6 こんな気持ちなら、知らないほうがよかった

6ー1 こんな気持ちなら、知らないほうがよかった

「今夜は、その」

 部屋に戻ったニコルの前に、甘い湯気の立つカップをそっと置きながら。

 アンシュベルは心配そうに言った。

「なるべく早めにお休みになった方がいいかな、とか思うですけど」


 あまったるいチョコレートの香りがほんわりと漂う。カップの中のとろんとした揺らめきが、白い泡となってなめらかに円を描いていた。


「うん」

 ニコルは微笑んでうなずいた。

「分かってるよ。ありがとう。アンシュももうおやすみ。片づけとかは明日でいいからさ」

「ご用事は?」

「もうないよ」

 ニコルは大丈夫だ、というふうに手を振った。

「ノーラスからの報告書読んで、日報書いて。たぶん明日はずっと会議だ。もうそれだけ。あさっての花誕祭が終わったら速攻でノーラスへとんぼ返りだからさ、アンシュもなるべく体力を残しておいたほうがいいよ」

「でも……」

「大丈夫。変な顔しないで。何でもないから」

「じゃ、寒かったらここに膝掛け置いときますから使って下さいです。暖炉の薪も足しときましたですし、あっつあつの可愛い焼き石懐炉もベッドに置いてますし、その、御用があったらほんとに、ホントにいつでも……」


「もう、大丈夫だって言ってるだろ。いつもぽやぽやしてるのに、いつの間にそんな心配性な子になったんだ?」


 ニコルは苦笑いを浮かべて立ち上がった。銀色の盆を抱えて不安そうに見上げてくるアンシュベルの背中に手を回し、わずかな拒絶をこめて押しやった。連れ立って歩く。

 扉を開けると、すぐ横の壁に、常夜灯のランプが掛かっていた。黄色く揺れる炎がほの暗い光を周辺に投げかけている以外は、しんとして暗い。


 風の音ばかりが淋しく伝わってくる。凍える漆黒に塗り込められた廊下を見やり、ニコルはぶるっと身を震わせる。


「寒いね。ちょっと待ってて」

 部屋に戻り、肩掛けがわりの毛布をアンシュベルの肩に回しかけてやる。

「でもこれは師団長の」

 言いかけたアンシュベルの吐息が白く曇る。


「僕はいいから。ほら、明かり持っててあげる。送って行くよ。さっき来たとき、怖かったんじゃないか? 部屋も真っ暗だったろ? 用事はなんだった?」


「え?」

 アンシュベルはきょとんとする。

「怖いって何がです?」


「え?」


 ニコルは少し目をまたたかせた。すぐに微笑みを取り戻し、かぶりを振る。

「いや、何でもない。気にしないで」

 アンシュベルを部屋まで送り届け、扉のところで何度もお休みのキスをしてやってから、ようやく一夜の別れを告げる。


「さっきの……あれはアンシュベルじゃない……?」


 ぼんやりとつぶやき、うつむいて歩き出す。


 ルーンの穏やかな光が、足下のカーペットを照らしている。光の水面のように、ゆらゆらと揺れ動く。

「だとすれば……さっき部屋にいたのは……誰だ?」


 戦慄の白い吐息がもれる。


 チェシーの部屋の前を通り過ぎる。扉の下から細く明かりが洩れ射していた。とはいえ人の気配はなく、いるのかどうかさえ分からない。


 結局、触れがたく眼をそらして、部屋に戻り、扉を閉め、鍵をかけ。

 扉にもたれ、額とこめかみを手で押さえる。


 何をどう対処すればいいのか分からなかった。何一つ考えがまとまらない。

 いつもなら、もう少しまともな思考能力があるはずなのに。そう思ってみても、立て続けに起きたいろんな事件に気を取られて、どうしても感情がついてゆかない。


 くずおれるように椅子を引いて腰を下ろし、机へと突っ伏す。

「――僕の言葉なんて、信じちゃいけなかったのに」

 両手で顔を覆う。


 薪のはぜる、暖かな音だけが救いだった。ベルベットのように柔らかな金色のぬくもりが気分を和らげる。


 こつん、とドアをノックする音が響いた。


 ニコルは焦って立ち上がりかけた。扉が勝手に開いてゆく。たしかに鍵をかけたはずだった。誰にも何も見られないようにしたはずだった。まだ頬が濡れている……


「入るぞ」

 チェシーの声だ。

「誰もいません!」

「やっと誰もいなくなったの間違いだろ」


 ずっと隣で気配を伺っていたのか。


 ニコルは手元のランプを吹き消した。

 部屋が薄闇に包まれる。外の方がはるかに明るかった。カーテン越しの窓から、蛍雪の光が青白く差し込んでいる。

「何をしに来たんです」

 こぶしで涙をぬぐい、聞きただす。


「ご挨拶だな」

 扉を開けたところで、チェシーは皮肉な笑いを浮かべて止まった。

 手に小さな燭を提げている。

「なぜ明かりを消す」

 半身を闇に堕とし、残る半身をほのかなろうそくの火に浮かび上がらせながら、暗くなった部屋を見回す。


 ニコルは刺々しく言い返した。

「勝手に入ってこないで下さいという意味です」

「やれやれ、すげないね」


 チェシーは少し身をかがめ、入り口すぐ横の台に置かれた、金と白のランプへと火を移した。

 ランプの背後にある飾り鏡が光を反射し、部屋を元通りの明るさへと強引に戻してゆく。

「ずいぶんとご機嫌斜めだな。どうした?」

 ランプのガラスシェードには、砂糖菓子のような色合いの小さな天使が何人も描かれていた。それぞれが、淡く透かした色とりどりの光を捧げ持っている。


「べつに。もう寝るつもりでしたから。それより、何の御用ですか、こんな真夜中に、わざわざ人払いの時宜を見計らってまで押しかけてくるなんて」

 ニコルは声を押し殺した。

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