この世界の誰よりも、貴方を

失楽園

 その日は、唐突に訪れた。


 空の彼方に、突如、暗雲が立ちこめる。

 鈍色に打ち輝く翼が雲霞のごとく寄り集まった。見る間に膨れあがってゆく。

 風が、凪いだ。

 ふいに、東の突風となって激しく吹き下ろす。

 森がどよめいた。木々の葉が、横薙ぎに振りちぎられる。野鳥の悲痛なさえずりが、散り散りに逃げてゆく。


 青黒く燃える闇の呪が、敵軍の先頭に立つ騎士を照らし出した。

 漆黒の悍馬にまたがり。

 夜の海にも似た瑠璃色の軍旗、獅子レグルスの大鎌を描いた旗を無数にはためかせ。

 左半身を足元までゆったり覆う黒いなめし革の外套を、高々と背後へと払いさばく。

 現れた異形の腕には、《悪魔の紋章》が蒼然とゆらめいていた。

 金髪が荒々しくなびく。

 顔半分を隠す異形の仮面の下に、魔性に魅入られた金泥の重眼が燃える。

 見つめる先には、山懐に抱かれた不落の城砦、ノーラスがあった。

 不穏の風が吹き寄せる。木の葉が舞い散る。

 誰かの嗤い声が、霞のように遠く流れた。

 騎士が、異形の手を振りかざす。

「目標、ノーラス。ありったけの悪魔を降らせて、稜堡と要塞砲を上空から破壊しろ。山ごと崩落させても構わん。あるじの居らぬ城など、一欠片たりとも遺してやる必要はない」

 ただ、冷たく命じた。



 北の空に悪夢が渦巻く。

 ノーラス城砦に、敵軍の接近を知らせる半鐘が鳴り響いた。

「敵襲! 敵襲です!」

 指揮官を失った第五師団は、完全に士気を喪失している。ノーラスに、対抗する戦力は残されていなかった。

 アンドレーエは、薄汚れた包帯で添え木を縛った足を引きずって、猛然と物見の櫓階段を駆け上がった。

 窓から身を乗り出し、半ば片手だけで、中空の手すりにぶら下がる。

「あれは何だ?」

 遠眼鏡を片目に押し当てる。

 後を追ってきたユーゴは、緊張しきった顔に脂汗を浮かべていた。単眼鏡から眼を離す。

「……空飛ぶ魔物かと」

「さすがにあれは、シャレにならねえよなあ、おい?」

 背中から尻の穴まで、ぞくぞくする寒気でみなぎってゆく。アンドレーエは、ひきつる顔半分をゆがんだ笑みで押し隠した。

 髪の毛を掻き上げる。

 暗雲が空一面に広がり始める。

「接近してきます」

「距離は」

「目算ですが、ざっと四千から五千」

 アンドレーエは遠い空を睨んだ。

「ユーゴ、質問だ」

「はっ」

「第一師団の報告書、読んだか?」

「読みました」

「どう思う」

「威力を過信した結果が、無闇な縦深戦術に繋がったかと」

「完全にブーメランってことだよな」

 半鐘の音が、けたたましく鳴り響き始める。

「お前の判断を問う。どうすればいい。内に籠るか、外に打って出るか」

 城砦内の楼に立てこもり、上部あるいは窓から侵入してくる敵を室内や隘路に引き入れて討つか。それとも。

 確信を持って答えられる内容ではないと分かっていて、アンドレーエは問い質した。ユーゴは絶句した。

「撤退しかありません」

 問われたうちのどれにも当たらない答えを、即座に下す。

「たとえ籠城したとしても、爆弾の威力が地下にまで貫通すれば全滅を免れないかと」

「了解。合点だ。第五参謀レゾンド大尉、第三参謀ファンデル大尉にノーラス撤退を説得しろ。俺は、エッシェンバッハのおっさんに伝えてくる」

 アンドレーエは凄まじく笑って、階段を飛び降りた。

 つんのめりながらも、走り出そうとしたとき。

 重くたれ込めた雲が、さながら破裂したかのように真っ二つに割れた。

 銀箔めいたかけらが降り始めた。一直線に、森へと吸い込まれてゆく。

 次の瞬間、火の手が上がった。振動が伝わる。

 吹き付ける風に激しくあおられ、炎が広がってゆく。煙が何本も立ちのぼった。

 雲が、次々に割れてゆく。

 白い煙を引き連れた銀の塊が、唸りを上げてノーラス城砦めがけて突っ込んできた。爆発する。稜堡の壁が崩れ、土塁に穴が開いた。

 爆発と崩壊の音響が、地面を揺るがす。

 粉塵に視界が失われる。

 足下が強く揺れた。壁の崩落する音とともに、助けを呼ぶ悲鳴がつんざく。

 焼けるような熱波が顔をあぶった。

「師団長、御加護を!」

 ユーゴが、濡らした布で口元を覆った姿で駆け寄ってくる。

 アンドレーエは、《静寂のイーサ》を動作させた。

 轟音と突風が抑えられ、視界が戻ってくる。

「気をつけて行け。爆発に呑まれたら終わりだぞ」

 ユーゴの肩を叩く。その姿が、屈折した光の向こうに揺らいで消えた。

 アンドレーエは四方を見渡した。

 城砦の頂上に、数十匹もの悪魔がまとわりついている。

 煙にまぎれ、内部に入り込もうとしているのか。

 鈍色の翼が、黒ずんだ煙の中で、位置を知らせるかのような火花の明滅を放っていた。

 甲高い悲鳴が聞こえた。

 何人もの女。それも、少女の声だ。

「あの声……!」

 アンドレーエは、身をひるがえした。

 崩れ落ちようとする門楼の下を、足を引きずりつつ駆け抜ける。瓦礫が頭上から降り注いだ。

 城砦と塔を結ぶ回廊が半壊している。

 砕けた柱が、そこかしこに転がっていた。

 傍らに、メイド姿の少女がしゃがみ込んでいる。何かを抱きしめているようにも見えた。

「何やってんだ、おまえ!」

 メイドは、砂に汚れた顔を上げた。声だけが降って湧いたように聞こえたのか。きょろきょろする。

 肩にライフル銃を回し掛け、ロールした金髪にはまるで似合わない鉄庇のヘルメット。

 年端の行かぬ幼女に覆いかぶさるようにして、崩落の瓦礫から庇っている。

「だっ、誰です」

 腕の中の幼女を、ぎゅっと抱きしめる。白いふわふわのドレスを着た女の子は、膝をすりむいて泣きじゃくっていた。

「ととさま、ととさまが!」

「ああ、もう、俺だよ!」

 アンドレーエは怒鳴り返した。

「ああん俺だーよさん……あ、アンドレさんか!」

 メイドは、泣きそうな声でうめく。

 それは、チュチュを抱いたアンシュベルだった。

「アンシュベル!? 公女と一緒に脱出したんじゃなかったのか」

 アンドレーエは絶句した。

 アンシュベルは、涙の跡を拳でこすった。かぶりを振る。

「逃げるなんてできっこないです。師団長が戻ってくるのを待つです……」

「はあ? 何言ってんだ。ここはもう終わりだ。全員、逃げるんだよ。だいたい、おまえ、自分の立場が分かってんのか? 神殿の奴らに見つかったら、酷い目にあわされるんだぞ。本当に分かってんのか!?」

 アンドレーエは、アンシュベルの腕を掴んで引きずり起こした。

「ととさまは、ねえ、ととさまは……」

 もう一人、ピンク色のドロワーズを丸出しにしてじたばたと暴れる幼女を、問答無用で腕に抱え込む。

「おちびは静かにしろ! 悪魔どもに気づかれる……」


 その、目の前に。

 銀の悪魔が、羽音を巻き起こしながら舞い降りた。

 アンシュベルが両手で口を押さえ、息を呑む。

 ゆるやかに波打つ銀の髪。肉感的な体躯。

 表情のない、のっぺりとした銀の顔。

 悪魔は、翼をすぼめるようにして畳んだ。

 ギ、ギギギ、と。壊れた仕草で首をねじる。

 奇怪な笑いにも似た息が、悪魔のくちびるからもれた。

 仮面そのものだった美しい銀色の顔が、見る間に醜悪な喜悦を浮かべた悪魔のそれへと吊り上がってゆく。

 次の瞬間。

 爆発した。

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