私が欲しかったのは、貴女だ

 白い吐息をまとわせ、頭をそっと傾けて寄せて。

 ニコルはザフエルの背後にそびえ立つ聖女像と、その台座に刻まれた碑文を見つめた。


「騎士は、聖女に剣を捧げ信仰の証たる永遠の忠誠を誓い。聖女は騎士に命を捧げ信仰の証たるルーンの福音を与う」


「戯言だ」


 ザフエルは闇雲にかぶりを振った。狂気めいた音を立てて鎖がいっぱいに張りつめる。

 脳内に地鳴りの音がとどろく。世界が崩れ始めたかのようだった。二人だけの、永遠の牢獄が。


「私が欲しかったのは、貴女だ。ルーンじゃない」


 白い吐息が荒々しく立ちのぼる。


「福音など、もはやどうでもいい。貴女を我がものにさえできれば、それで。いくら恨まれようが構いはしない。聖女ソロールレイリカが、実の兄ローゼンクランツの子である貴女に連綿たる虚無の十字架を負わせたように、貴女もまた次なる定めの娘に、私の子に、呪いと憎しみの血を継がせればいい」


「だめだよ、ザフエルさん」

 薔薇の鎖に繋がれた手と、ザフエルの手を絡め合わせる。

 残酷な鉄のとげが手首に赤く食い入った。


「呪いと憎しみじゃ、何も変えられない」


 ぽたりと落ちる薔薇の色にザフエルは息を呑む。

 薔薇のからみつく祭壇に、何かが光っている。天球図を描き出す器械から暗黒の光が漏れ、屈折しつつ四方に反射して、床に巨大な魔法陣を映し出していた。

 一点を中心に、ゆるやかに変化しながら回転し続ける光の輪。

 墓標の如く祭壇に突き刺さった巨大な薔薇十字が、見えない光にその真の姿を透かされ、影となって床に落ちる。


(けだかき薔薇に いだかれし みどりごは)

(こころやすく ねむり給う こころやすく)


 濡れたように光る、闇の紫光。くろがねに精緻な金の象嵌を施した薔薇十字ローゼンクロイツの紋章に添えられたいつわりの慈句は、だが魔法陣の紫微光が横切った瞬間に、残酷な真の呪詛ゲッシュへと置き換わる。

 薔薇文様に彩られた死の誓い。


(その命のすべてを 永遠の祈りに代えて)

(守護たる騎士にこそ 捧げまつらん)


 通常の光のもとでは決して見ることができない闇の啓示が、まざまざと浮かび上がる。

 薔薇の鎖が五線譜となり、歌となり、合唱となって、犠牲を讃美する荘厳な旋律を奏でる。

 咲き乱れる贖罪の祭壇を見やって、ニコルは少し息をついた。


「ルーンには、聖女の魂が込められている。僕が《封殺ナウシズ》の加護を受けられたのは、僕を護るためにマイヤが——強い呪いと祈りを遺して——死んでくれたからだ」

 砂が細い滝となって天井からこぼれ落ちる。落石の衝撃が地盤を揺るがした。

「いくつもの死の結果が、今の僕だ」


 天井から光芒が差し込む。砂ぼこりをつらぬいて落ちるかすかな光は、一条の蜘蛛の糸にも似ていた。


「虚無を受け入れるには、きっと、ただの絶望だけじゃ足りなかったんだろうね。だから、ローゼンクランツは僕をあなたに与えた。今度こそ間違いなく《虚無ウィルド》のルーンを手に入れるために。ザフエルさんが苦しむと知っていながら、わざと。もしザフエルさんが情に流されて僕を見のがせば、きっと神殿は見せしめにあなたからすべてを奪う。第五師団のみんなやアンドレーエさんやエッシェンバッハさんや、もしかしたら義父さまや義母さまやシャーリア殿下やフランゼス、この国すら壊すかもしれない。僕に関わったひとたちすべてを」


 青白い微笑が頰に差した。


「だから」

 ニコルは声をたてて笑った。

「決めたんだ。ホントに楽しかったから。ザフエルさんや、チェシーさんや、みんなと一緒にいられたときがいちばん楽しかった。信じられないぐらい、幸せだった」


 はればれとした声音で続ける。


「ねえ、覚えてる? ザフエルさんが毎朝、秒数数えながら僕の部屋のドアを爆破してたの。せっかく作った野菜を丸裸にしてくれたこともあったよね。それから、不気味な物体をノーラス中に大発生させちゃったりもしたし、頭をぶっつけて記憶喪失になったこともあったっけ。楽しかったなあ……さんざん喧嘩して、ぎゃあぎゃあ騒いで、みんなで笑って。もう、これで十分。一生分の思い出だ。本当にありがとう。だから」


 地下聖堂の中心部。薔薇十字のたもとの台座を指さす。


「僕を、贖罪の祭壇に連れて行って」

「いやです」

 ザフエルは低くうめき、その場に膝をついた。

「貴女ではない別の誰かが苦しめばいい」

「だめだよ。そんなこと、僕が許さない」

「……私が苦しむのは平気なのですか」


 ニコルは、ゆっくりとザフエルの髪に手を滑らせた。黒髪を指で梳き、音もなく肩にこぼす。

「……ごめん」

 ザフエルはまるで幼な子のように、頭をニコルの手のひらに撫でられるに任せた。

「教えになど、固執しなければよかった。嘘と偽りの自堕落な日々など、捨ててしまえばよかった。たかが聖女ひとりに心動かされたりしなければよかった。貴女を、愛してはいけなかった」

 声が、哀れなほどに震え出す。

「そうすれば、サリスヴァールごときに……無様な……嫉妬をすることもなかったのに」

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