖国を裏切るふりをしてまで君に近づいておきながらレイディに心を奪われたこと。あと一つは……その君を苦しめたことだ。だが、確かなことが一つだけある」
ほんの一瞬、遠い目で過去を振り返る。チェシーは顔を上げた。
「たとえ国を捨ててでも君を護ると決めた気持ちには微塵の嘘もない。俺にとっての本当の自分は、君と共に生きたいと願う、今の、この俺自身だ」
きらめくまなざしがニコルを見つめていた。どこまでも透き通る、あの青い瞳で。
……心臓が、止まりそうだった。
「チェシーさん」
声が、かすれる。
頑なに閉じこもろうとしていた心の壁が、雪解け水のようにあたたかく溶かされてゆく。代わりに別の何かがゆるやかに心を満たしていった。言葉ではうまく言い表せない気持ちが、胸いっぱいに広がる。
にじむ涙をこらえ、ニコルはもう一度、手の中の《
「自分が……本当の自分でなくなるのが、怖いんです。さっきだって……自分は冷静なつもりだったけど、よくよく考えたら酷いことをしてた」
言葉がつっかえる。喉が熱い。
「チェシーさんの腕を、両方とも……斬らせてしまった。ごめんなさい」
チェシーは異形の腕をニコルの背中に回した。胸に引き寄せる。
「魔召喚すれば腕なんかいくらでも生やせるって知ってたからだろ?」
「そういう意味じゃなくて!」
「じゃあ、何だ」
低い声がそっと耳朶に触れる。
ニコルはチェシーの胸に顔を埋めた。心の奥底にある思いを、全部吐き出す。
「もう、二度と、こんな思いはしたくないんです。虚無になんか二度と支配されたくない。でも、そのためにはどうしたらいいか、まだ分からないんだ」
また声が詰まる。
チェシーはそっとニコルの髪に触れた。何度も、愛おしむように優しく手を滑らせる。
「心配しなくていい」
涙に濡れた髪をそっとかきあげ、頬に指を添わせて、伏せた顔を上げさせる。
「我々がいる」
「え……」
ニコルは優しすぎる指使いに思わずうろたえた。驚くほど近くにチェシーの笑顔が迫っている。
「わ……我々ってだれ……?」
目元、濡れた頬、おとがい、唇と優しく触れられるたびに心臓が痛いぐらい跳ね上がった。
吐息が耳元に触れる。チェシーの金髪がくすぐるように降りかかって、揺れた。
「君を虚無から護る守護騎士その一と、君の虚無からその他を守る守護騎士その二だ」
ニコルは身をかたくした。
「で、でも……」
「ホーラダインも俺も、自らの良心と信念にのみ忠誠を誓う騎士だと自負している。そもそも絶対に、とか、二度と、とか。わざわざかたくるしく考えるな。たぶん何とかなるだろぐらいが前向きでちょうどいいんだ」
チェシーはかすかに笑うと、ニコルの手を取った。
ゆっくりと手を引いて、立ち上がらせる。
ニコルは息をついた。思わず苦笑いが洩れる。
「う、うん、そうす……うわあ!」
歩き出そうとしたとたん。長いコートのすそを踏んづけ、思いっきりつまづいた。すかさずチェシーが腕を差し入れてニコルを抱きとめる。
「危ないな。脱いだほうがいいか。いや……」
言ってから、なぜか微妙に顔をこわばらせる。
ぎごちなく眼をそらす。
「何ですか、その顔」
「……本当に、男じゃなかったんだな、と」
「何でわざわざ見るんですか、って、あっまた見た! うわっ」
ニコルもまた視線を下へと移し、眼に飛び込んできた肌色に仰天した。何とか胸元のホックを合わせようとあわてふためく。
「ああっ何これ、ホック取れてるっ……かぱかぱっ……うわわわ、ホックは、ホックはどこ……ああ合わせられない……!」
「今ごろ気付いたのか。気にするな。どうせ見えたところでろくな段差が見えるわけでなし」
「ばかあっ!」
ニコルはあまりの恥ずかしさに顔全体を真っ赤っ赤な鉄板みたいに染めながらチェシーを突き飛ばした。長すぎる袖でべしべしと引っぱたく。
「この期に及んでそんなこと言うなんて、やっぱり女ったらしが直ってない!」
「すまない。嘘を言った。正直に言おう。隠しても隠さなくても関係なかった」
「どうせもともと胸なんかありませんよ! っていうかそっちのほうがよっぽどひどいじゃないですか。いい加減にして下さいよ今どんな状況か分かってるんですか」
あまりのわざとらしさにあきれ果て、笑いながらもニコルはぽろぽろと泣き出した。
「もう、絶対こんなのあり得ない……えっち! おたんこなす! 二枚舌! チェシーさんなんて、もう、大っっっ嫌い……!」
「ああ、知ってるよ」
チェシーはどこ吹く風だった。悪魔めいた口振りでほくそ笑む。
「そんな君が気に入ったんだ。信じてもらえないとは全く嘆かわしい限り……シッ。静かに。誰か来た」
チェシーはふいに険しい顔を作った。
指を立ててニコルの唇をふさぐ。
半ば覆い被さるようにして、壁に身を隠す。ニコルは、チェシーの腕の中でまた動けなくなって、じたばたともがいた。
「誰か来たって、気のせいじゃ……《
「そりゃあ誰も来ないに越したことはないが、こんなところを見られたら困るのは君の方だろ」
「い、いや、それは……ちょっと待って、こんなところって、どんなところ……?」
「だから静かに」
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