墜ちたのは天ではない

「地に落ち……」

 ヴァンスリヒトは、神殿騎士らしからぬ放埓な笑みを浮かべた。直後、サーベルの切っ先を、相手の面めがけて突き入れる。

「斬る」

「わわわわわわわあああアカンアカンアカン悪かった。クラウス、おい、やめえや。眼がマジやぞ」

 白く光るゴーグルに隠された懐かしい笑顔が、青ざめながら後ずさった。両手を上げる。

 ヴァンスリヒトは、手綱をぐいと引いた。緊迫と安堵の入り交じった息を大きくつく。

 もし、こいつが敵だったなら。今頃はもう、死んでいた。苦笑する。

「その怪しい泥面では、問答無用で斬り捨てられても文句は言えんぞ、ユーゴ。久し振りだな」

「偉っそうに。踏ん反り返って言いよる場合かお前。何でこんなんなっとんのや。あんだけこっちからワーワー言うて送ってんのに連絡ひとつ寄越さんとからに!」

 枯れ草の擬装をまとった第二師団猟兵隊参謀、ユーゴ・ツザキ大尉は、雨に濡れて曇ったゴーグルをはずした。声を荒げ、詰め寄る。

「うるさいな。説教はあとだ。それよりユーゴ、お国なまりがダダ漏れだぞ」

「はあ!? それどころちゃうわ。ゅうか、はよ全員退却させたれや。こんな、わやくそな攻撃させんなやダボ!」

「それはできん」

「アホか、はよせえや!」

「断る」

「くっそ、この石頭が! ……あいたた、違いますって、師団長じゃなくて。誤解です。口が裂けても、尊敬する師団長閣下の悪口なんて小官がいうわけ……オイコラ話聞けや! じゃなくてですね! ……アイサー、了解! 分かってますって、今すぐ離脱します!」

 ユーゴは、何度も耳を押さえながら怒鳴った。再びゴーグルを掛け直す。

「ターレン型の周辺に爆弾を仕掛けた。作動するまで、あと一分もない。《静寂イーサ》の光学迷彩効果もここまでや。ええからさっさと離脱せえ。巻き込まれんぞ」

「最初から黙ってそう説明すれば良いものを」

「うっさい黙れ唐変木! あかん、もう効果が切れる。呑気に井戸端会議なんかやっとる場合とちゃう。じゃあな、クラウス。また後で」

 ユーゴは腰をかがめながら、背を向けた。指を振って、敬礼くずれの挨拶を寄越す。

「ああ、いずれ、また」

 目に見えない空気の膜を突き抜けた、ような感覚があった。再び、周囲が土砂降りに包まれる。ユーゴの姿はもう、どこにも見えない。

 ヴァンスリヒトは、馬の手綱を取り直した。周囲を見渡す。旗手の姿が見えた。

 銃弾が飛び交うなか、駆け寄る。

「退却だ。全員、退け!」

 直後。

 背後が赤く染まる。

 おそらく、ユーゴが仕掛けたのだろう。大地を揺るがす轟音が、どす黒い雨空に突き上げた。頭上から、落下傘のような形の子弾が散らばった。煙を吹き出す。

 眼を開けていられないほどの分厚い煙だった。

 燃えながら落ちる炎のしずくが、撒き散らされる。

 雨にあたっても消えない火。泥水の上でも消えない火。百目の魔物がうごめいているかのようだった。

「退け。退け! 全員、退け!」

 退却命令を聞いた自軍の騎兵が、次々に馬首を返した。丘を駆け下りてゆく。ヴァンスリヒトは、生き延びた者の無事を確認しつつ、自分も退却にかかった。

 煙の奥から銃声がした。切羽詰まった叫び声に重なって、闇雲に何発も響き渡る。

 避けようとしたのか。旗手が、ぬかるみに足を取られ、大きく前のめりに身体を泳がせた。

 軍旗が倒れた。泥にまみれる。

 ヴァンスリヒトは馬から飛び降りた。旗手に駆け寄り、泥まみれの旗竿を掴んだ。支え起こす。

「撃たれたか」

「申し訳ございません、参謀閣下。我が軍の誇りたる軍旗を、このように汚してしまい!」

 雨に打たれ、泥水をたっぷりと吸った軍旗は、凶悪なまでの重量だった。これでは、とても掲げられまい。

 流れ弾が、唸りを上げて頭上を飛び交った。ヴァンスリヒトは、サーベルをふるった。軍旗の半分を旗竿から切り落とす。

 勝利を記した長旗ペナントだけがたなびく竿を渡し、手を振って旗手を追い立てる。

「これで軽くなっただろう。行け」

「閣下、しかし、これは、閣下の御旗で!」

「構わぬ」

 すべてを押し流す雨が、降りしきる。

 雨煙の彼方から、逼迫ひっぱくしたユーゴの叫び声が伝わった。

「クラウス、脱出しろ。爆発に巻き込まれるぞ」

「大丈夫だ。そんなに焦るな。すぐに行く」

 勝利を確信した笑みさえ浮かべながら、ヴァンスリヒトは振り返った。馬に歩み寄る。

 銃声が聞こえた。

 なぜか、握っていたはずのサーベルを取り落とす。

 跳ね返る鋼の響きが、凄然と耳を打つ。

 それを皮切りに。

 現実の音がよみがえった。瀑流のようだった。死を刈り取る稲妻が閃く。雷鳴がとどろく。怒号。爆音。剣戟。頬を打つ雨。押しつぶされた悲鳴。

 どこか遠くで、爆弾が炸裂したのだろうか。ユーゴの仕掛けた爆弾が。

 天幕が燃えていた。油混じりの泥が飛び散る。色のない、白と黒の煤煙が吹き流れる。

 燃えている。

 だのに、ひどく暗い。

 ヴァンスリヒトは、泥に落としたサーベルを見下ろした。

 また、地面が揺れ動いた。とめどない暴虐の雨。

 断層のごとく、天が、斜に傾いでゆく。

 違う。墜ちたのは天ではない。己自身が地に伏しているのだった。

 燃えさかる天幕が倒れかかってくる。

 途中で柱が折れたのか。ヴァンスリヒトの頭上を越え、崩壊する。

 白い軍衣にぽつりと芽吹いた血の薔薇が、雨に滲んだ。

 やがて少しずつ大きく、絞り紋様のように、幾重にも輪を描いて咲いてゆく。

「参謀閣下っ」

 逃がしたはずの、若い旗手の声がした。駆け戻ってくる。

「馬鹿者。退却だと言ったはずだ」

 ヴァンスリヒトは、血の気もないくちびるを叱咤のかたちへとひきゆがめた。

 続く声の代わりに、血が噴き出す。

 黒と赤の軍服を着た敵兵が、駆け寄ってくる。

 迎撃の銃列が火を噴く。味方の声はもう、聞こえない。

 深淵が見える。

 雷鳴が、吹き降りの荒天をどよもした。

 散乱した天幕の柱材が、そこかしこで燃えている。泥の表面を黒煙が這っていた。

 火。

 間近に迫る熱に、ヴァンスリヒトは意識を取り戻した。

 喉が、木枯らしのような音を立てた。

「まだ、生きているのか、私は」

 これでも、まだ、死ねずにいる。あの時から、ずっと、死に場所を探していたような気がするのに。

 血咳を吐いて、笑う。

 胸に忍ばせてきたのは、焦がれる思いだけではない。

 敵陣の彼方に、もうもうと立ちのぼる煙が見えた。擬装を施した幌が延焼している。

 白いマフラーを首に巻いた将校が、炎を前にして怒鳴っていた。

「消火急げ! これ以上、誘爆させるな……」

 火の点いた綱が切り落とされ、幌が引き払われる。

 赤く、黒く、燃え盛る炎が。

 そそり立つ巨大なくろがねの砲影を照らし出した。

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