破壊《ハガラズ》の聖女《ソロール》
「あえて遠ざけようとなさっているように思われます。あの者との間に何か
ずばり問いただされる。丁寧ではあっても、有無を言わせぬ態度だ。
「まさか昨日の殿下との件で」
「違います。いくら僕でもそんな個人的なことでどうこう思ったり……したくはないです」
ニコルは首を小刻みに振った。これでいい、これが正しい選択だ、と何度も心の中で自分に言い聞かせる。
「では、何です」
ザフエルの視線が物々しい鉄の質感を帯びる。
ニコルは、いもしないアンシュベルを探して、視線を隣室の扉へと向けた。着替えを取りに行ったきり姿を見せないところを見ると、どうやら荷物の整理に手こずっているらしい。
こんな時こそ、せめて場の雰囲気をやわらげに顔の一つもひょいと出してくれれば良いのに。などと、つまらぬ願いを掛けてみはするものの、その希望が叶う可能性は万に一つもありそうになかった。
「チェシーさんとは、別に、その」
言いかけたとたん、ザフエルの冷徹な視線を浴びた。
気まずく言いよどむ。
だが、いつまでも黙り込んでいるわけにはゆかなかった。いずれ来る危機から眼をそらすことも許されない。警告したのは当のチェシーなのだ。
ニコルは眼を閉じた。いろんな声が聞こえたように思った。すべてが遠い思い出だった。
「
「承ります」
ザフエルは微動だにしなかった。余計な口を差し挟むことなく、次の言葉を待ち受ける。
そして、賽は投げられる。
ニコルは感情を殺した。乾ききった下唇を湿し、一気に言葉を吐き出す。
「今後、亡命者チェシー・エルドレイ・サリスヴァールの行動を逐一監視、報告するよう。軍憲に手配をお願いします」
「了解。監視の強化を徹底します」
ザフエルは淡々と復唱したのち、名状しがたい眼差しをニコルへとくれた。
「よろしいのですか。それで、本当に、閣下は」
ゆっくりと念を押してくる。完璧なまでに平静を保った冷淡な口調は、まるで今日の事態を予測していたかのようだった。あるいは――ひそかに待ち望んでいたか。ニコルは自らの愚かさをせつなく笑いのめした。
「良いわけないじゃないですか。でも、他にどうすればいいのか」
投げやりに言ってから、うつむく。
ザフエルは振る舞いを控えたまま、ニコルが続けて言うのを待っている。
ニコルはまた、言いよどんだ。本当ならもっとザフエルの視線に怯えなければならないのに、それも叶わない。
ザフエルは、何を、どこまで知ったのか。
その恐怖さえ、今のニコルには敵だった。余計な私情などおくびにも出せない。表情にも声にも態度にも、何一つ。
ザフエルの前では、息をすることすら許されないような気がした。苦しい。
「ザフエルさん。僕の判断は、間違ってますか」
「防衛拠点であるノーラスに、サリスヴァールは適材とは言えません。主力である東方面軍への異動は適切と考えます」
素っ気ない反応。気付いているのか、いないのか。疑念を匂わせるような言動は寸毫も見られない。
「フハ~ン、ルララ~~、ウェ~~~」
ぱたんと戸が開いた。調子っぱずれな歌とともに、いろいろと抱え持ったアンシュベルがようやく戻ってくる。
「師団長、お着替えとメガネと包帯をお持ちしましたですう。すぐに交換なさいますかあ」
「あ、うん、いや、ええと」
何となく答えてしまってから、ニコルはうろたえた。さすがにザフエルの面前で堂々と着替えるわけにはゆかない。どうごまかしたものかとまごまごしていると、ザフエルが余計な気を利かせて重々しく口を挟んだ。
「お着替え、手伝いましょう」
ニコルは全力で丁重に断った。
「結構です」
「それは残念ですな。今日こそ閣下のごっくん生着替えを目の当たりにできるかと思って激しく期待しましたのに」
言いつつ、アンシュベルが下げてきた盆に乗せてあったニコルのメガネを取りあげる。
「どうぞ」
手づからメガネを鼻の上へと乗せ、髪をかきよせて、耳につるをかけさせる。手のひらが頰に触れた。
黒と白。
ルーンの醸し出すたまゆらの響きが、共鳴する。
メガネを通して見た部屋は、不思議なほどあざやかな超現実感を帯びているように思えた。先ほどまでは、心もとない気持ちが影になって漂うかのようだった世界が、今は、ザフエルの姿かたちや感情でさえ、確固たる存在として地に足が付いている気がする。
「あ、ありがとです……」
ニコルは、なんともいえない受容の感覚に揺られた。ザフエルの腕にほの昏く宿る《破壊のハガラズ》を、ぼんやりと見つめる。陰陽の模様に引き寄せられそうになる。
「じゃなくて! 見なくていいですから!」
そこで我に返って、顔をあからめる。
ザフエルは嘆かわしげに眼を伏せた。ぼそりとつぶやく。
「……こんなことなら閣下が気を失われている間に、もっとたっぷり見ておけばよかった」
どうやら人払いの時間は過ぎたようだった。がらりと変わった声の温度が、如実にそれを物語っている。
「きゃーーーやっぱり何だかんだ言ってちゃっかり見てるですね⁉︎ 副司令のえっちー! きゃーーー!!!」
さっそくアンシュベルが大喜びで悲鳴を上げる。
「み、み、見たんですかッ!」
「いえ残念ながら定かには」
ザフエルはごほんと咳払いした。
「あ、あの、でも」
ニコルは、妙に身の置き場を無くしたような心地になって尋ねた。
「僕、この怪我のせいで、しばらくノーラスに帰れないんですよね。ザフエルさんは先にお戻りになります?」
「私が戻ったら、誰が帰投の許可を出すのです」
「うっ、なるほど。だとしたら、僕ら二人ともそんなに長い間、ノーラスを空っぽにしていいんでしょうか」
「レゾンド大尉が留守を守っていますが……気になるようでしたら、ヴァンスリヒト大尉が撤収してくるまで、エッシェンバッハ元帥にノーラスで寄留しておくよう要請しておきますが。春になれば情勢も変わるでしょうから、前もって見ておきたいと思うかもしれません」
「だってさ、アンシュ。聞いたかい。良かったね」
ニコルは気安くアンシュベルに話しかけた。
アンシュベルは、それまで従卒らしく何も聞いていない素振りで着替えの準備をしていた。ニコルに話しかけてもらったとたん、伏せていた表情をキラキラ輝かせて会話に加わる。
「はいです。またエッシェンバッハさんと会えるの、うれしいなー!」
ニコルは、口元をほころばせた。
「アンシュはエッシェンバッハさんのことが好き?」
アンシュベルは、頰を染めてはにかんだ。
「えへへ、もしかしたらちょっとそうかもです。おじさまですけどすっごく優しいです。不愛想ですけどすっごく紳士です。バツイチですけどすっごくいいひとです」
「そうか。いい人か。なら信頼できるね」
「はいです。何より師団長のこと褒めてくれましたし」
「最初、いきなり連れて行かれた時はホント、どうなるかと思ったけど」
「ううん、あの、あの時はですね、ツアゼルホーヘンといえばトルテの本場だっていうのに元帥の沽券に関わるとかで副司令のせいで止められてて、ええと、ずっと、ヨッキュウフマンでモンモンしてたんだそうです。可哀想です。その気持ちアンシュにもよっく分かるです。アンシュも一緒ですもん。こう言うときは同病相憐れむです」
「そ、そうなんだ、苦労したね」
ニコルは顔をひくひくさせて笑った。
「ところで、レイディ・アンシュベル」
ザフエルが口を挟んだ。普段なら、絶対にザフエルから従卒に向かって個人的に話しかけることはない。
「はいです、副司令」
アンシュベルも様子が違うことに気づいたのか、あわてて姿勢を正す。
「ここへ来る途中、妹のユーディットを見かけませんでしたか」
アンシュベルは小首をひねった。
「妹さん? ええと、レイディ・ユーディットなら……昨日の夜に、師団長やほかの皆さんが誘拐騒ぎから戻ってきたときに、玄関前ですれ違いましたけど」
ニコルはあわてて尋ねた。
「レイディがどうかなさったのですか」
ザフエルはわずかに眉をしかめた。
「侍女が言うには、昨夜遅くから今朝もまだ姿が見えぬと。城から出たとの報告はないので、その点は危惧しておらぬのですが」
「昨日、玄関前で」
ニコルはとりとめもなく繰り返し、ふいにどきりとして顔を上げた。探る視線を横へ走らせる。
(君を見るあの娘の眼は尋常じゃない)
失われていた記憶のかけらが、ふいと闇の燐光を放って心の水底から浮かび上がった。
嫉妬の眼。憎悪の視線。揺らぐ赤いルーン。あのとき、玄関前にいたのは、やはりチェシーの言う通りレイディ・ユーディットだったのだ。ニコルに敵意を向け、そこからいったいどこへ姿を消したというのか。
「何かお気づきのことでも」
全てを見透かすような、暗い、深い、闇に魅入られた瞳がニコルをひたと見つめている。
「いえ」
ニコルは自分の夢想を打ち消した。
「レイディとは、昨日の昼、あの庭園で別れてからお逢いしていません」
「逢っていない?」
心外そうにザフエルが声を高める。
思い掛けない反応だった。ニコルは、困惑気味にうなずいてみせた。
「夕食もレイディはご一緒しませんでしたよね?」
「確かに」
眼をそらされる。
その瞳の奥に宿る暗い光にニコルは気付かない。
「では、どこに」
ザフエルは考え込んでいる。ニコルは、はたと気付いた。
「もしかして、それで、ザフエルさんもあの庭園に……レイディ・ユーディットを探しに来られたのですね?」
ザフエルはちらりとニコルを見やった。
「閣下が、朝早くから散歩へ出かけたとの報告を見張りから受けましたので。今にして思えば、不幸中の幸いでした。妹を探す必要がなければ、庭園だけを見て、あの塔になど赴きもしなかったでしょうから」
ニコルは、ぼんやりとザフエルの動きを目で追った。
かち、こち、と、柱時計の刻む機械的な音だけがやたら大きく聞こえてくる。
薄ら寒い疎外感が押し寄せた。
不仲というにはあまりにもおぞましすぎる言葉を、黒髪の貴婦人は吐き捨てていた。瞬間の恐怖で記憶が錯乱したにもかかわらず、振りかざされたナイフのようにはっきりと思い出せる。ザフエルの外見の些細なことについて、聞くに耐えぬ
ニコルはくちびるを噛みしめた。心を決め、ザフエルを見上げる。
「僕が余計なことをしたばかりに、御母堂様にご迷惑を」
「いえ。むしろ詫びねばならぬのは私の方です」
ザフエルは重々しくさえぎった。
「廃疾の身とはいえ愚母が無体を働きましたこと、誠に心苦しく、申し訳なく思います。ホーラダインの一族を代表し、衷心よりお詫び申し上げます」
ニコルはかぶりを振って頭を下げた。
「いいえ、僕が悪いんです。あの塔が、ザフエルさんのお母さまのお住まいだと知っていたのに。その、まるで泥棒猫みたいに勝手に入り込んでしまったから、それでお怒りになったんだと思います。こんなこと言えた義理じゃないけど、もしザフエルさんが来てくれなかったら――貴婦人の館に許可なく押し入った身で、どんなことをされても文句は言えない立場でした」
「母のことをご存知だったのですか」
声の奥に、ひそやかな懐疑のひびきが入り交じる。
ニコルはうなだれた。
「はい。昨日のお昼、あの古いお庭で、レイディ・ユーディットとお話ししていたときに」
「そうでしたか」
ザフエルの黒髪が陰鬱に揺れる。
「こたびのことは、みな私の不徳の致すところです。事ここに至るぐらいならば、ルーンの福音なき我が身について、みだりに臆したりせず、真実を申し上げておけばよかった」
ザフエルは、何の感情も見せない黒い眼を窓の外へと向けた。色のない景色を眺める。白い雪に暗い陰を落とす潅木の森。その彼方に見える白と黒の牢獄塔を。
「福音……」
「閣下のお察しの通りです。我が母デアドラもまた」
振り返る。
漆黒の闇を宿す眼差しが、ニコルを見つめていた。
「
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