お前では駄目だ
「口を慎め、愚か者」
ザフエルは残酷なまでに平然と遮った。
「例え堕罪者であっても、シスター・マイヤは正統にして唯一、《ナウシズ》の血を引く聖女たるあかしである薔薇の瞳を失わずに
じろりと妹を見やり、吐き捨てる。
「対して母上は、《ハガラズ》の聖女たる証を失って久しい」
「兄様……」
ユーディットは手を口元に押し当てた。蒼白な息を呑む。
「お前とは違う。身の程を知れ、ユーディット」
ザフエルの声はさながら洞穴に響く風の音のようで、まるで現実感を伴っていなかった。
「そんな」
沈痛な呻きが洩れる。
「では……わたくしに、どうせよと」
ザフエルは視線を本へと戻した。
淡々と頁を繰る。
「小アーテュラス卿の子を成せ」
「……嫌……!」
ユーディットは、がたりと音を立てて仰け反り後ずさった。
恐怖に胸を押さえ、悲鳴を噛み殺して、必死の形相でかぶりを振る。
「嫌。嫌。嫌です。兄様、そんなの嫌」
ザフエルは、ぞっとする光を眼の奥に宿らせ、ユーディットを見下ろした。
「すみやかに着手せよ」
「嫌です」
ユーディットはぽろぽろと大粒の涙をこぼし、耐えがたい悲鳴を上げた。
「兄様、お約束が違います」
「状況が変わった」
吹きすさぶ嵐さえ凍り付かせるかのような声。
低く、つめたく。
「今宵、卿の伽を申しつける」
残酷に宣告する。
ユーディットはザフエルの足下に駆け寄った。身を投げ出し、美しい黒髪を振り乱して取りすがる。
「兄様、どうか、それだけはどうかご容赦くださいまし」
「まかりならぬ」
「嫌っ、兄様、後生でございます」
ユーディットは、全てのよすがを必死に手繰りよせて叫んだ。
「前に、ずっと前に、お約束くださったではありませんか。わたくしを、わたくしをこそ、おそばに、と」
「お前では駄目だ」
ザフエルは冷ややかに過去を一蹴した。
「嫌です」
ユーディットは泣きくずれた。
「兄様、わたくしは兄様と……ずっと……兄様と……!」
「《ハガラズ》の聖女を輩出するが我がホーラダイン家の務め」
感情のこもらない声が、くずおれるユーディットの背中に冷たく浴びせかけられる。
「ルーンの血統を輩出することだけがホーラダインの務めだ。それ以上でもそれ以下でもない」
「嫌です。魔女の子、堕罪者の血を宿すなど」
「ユーディット」
ザフエルは、ふと、ひそやかに声を落とした。
妹のまとう、夜らしい、襟ぐりの開いた妖婉な装いの肩に手を置く。
「私が何者であるか知っているな」
ユーディットは両手を床に着いたまま凍り付いた。涙に濡れた薔薇色の瞳で、愕然とザフエルを見上げる。
「はい……猊下」
恐怖に眼が見開かれていた。
「我が命令に逆らうか」
「いいえ、猊下」
ユーディットの眼から涙があふれ出した。
「ならば、薔薇の血を絶やすな」
何の慈しみも持たぬ漆黒の瞳が、うちひしがれる妹を酷薄に見つめる。
「はい、猊下。仰せのままに」
ユーディットは死んだような眼で立ち上がった。
裾を引きずり、よろめきながら去ってゆく。
ザフエルは、額とこめかみを指で強く押さえた。
読みもせぬ本を乱雑に書棚へと押し込め、机へと戻る。
ツアゼル神殿騎士団の印を捺した便箋を一枚、机上に打ちやり、おもむろに筆記具を眼で探し始める。
目の前にあるはずのペンは、なぜか視野に入らなかった。代わりに深い横傷の走る金色の万年筆を引き出しの奥の文箱から取り出し、無感慨にながめる。
一見なめらかな、だが取り返しもつかぬほど深い損傷を受けた万年筆の表面に映るランプの灯。悲愴にあやうく、熔け落ちるがごとくに火影を揺らす。
「血を、絶やすことはできない」
ザフエルは、抉り出したいほど憎い己の双眼を閉じる。
総毛立つルーンの共鳴に身をゆだね、便箋を前にして、事実の相関図を書き込んでゆく。
インクがかすれ、文字が消えかける。
護るべき真実の光は、虚構の深奥に内在する。
永遠に終わることのない、ねじれた輪の中に、何の意味もない、ただ空しいだけの言葉が羅列されてゆく。
インクの枯れたペンの先が、乾いた音をたてて、見えない真実を塗りつぶした。
▼
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます