シグリルへ転回し、全軍を護る盾となる

 暗い三叉路にさしかかる。手のひらを伏せたようなかたちの巨木が、暗く枝垂れていた。風になぶられている。

「良い目印だ」

 ヴァンスリヒトは、部下に命じて枝を打たせた。地面をこする枝を、鉈で次々に落とし、軍道の端に積み上げてゆく。

 大樹の枝が、ざわざわと音を立てた。道端の茂みに、白みを帯びた紫の花が群生して咲いている。

 曇天を仰ぐ。

 霧が深い。

 遠雷の響きが空気を震わせる。今にも降りそうだ。

 闇の向こう側に、カンテラの光が見えた。心もとなく揺れながら近づいてくる。後続の輜重部隊だった。岩を転がすような音を立てて、車輪が回る。通り過ぎてゆく。

 護衛の下士官がヴァンスリヒトを認めた。声をかけてくる。

「参謀閣下。どうかなさいましたか」

 ヴァンスリヒトは、気安い答礼を返した。物憂げに答える。

「何でもない。しばしの休憩だ。気にせず先を行ってくれ。サリスヴァール准将も、すぐに追いついてくるだろう。合流後は、指揮を准将に任せるといい」

「了解。ではまた後ほど」

 下士官は、輜重部隊とともに去っていった。すぐに見えなくなる。

 カンテラの黄色い光が、大樹の根元を、ぼんやりと丸く照らし出す。

 ヴァンスリヒトは、ふと思い立って傍らの若い旗手を顧みた。

「伍長」

「はい、閣下!」

 ノーラスからずっと、ヴァンスリヒト支隊の旗手として付き従ってきた少年兵である。緊張に頰を赤く染め、声を高まらせて、銃眼模様の軍旗を捧持ほうじしなおす。

「君は、イル・ハイラームの出身だったな」

「はい、閣下!」

 返答のたびに、金の房が上下に揺れる。

「軍人の家系か」

 旗手は頬を紅潮させた。

「いえ、閣下! 自分は志願兵であります。にもかかわらず第一師団参謀支隊旗手という、栄えある任務を拝命したてまつることができ、まことに、光栄至極であります」

 ヴァンスリヒトは、かすかに微笑んだ。

「ご家族は。兄弟はいるのか」

 旗手は驚きの眼を押し開いた。ヴァンスリヒトを見上げる。

「母と、妹が二人です。閣下」

「父君はどうされた」

 核心を突く質問に、旗手は声を詰まらせた。

 黙り込む。

「そうか。凡ては神の定めたもうた運命さだめ。心静かに祈ろう」

 ヴァンスリヒトは、胸の薔薇十字に手を当てた。

 目を閉じ、心と向き合って、祈る。静謐が満ちる。誰も、口を差し挟もうとはしなかった。

「すまない」

 風だけが吹きすぎてゆく。

 ヴァンスリヒトは、閉じていた眼を開いた。

 足下の花が揺れた。ざわざわと葉ずれの音が高まる。

 森の奥から高く、低く。幾重にもなった遠吠えが伝わってくる。群れからはぐれた狼が、仲間を求め、呼びあっているのかもしれなかった。

「ただいまより、我が支隊は」

 声が、途切れる。

 ヴァンスリヒトを取り囲む配下の士官たちの輪が、一歩、縮まった。

 馬の荒ぶる鼻息が、夜霧に吹き流されてゆく。

 金具の触れあう音。土を踏みしめる音。銃を構え直す音。

 ヴァンスリヒトは威儀を正した。

 決意の顔を上げる。

「シグリルへ転回し、全軍を護る盾となる」



 夜霧が白く濁っていた。渦を巻いて視界を奪う。

 ひしめく輜重車の軋みが、どこまでも続いている。隊列を組む歩兵もまた、どんよりと薄汚れた顔で足を引きずっていた。

 すすり泣きが聞こえてくる。負傷者の喘ぎだろうか。

 チェシーは、いたたまれぬ思いで馬を進めていた。

 状況は相変わらず最悪。地獄の底辺を流離っているに等しい。 

 先を急ぎはしないものの、その代わり、極度に神経をすり減らす行軍だ。

 兵の間に、死への不安が蔓延しているのもわかっていた。だからこそ心を鬼にして、南へ、南へと、追い立ててゆくしかない。

 前方で明かりを掲げているはずの部隊でさえ、定かには見えなかった。

 霧も、闇も、濃い。この状況下では、互いの姿を確認することすら容易ではないだろう。

 すっきりと見通しよく下枝を刈った巨木に、樹皮を剥いで刻んだ道しるべが刻まれている。三叉路のもう一方は、積んだ枝で塞がれていた。

 通り過ぎる。

 苛立たしかった。

 何時間かけて前へ進んでも、その先にいるはずの人物が見い出せない。

 他の部隊を見つけるたび、馬を走らせて声をかけてはみるものの、どれも、目指す人物とは違う。

 さらに先を急いだ。隊列の先頭へと出る。

 部隊前方に掲げられている軍旗を視認。やはり、ヴァンスリヒト隊のものではない。

 声をかけると、護衛の下士官は、安堵の表情を明るくして振り返った。

「准将閣下。お待ち申し上げておりました」

「君が部隊の先頭か」

「今はそのはずです。閣下がおいでになるまで、先導するよう申しつかっております」

 チェシーは、失意をかろうじて押し込めた。

「ヴァンスリヒト大尉はどこだ」

 意外なことに、下士官は得心した様子でうなずいた。馬上で身をひねって、振り返りながら後方を指差す。

「大尉でしたら先ほど、あちらの」

「何だと。会ったのか。どこで」

 チェシーは、思わず声をするどくさせた。ぐいと身を乗り出す。

 下士官は困惑の表情を浮かべた。

「いえ、その、会ったというほどでは」

「いつだ。教えてくれ」

 畳みかけられた下士官は、眉根を強く寄せた。しばし考え込む。

「……確か、道が三叉路になったところで、大尉の部隊と行き違ったように思います」

 チェシーは記憶を研ぎ澄ました。背後を振り返る。

「すれ違った? あの三叉路か。何をしていた」

「休憩と仰っていました。部隊に訓示していたものと思いました」

「そうか。分かった。ありがとう」

 チェシーは、礼を言ってその場を離れた。

 何度も後ろを振り返り、表情をゆがめ、かぶりを振る。

「まさか……」

 空気の匂いが変わった。

 ぽつり、ぽつり。そぞろに葉を打つ音が聞こえ始めた。

 かと思うと。

 強い雨だれの音が、森全体を包み込んだ。急な雨音に、兵のあげる動揺の声までもが飲み込まれる。

 足下が、急速にぬかるみ始めた。泥水が、轍の跡を削りながらみるみる溜まってゆく。車輪が踏み込む勢いで、黒く、水が跳ねる。

「くそ、来やがった」

 チェシーは、濡れて貼り付く前髪を払いのけた。舌打ちする。

 ただでさえ足元の悪い道だ。行軍の兵たちが、絶望の呻き声をあげて立ち止まる。

「止まるな。おい、そこ、後続を見ろ。どんどんつっかえて来てるじゃないか」

 つとめて余裕の声を上げる。雨の飛沫が飛んだ。馬体から白い蒸気が上がる。

「行け。とにかく、進むんだ。止まるな」

 この雨では、もう、後戻りできそうにもなかった。


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