貴女を——汚す

 ニコルは低く笑った。

「きっと、いつかはこうなるってわかってた」


 神に仕えるものは、神の定めた運命に逆らうことはできない。

 人は神の前に無力だ。神はすべてを定め給う。誰の身の上にも等しく時が流れるのと同じく、千々の運命を等しく定め給う。教えとは真理であり秩序であり従わねばならぬ掟そのものだ。まつろわぬことは赦されない。ましてや、奇跡を望むなど。

「それでも、楽しかったから」

 語尾が震える。


 ザフエルはニコルの頬に触れた。伝う涙のつめたさに、つい、もどかしい手つきで包み込む。少しでも温められるように。

 涙色の薔薇の瞳が揺れる。

 ニコルが感じている痛みは、幼き日のザフエルがかつて胸を切り裂かれ焼かれた痛みと同じだろうか。決して癒えることのない魂の傷は、白と黒の塔に幽閉された狂える女につけられたものだ。


 《破壊ハガラズ》の福音たる薔薇の瞳を受け継がなかった。

 ただそれだけの理由で。


 母親でありながらザフエルの存在を否定し。

 心臓を抉り出そうとし。

 嫉妬に狂ってニコルの命をも奪おうとした。

 聖女が何を孕み産むのかも知らず、ただ虚飾の幻影だけを信じ込んで。


 ——あの女と今のこのおぞましい己の姿と、何が違うというのか。


「……どうして、その罪を、墓場にまで持ってゆかなかったのです」

 くちびるに、言葉の毒を。

「そうすれば聖下が《虚無ウィルド》を怖れることもなかった。私がこんな命令を受けることもなかった。貴女を——辱めずにすむかもしれなかったのに」

 吐息に、悲痛の毒を入り混じらせて。

 神に捧げられたしるしである隷属のヴェールを引きちぎる。薔薇のティアラが床に跳ね、点々と転がった。

 甲高い音が反響した。闇に吸い込まれる。

 囚われの鎖が激しく揺れ動く。

「貴女は、存在してはならなかった」

 ザフエルは自らの喉を鷲掴んだ。息が白く、醜く、狂おしくみだれる。


 ——囚われているのは。縛られているのは。奴隷の如く這いつくばっているのは。むしろ自分自身ではないのか。


「聖下の、御命令です」

 あさましく醜い嘘を口にする。

 神への供物たる花嫁の、聖女の装いを力任せに破り捨てる。首に掛かったチョーカーがちぎれ飛んだ。薔薇水晶がこぼれ落ち、レースが張り裂け、留め具が音を立ててねじ切れる。

「《虚無ウィルド》の守護たる聖騎士ホーラダインの名において、穢れ無きルーンにのみ仕える守護のさだめを、高貴なる義務を」

 言葉の続きを無意識に飲み込む。


「貴女を――汚す」


 あきらめが白い吐息になって立ちのぼった。

「《虚無ウィルド》は、《薔薇十字ローゼンクロイツ》の闇。光でありながら闇。混沌でありながら無。今の貴女には、神の権威が及ばない」

 鉄の翼がもぎ取られる。金切声にも似た音を立てて散らばる濡れ羽。揺らぐ息。みだれる息遣い。もつれる白と黒の呻き。


「貴女の母親であるソロール・レイリカが、運命から逃げ出したせいで。貴女の育ての親であるソロール・マイヤがレイリカを連れて逃げ出したせいで。ルーンの定めに逆らったせいでこんなことになったのです。聖女として薔薇十字の理に従属し、支配される定めから逃げてはならない。永遠に、支配を、隷属を、従属を受け入れ続けるほかに道はない」


 鉄の音がちぎれそうに軋み、いっぱいに張りつめる。鈍色の光が散乱する。


「それが、よもや蔑ろにされるなどと、あってはならない。ルーンのゆりかごたる聖女が、自ら教えに叛き、穢し、聖俗の境域を越えようなどという矛盾を、ゆるしてはならない。なればこそ」

 幾度も見た悪夢と同じ。泥を跳ねて交わる剣と薔薇が、互いに酷く深く束縛し傷つけ合う鉄棘となって、罪の爪痕を描き出す。


 映らぬはずの影がゆがみ、引き延ばされて滑稽に踊る。常軌を逸した色彩が、天球図をまだらの光に染め上げる。魁偉な聖女像が古めかしくもみだらな笑みで墜ちる星を指差し、聖なる罪の受胎を告げる。


「我が父ローゼンクランツが、貴女の母親であるソロール・レイリカを——したように」

 やつれきった身体に背後から両手を回し、かき抱く。

 なぜかまるで抗おうとせぬのを、むしろ拒絶を煽り立てるためにむりやり引き寄せる。縛られた腕だけが反り返った。苦痛の呻吟がもれる。

 ザフエルは鉄の骨の浮き上がるニコルの背に顔を埋めた。くちびるを押し当てる。錆びた血がざらりとした。

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