守るべき友

「駄目だ」

「最後の一人が渡り終えるまで、橋頭堡で待ちます。もし、仲間の誰かが河岸に到達したとき、僕ら味方が誰もいなかったらどうするんです」

 ニコルは思わずチェシーの名を口走りそうになって、喉元にまでこみ上げた言葉をぐっと噛み殺した。

「無駄だ。戻って来るわけがない」

 エッシェンバッハは軍帽の陰に表情を伏せた。

「そんなことないです」

「悪あがきは止せ。敗残の寡兵で何ができる。《庇護アルギス》と《封殺ナウシズ》の守護たる我らが揃って、あのていたらくであったのだぞ。いくら、彼の者どもが手練れとはいえ、あの状況ではひとたまりもあるまい。アンドレーエでさえ、あれから一度も信号弾の返信がない」

 吐き絞るような声だった。

「俺とて、最悪の事態など考えたくもない。だが、当て処のない希望に引きずられて道を踏み外すよりはましだ」

 エッシェンバッハは、闇すら呑み込む森から目をそらした。

 残酷すぎる現実が、諸刃の言葉となって突きつけられる。

 ニコルは、唇を噛んだ。黙り込む。

 依怙地に睨み付けた地面が、なぜか熱く濡れて滲んだ。

「きっと戻って来ます。絶対に、みんな」

 雨音の向こうから、魔の咆哮が聞こえた。急造の防御柵に向かって、騎士たちが駆け寄ってゆく。

 炎を溶かし込んだサーベルの赤い輝きが、鮮烈に目を射た。

「ならば、俺が北岸に残ろう」

 冷静な声が返される。ニコルは、弾かれたように顔を上げた。

「いえ、僕が残ります」

「余所者は信用できんか」

「そういうことじゃなくて!」

「俺の《盾》は、仲間を護るためのものだ。だが、貴公の《黄昏》は違う」

 真意を言い当てられたような気がした。ぞくりとする。エッシェンバッハの目が、心の奥底を射抜いてつめたく光った。

「上流方向、魔物の一群と接触。一部交戦中。師団長、ご命令を!」

 緊急事態に、判断を求める叫び声が飛んだ。森の奥から、地響きにも似た振動が伝わる。

「直ぐ行く」

 エッシェンバッハはきびすを返した。ニコルを押しやる。

「退け。邪魔だ」

「し、しかし、あの」

 ニコルは必死で首を振った。押しのけようとするエッシェンバッハの腕を、逆に掴んで引き止める。

 エッシェンバッハは、にべもなくニコルの手を振り払った。

「貴公ひとりだけが苦しんでいるだなどと思うな。皆、断腸の思いなのだ」

 かろうじて残された細い糸が、ぷつん、と切れたような、そんな心地がした。

 冷ややかに言い捨て、エッシェンバッハは歩み去ってゆく。

 ニコルは、その背中を眼で追った。

 所在なく肩を落とす。

 ここでできることはない。中洲へ引き揚げるしかない。

 そう、思ったとき。

 何かが、意識の端に引っかかった。

 視界の範囲が広がったような気がした。赤と黒の色しかない、ざらざらのモザイク状にしか見えなかったものが、唐突に鮮明な映像に変わる。

 見えた。

 何かが近づいてくる。探知の範囲に踏み込んでくる。

 先頭で導く焔のゆらめきが見えた。人の声がする。深緑の波動が、《先制エフワズ》の琴線に触れた。

 歩いている。走っている。続々と近づいてくるその数は、一人、二人、いやもっとだ。数十人、数百人――もっと多い。千に近い気配が、急接近している。

 熱情にも似た、猛々しい生気が押し寄せた。

 人の声。

 人の気配。

 歓呼が聞こえる。

 ニコルは、大きく揺れ動くルーンの瞬きに見入った。

 息を飲んだ。ルーンの輝きが、周辺を赤く透かして、晴れ晴れと放たれてゆく。

「これは、第一師団……じゃない。違う、《静寂イーサ》だ。エッシェンバッハさん、《静寂イーサ》です! 《静寂イーサ》だ! 《静寂イーサ》ですってば! ねえ、《静寂イーサ》!!」

「何度も言うな。聞こえている。五月蝿い」

 エッシェンバッハが立ち止まった。燃えさかる焚き火の向こう側から、冷静な声が返る。

「あ、あの、こっこっこれっ」

 ニコルは、上手く言葉にできず、身振り手振りでルーンを指差して示した。顔を赤くして口ごもる。

 エッシェンバッハは、銀の盾に触れた。腕に巻いた鎖がきらめきの音を立てる。微苦笑が口元を彩った。

「守るべき友を見いだしたようだな。行ってくれるか」

「はいっ!」

 ニコルは大きく勢い込んでうなずくと、すっ飛ぶように走り出した。

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