弔旗


 依然、雨は激しいままだった。かがり火は役にたたず、薪をくべ足しても、湿った苦い煙を吐くばかり。

 杭に結びつけられたブリキのランタンが、強い風にあおられて揺れた。すでに火は絶えて久しい。

 かろうじて類焼をまぬかれた天幕だけが、見苦しく雨風にばたついている。

 朱く透ける光が、ひとつ、またひとつ、消える。

 閃く稲妻が一瞬、荒天を青黒く照らし出した。

 見張りの兵はどれも、絶望的に濡れそぼっていた。襟元を掻きあわせ、軍帽の庇を下げるだけ下げて、縮こまっている。

 アンドレーエは、すでに敵軍の陣中にいた。

 《静寂のイーサ》が感知する不可視光を通じて、暗闇をる。

 風景に、蛍光色じみた緑の色が重なった。

 天幕のかたちが浮かび上がる。入り口には、ぼんやりと白い熱源が二つ。見張りの兵だ。

 迷彩にまぎれてすり抜ける。

 積み上げた資材の陰に、いったん身をひそませる。アンドレーエは、大きく肩で息をした。心臓の拍動が、耳に突き刺さるようだった。

 眼を閉じ、息を整える。

 《静寂のイーサ》は、使い手の気力を、特に激しく消耗する。迷彩効果は有限だ。敵に感知されず、姿を消して自由に動ける時間は、ほんの数分ほどしかない。

 アンドレーエは、水底から戻ってきた海士あまのように、何度も大きく息継ぎした。

 肺を押さえる。息が、続かない。

 《静寂イーサ》の効果を解除する。

 たちまち、豪雨が白く全身を包んだ。痛いほどのつぶてとなった雨が、ひたすらに降り込める。

(無理しないでください)

 ユーゴが、手話の合図を送る。

 極度の緊張によるものか。押し殺す息の音までが高まっている。

 普段のユーゴなら、こんなに緊張をあらわにすることなど、決してないというのに。

(うるせえ。てめえこそ顔色悪いぞ。発煙弾、濡らしてねえだろうな)

 アンドレーエはわざと憎まれ口をきく。ユーゴは、ずぶぬれの青ざめた顔でうなずいた。

(師団長こそ。顔が土気色じゃないですか)

(泥の色と言え!)

 アンドレーエは、にやりと片目をつぶってみせた。親指を立てる。

(安心しろ。すぐに終わらせてやる)

 ユーゴの表情から、思いつめたぎごちなさが消えた。小さくうなずく。

 アンドレーエは言葉と裏腹に、上っ面の笑みを消した。

 山猫めいたするどい視線を、正面の天幕へと向ける。

 目指すは、ただひとり。

 ゾディアック帝国軍、第十磨羯宮まかつきゅう師団長アルトゥーリ。

 その名誉と引き替えに、いささかの博打を打つ。

  排水のため、周辺に幅広く掘られた明渠めいきょの溝に伏せる。匍匐して天幕へと忍び寄った。泥の中から、聞き耳を立てる。

 紛糾の声音が聞こえた。

 ゾディアックの言葉だ。言葉のわかるユーゴが、手話で同時通訳した。

(雨があがったら……進撃を開始する。ターレン型を捨てて……先行する第四巨蟹宮きょかいきゅう師団が……)

 唐突に、ユーゴは言葉を切った。

 続きをうながそうとして、アンドレーエはユーゴの表情に気づいた。視線が、あらぬ方向を向いている。

 ユーゴは、闇を凝視していた。死人を見るような眼だった。

 いったい、何を見ているのか。

 アンドレーエは、戦慄の視線が捉える先を追った。

 眼を凝らす。

 ターレン型重加農カノン砲だ。燃え尽きた巨大な鉄の残骸となって、林の陰にうずくまっている。

 吹きつける風雨が、とめどない雨だれ、風に散る水しぶきとなって、漆黒の砲身から流れ落ちている。まるで遺棄された廃墟のようだった。

 そのたもとに。

 弔旗が、手向けられていた。

 三脚の旗立てには、見覚えのある部隊旗。汚れひとつなく掲げられている。

 旗頭は黒い布で覆われ、同色の長旗となって地面を擦る。

 青い花環リースが添えられていた。蔓を編んで作られた、死を悼む花だ。

 濡れて、しおれて。無情の花片を散らす。

 寒気が、ぞわりと足下から這いのぼった。

「クラウスの旗」

 ユーゴが、呼吸を乱した。声にならぬ呻吟を、喉の奥から絞り出す。

 吸い寄せられるかのように、軍旗へと近づいてゆく。

「罠だ」

 アンドレーエは、ユーゴの腕を掴んだ。周辺を見回す。

 誰もいない。見張りすらいない。

 割れた板屋根を叩くのにも似た雨の音ばかりが、異様に大きく耳を突く。

 ユーゴは、まっすぐにアンドレーエの目を見返した。

「放して下さい、師団長」

「落ち着け、ユーゴ。罠だ」

 ふいに、別の鮮烈な光が閃いた。雷だ。アンドレーエは、とっさに意識を《静寂のイーサ》から引き剥がした。光の残像が、眼に焼き付く。

 一瞬、何も見えなくなる。

 轟音が落ちた。視界が闇に戻る。

「分かっています。だからこそ」

 ユーゴは、アンドレーエの手をゆっくりと押し返した。

「小官に行かせてください」

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