彼女を苦しめるものを、すべて、壊して、すべて、奪うしか、方法が

 反応の薄れたぬいぐるみを凝視する。

 伸ばして触れた指先に、蛍光を帯びた青い血が伝い落ちた。

 雨でにじんで、ぼやける。

 ねばつく悪臭が忍び寄る。背後から、泡を吹くような唸り声が聞こえた。

 チェシーは、酷薄に眼をほそめた。

 息を白く吐き、大太刀を押し構える。

 金青こんじょうの気炎が、刃にまとわり。

 青白い帯電の火花が飛ぶ。

 直後。

 全方位から、耳障りな咆吼が飛びかかってきた。猿とも、狼とも、熊ともつかぬ毛むくじゃらの異形が、毒の息を吐き散らし。

 襲いかかってくる。

 その数、無数。

 数えきれぬ牙が殺意となって、剥き出される。

 チェシーは、髪の毛一筋も乱すことなく振り返った。

 刃から放たれる眩惑の輝きが、四方八方へと走りつく。

 突風が、唸りを上げた。するどく逆巻く。明滅の雷撃が、ほとばしった。


──‡ 天空の稲妻、地の烈風。見えざる刃となりて、奔れ、神速の《零式れいしき》! ‡──


 真っ白な蒸気が、天空にまで吹き上がる。

 凄まじい太刀風が、森を、真一文字に突き抜けた。

 泥濘に潜んでいた魔物もろとも。

 地をぎ、雨を蒸発させ、視界をさえぎる森の木々を断ち割り。

 木っ端微塵に粉砕する。

 魔の軍勢は、悲鳴ごと黒い肉片となって四散した。チェシーは、凄惨に嗤った。嘲笑まじりに怒鳴る。

「イェレミアス!」

 悪魔の呼び声にも似た召喚の叫びが、森にこだました。

「聞こえるか、イェレミアス! そうやって、魔物の後ろに隠れて不意打ちばかりしているのが、貴様の戦法か! 俺が手塩にかけて育てた第四師団を、姑息で臆病な卑怯者の群れに成り下がらせて、さぞや満足だろうな!」

(これ以上、奴を挑発すんなよ。もう限界だってば)

 ル・フェはうんざりと言った。

 チェシーは、無表情に悪魔を見下ろす。

「この程度に手こずるとは。悪魔の名がすたるぞ」

(よしてくれ。だいたい、命の半分をに《封殺》されたままだってのに、今まで通りにれると思うほうがおかしいだろ)

 悪魔が嘆息する。

 ル・フェは、ぬいぐるみの身体をかすかに揺らした。青い血が地面に跳ねる。

(悪いが、もう無理だ。そろそろ死ぬ。マナの絶対量が足りない)

 ぬいぐるみの身体は、半分、すり潰されてなくなっていた。

 妖艶に照る呪の光が、血と汚泥に濡れた魔剣の肌を、あでやかに底光らせる。

「盟約の悪魔は、殺しても死なないんじゃなかったのか」

(だから、それは、人間の魂に取り憑いたらの話だよ)

 黒いガラス玉の目が、チェシーの背後を見た。迫り来る狂気が映り込む。

 チェシーは、ぬいぐるみの身体を引っつかんだ。身をかわす。

 頭上に、黒いねばつくものが投網のように広がっていた。

 魔召喚で呼び出された怪物の群れが、空間そのものから、どろどろと滲み出るようにして這い出てくる。

 びしゃり、と音を立てて。

 汚物の袋めいたものが落下してきた。

 赤、黒、黄色。無数の口がだらしなく垂れ下がった刺胞生物が、数百の刺糸を伸ばし、絡みついた。

 数匹をまとめて輪切りにして斬り飛ばす。腐臭を放つ臓物めいた何かが飛び散った。召喚のよすがを失った魔性は、しゃぼん玉が割れるのに似た黒い微細な妖気の滴となって蒸散する。

「また、俺に宿ればいい」

 地面を蹴り、降りしきる怪物と斬り結びながら、怒鳴る。黒ずんだ邪悪が、墨筆で描いたように空を踊った。

 ル・フェは、昔を懐かしむような、妙にかすれた声でつぶやいた。

(二度と、元に戻れなくなるぜ)

「どこに戻れるというんだ、この俺が、今さら」

(あいつのところさ。今なら、まだ)

 黒いガラス玉の目が、光を失う。

 口が、うつろに動く。

 凄まじい羽音が聞こえた。足下から雲霞のような黒蠅がわき上がる。

 たちどころにからみつかれ、全身を覆い尽くされる。

 身体中を這い回るおぞましい感覚に、チェシーは乾いた笑いを洩らした。

 極光が闇を斬る。

 足元に、魔物の焼け焦げた翅が散らばった。悪臭が漂う。

「戻ってどうする。くだらない宗教と、その信徒どもに責任だけを押し付けられ、良心すらがんじがらめに縛られて、妹さえまともに守ってやれない男のところになど」

 視線が森の一点を捉える。チェシーは雨を蹴散らして走った。大太刀の輝跡が、黒い虹の模様を幾重にも描く。

 閃光と闇の狭間で、魔物の首が落ち、牙が落ち、爪が転がり落ちる。死屍累々だった。

「彼女を守るため、秘密を守るために、裏切り者らしく祖国で死ねと。はっきり、そう言ってくれれば良かった。そうすれば、俺も安心して、あいつの前から姿を消せただろう」

 消える間もないほど、腐肉の死骸が積み上がってゆく。

 足元が、血の泥で滑った。だくだくと流れくだる。

「唯一、秘密を知る俺を、殺すこともできなかったあいつに、彼女を守る資格はない。だから。彼女を守るには、もう、こうするしかないんだ。彼女を苦しめるものを、すべて、壊して、すべて、奪うしか、方法が!」

 頰に、どろりとした血が奔りついた。チェシーは、ぎらりと眼を青く光らせ、濡れた頰をこぶしでぬぐった。ぬぐっても、ぬぐっても。ひりつくような感触が、どうしても消えない。

(そんなに好きなら、さっさと奪えばよかったんだ。そうしたら、本当のが見えただろうに)

 力ない、よじれた笑いが、とぎれとぎれに漏れる。

 ふと、その身体が、浮力を失った。

 自由落下する。

 チェシーは、とっさにぬいぐるみを掴み取った。

 ぬいぐるみから滴る光は、いつのまにか、黒い泥に変わっていた。

「もう一度、血の盟約を結べ、ル・フェ」

 チェシーは、ぬいぐるみの身体を裏返した。

 封じられた《悪魔の紋章》が、半ば消え、半ば瞬きながら、最期の命の炎を揺らめかせていた。

「俺の血を、魂の半分をくれてやる」

(サリスヴァール。後ろ……!)

 ル・フェは、ちぎれた腕を上げた。消え入りそうな声で呻く。


 一瞬の衝撃が、背中をつらぬいた。

 それが。

 何だったのか。

 チェシー自身にも、もしかしたら分からなかったのかもしれない。

 視線を落とす。ただ、見えた。背中から胸へ。心臓の位置から、鋭い金属の牙のような切っ先が。赤く凍りつく血の色に染まって。

 生えている。

 溢れる色。こぼれる色。あまりにも鮮明な、幻影の赤。ひゅう、ひゅう、と。破れた肺が笛の音をたてる。

 おそらく、これは、魔の瘴気が見せる幻。決して現実などではない……はずだった。

 視界が急速に暗くなる。

 闇が覆い尽くした。


 ぐしゃり、と血の色の泥を踏んで。

 漆黒のブーツが、チェシーの傍へと歩み寄ってきた。黒いマントが悽愴にひるがえる。

「まさか、もう死んだんじゃなかろうな」

 ねっとりと、糸を引いてしたたり落ちるような。

 つめたい憎悪を含んだ声が降った。

 チェシーは、倒れ伏したまま、動かない。

 大太刀が、ぬかるみの地面に投げ出される。微光を放つ刃が泥に沈んだ。

 かすかな息の音がした。

「そう簡単に死なせてやるわけにはいかん。安心しろ」

 イェレミアスは、薄い唇を、恍惚のかたちにゆがめた。血に濡れたサーベルを、チェシーの背中から抜き取る。

 イェレミアスは、こらえきれぬ驕傲の嘲笑を放った。

 泥に汚れたブーツで、チェシーの顔を、何度も何度も執拗に踏みにじり続ける。

 マントの襟に付いた金と宝石の房飾りが揺れた。

「哀れなものよ。己の姿を、泥の鏡に写して見るがいい。何と醜悪な、愚昧な、さもしい、非力な姿であることか。そうだろう、サリスヴァール……? 薄汚い野盗上がりの貴様など、この私に踏みにじられる虫けら同然の卑しい存在に過ぎぬというのに。よくも、よくも、今まで! 我が帝国を裏切り! この私を! 虚仮こけにしてくれたな!」

 声を甲走らせてなじり、蹴りつけ、血が噴き出すほどに傷口を踏みにじる。

「この、国賊ふぜいが。まずは貴様を血祭りにあげ、その命を生贄にして、ノーラスを、魔物という魔物の海で埋め尽くしてくれる。そうすれば、あの小賢しい城主も出て来ざるを得まい。《封殺》などという、矮小なる小僧一匹ごときに手こずる私ではない。一億の死、千億の地獄で喰らい尽くしてやる!」

 チェシーの腕が、びくりと引き攣れた。

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