すうじだってひゃっこもかけますのよ
ニコルは、逆に驚いて目を丸くする。
「僕の?」
「他に誰が居る」
「それはそうですけど。本当に急ですね。何も聞いてないです」
「我々は、基本的に防衛のみを任とする。よって作戦行動時は、第三師団の全軍が北方面軍司令官、すなわち貴公とノーラスの守備に回ると考えてもらって構わない」
エッシェンバッハは、指先だけを振ってぞんざいな敬礼をした。腕章代わりに巻いた鎖が、ざらりと音を立ててほどけた。銀色に揺れる。
「貴公に、我が師団の戦時統帥権をゆだねる」
「え、い、いや、はいっ、こっ、こちらこそ」
ニコルは眼を白黒させて、礼を返す。その様子を一顧だにせず、エッシェンバッハは事務的に続けた。
「控えの間に俺の副官がいる。兵舎配置等の軍務作業を早急に行って欲しい。第三師団本隊の到着は明後日だ」
ザフエルが無言で頷く。
エッシェンバッハは、居合わせた全員の眼を射抜くかのように見渡した。
「幕下に入ったところで意見奏上するが、俺は、先ほどの参謀部意見に反対だ。ノーラスの兵力増強が叶ってなお局所防衛に固執するは、早計に失する類の判断と考える。現状に変更があった以上、改めて作戦の検討をし直すよう要求する」
無言を通すザフエルに、エッシェンバッハが詰め寄る。
「返答なきは異議なしと見なすが」
一見、平静を装った沈着な態度とは裏腹に、双方ともが奥底に火種をはらんだ強い視線を、相手の喉元に突きつけてでもいるかのようだった。
「どうだ、参謀長」
「まあまあ、二人ともそんなコワイ顔しないで」
極限まで緊張が高まりきった頃合いを見計らって、ニコルは、のんびりと間に割って入った。
ひょこんと挙手する。
「参謀長、発言してもよろしいでしょうか」
「どうぞ、閣下」
ザフエルはむっつりと答える。
ニコルは気にせず微笑み返した。かるく頭を下げる。
「じゃ、僕の意見を言います。ザフエルさんは、期間はともかく、一度ツアゼルホーヘンへお戻りになるべきだと思います」
ザフエルは、ニコルの眼を見返した。反駁の声音を押し殺す。
「それはできません」
「いいえ」
ニコルは表情をゆるめた。緊張を解きほぐすために、わざと、ゆっくりと言葉を探す。
「敵が今までとは違う動きを見せてきた以上、こっちもそれに応じた柔軟な対処っていうのを考えていかなくちゃって思います。確かに第五師団、というか僕に対しては、ノーラス防衛線の死守命令が出てますけども。それはこれまで通り粛々と遂行するまでであって、今は」
死守命令にザフエルはじめ第五師団の全員を巻き込むつもりはない、と。
そう、ニコル自身が明言したことは今まで一度もなかったし、これからも決してすることはないだろう。だが、口にされぬ真意を恐れるあまりに、大局を見失い、ノーラスに固執し、自縄自縛の状態に陥っているのは明らかだった。
ザフエルからエッシェンバッハへ、ゆるやかに視線を移動させる。
「いたずらにツアゼルホーヘンの孤立感をかきたてるのは、避けた方がいいかなって思います。陽動と見なして動かなかったら、逆に攻勢を強めてくるかもしれないですし。何よりも、当のザフエルさんがいちばん、
ニコルは、全員を見回した。力強い同意の視線が収斂する。ニコルは、得たりとばかりにうなずいた。
「でしょ? 僕ら全員、国の矛たる軍人である前に、民の盾たる騎士であるべきです。そういうことですよねエッシェンバッハさん?」
「いかにも。猊下ともあろう方が領民をあだやおろそかにしたなどと謂われなき責めを受けるいわれは」
エッシェンバッハは、突然後ろを向いて咳き込んだ。
「失礼。何でもない。続けろ。げほげほ」
「……私のことなどどうでもよろしい」
ザフエルは低くつぶやいた。
「もし、万が一、閣下の御身に何か起こりでもしたら」
眉根を寄せ、沈思の素振りを見せる。
「ザフエルさん」
ニコルはエッシェンバッハと一瞥を交わしあってから、ザフエルをうながした。
「ツアゼルホーヘンは、ザフエルさんの故郷じゃないですか。お国の危機です。ノーラスは僕とエッシェンバッハさんに任せて。どうか、お心置きなくツアゼルへお戻り下さい」
「参謀長」
「どうか我らにお任せを」
「ノーラスと師団長閣下は、我々が、命を賭けて守り抜きます!」
他の士官達が、奮起の声をそろえる。
元帥としてではなく、神殿騎士の一人としてエッシェンバッハが言葉を添えた。
「猊下。先ほどは極言を申しました。が、思うところは小アーテュラス卿と同じ。どうか、我らの意をお汲み下さるよう」
ザフエルは顔をそむけた。
「だが、任地を離れるわけには」
言葉を切り、ためらう。かすかに揺らぐ黒いまなざしが、ニコルへと向けられた。
「大丈夫ですってば」
ニコルは、呑気に安請け合いしてみせた。胸に手を当て、笑って肩をすくめる。
「僕のことなら大丈夫です。もう、初陣の時みたいに、ザフエルさんの背中にしがみついてわあわあ泣いたりしません。怒られて拗ねて家出して洞窟で迷子になったりもしません。手綱に手を引っ掛けて川に飛び込んだりもしません。ずっとザフエルさんが僕を護ってくれてたみたいに、今度は僕がノーラスを全力で護ります。だから、だから……えーと」
ザフエルはむっつりとニコルを見た。
「だからの次は」
ニコルは、しゅんとちいさくなった。指先を突き合わせながら、首をちぢこめる。
「……肝心の決めぜりふが決まってませんでした」
エッシェンバッハは、こめかみを押さえた。悄然とかぶりを振る。
「何だ、このクソな結論は。俺の迫真の演技が台無しだ」
「どうせそんなところだろうと思っていました。良いでしょう」
ザフエルは、もういつもと同じ仮面の表情を取り戻していた。事務的に宣言する。
「お許しも出たことですし、私は、敵第一
「はい!」
「本案はこれをもって作戦了承されたものとする。以上だ。解散」
ニコルは、精一杯の勇気をふるって敬礼した。
「お任せあれです!」
参謀士官たちが去った後。
指揮室に残ったのは、不思議に穏やかな静けさだった。
ニコルは部屋の隅の椅子に腰掛け、ぼんやりと窓越しの夜を見はるかしていた。ザフエルとエッシェンバッハはまだ、互いに納得が行くまで、戦略地図模型を前に意見を戦わせている。
先ほどの激論とは、まるでうって変わった雰囲気だった。双方とも、緻密かつ慎重な意見を突き合わせることに終始している。
と思っていたのもつかの間。
「閣下。何とかして下さい」
呼びかけられて、はっとする。うたたねしてしまったらしい。
ニコルは、あわてて身を起こした。
「ねんねしてらしてもよろしくてよ。わたくし、ひとりでもよいこにできますもの」
「は?」
目の前に、なぜか。
「エスコートかんしゃいたしますわ、ホーラダインげいか」
泣きぼくろのちっちゃなレイディがいた。
「はじめまして。ごきげんよう。あなたおなまえは?」
何のてらいもなく、ちっちゃなレイディはスカートをつまんでおじぎをする。
ニコルは、眼をぱちぱちさせた。
ふわふわ、くるくる。まるで人形のようだった。白金色の髪に青紫色の大きな瞳、毛糸でつながったミトンをはめて、頭にはエンジ色のベレー帽。すとんと幅の広がったエプロンドレスにしましまの長靴下をはき、子どもが身につけるにしてはいささか不相応な古臭い木製の薔薇十字を首にかけている。
ニコルはもう一度、眼をこすった。どうやら珍妙な夢を見ているらしい。
「アーテュラスと申します。ちっちゃなレイディ」
夢ならば夢らしくと、聞かれるがままに返答する。少女は、たちまちつんとあごをそらした。
「わたくし、ちっちゃいこじゃありませんわ。もう五さいですもの。すうじだってひゃっこもかけますのよ」
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