闇つのうた死かたいつ わりの辱ひかりはし犯んじつ

 ニコルは振り向かなかった。窓から外を眺めたまま、ぼんやりとしている。

(お、おい)

「マイヤのゲッシュだよ」

 いかにも投げやりに答える。

「あんまり見たくないんだ」

 小屋の最も奥まった部分、今まで灯りすらろくには届いていなかった奥の壁一面に、ペンキを塗りたくった跡があった。

 酷いまでに書き殴られた、血の色の呪詛――


 ひ狂とりふ呪たりうつ

 闇つのうた死かたいつ わりの辱ひかりはし犯んじつ

 のやみいつわ怖りのや憎み はしんじ破つのひ嫉か

 りい隷つか壊かな虐らず、


 そこで呪はぶちりと途切れている。


 あるいは続きがあったのかもしれない。しかし、その文言があるべき部分の壁は、べっとりと不気味に奔りついた血のペンキのしたたりに塗り込められ、もはや判別すらできなかった。


「いいよ、気にしなくて」

 ニコルは、くるりと振り返った。何事もなかったかのように、ほがらかな声をたてて笑い、悪魔の背をぽんと叩く。


 窓の外から鈴の音が聞こえた。

 風が吹くたび、涼やかに、鈴は鳴り渡る。


「さっさとお掃除すませちゃおうよ」

 ニコルは、いそいそと掃除を始める。悪魔は、やがて眼をそらすとちっと舌打ちして天井へ飛んでいった。


 小一時間も掃除していただろうか。

 扉の壊れたキャビネットを退けようと動かしたところ、後ろから、塵と埃と瓦礫屑にまみれた板状のものが転がり出て来た。

 ニコルはひざまずいた。

 板を手に取り、砂色の帆布をほどく。


 薄青い衣をまとう《ナウシズの聖女》を描いた絵だった。


 金の髪。薔薇の瞳。

 手に聖杯を掲げ、憧憬の眼差しで天を見上げている。

 舞い降りてくるのは幼い天使。右手に青い羽根、左手に《ナウシズ》の福音。

 聖女は痩せこけた悪魔を踏みつけている。こぼれるルーンの光。悪魔の眼には恐怖。

 ほがらかに、きよらかに、天使は微笑み――


 一段と高く鈴が鳴った。ニコルは顔を上げる。開け放っていた扉から、華やいだ影が差した。


「あらあら、ひどいありさまですこと。まったくどうしたものかしらねえ」


 百合の香りもしとやかな声とともに、ふわりとたなびく豊かな白羽根の帽子にヴェールをかけたローブ姿の女性が立ち現れた。

 深い藍の色に染め抜かれたローブの裾から、淡雪のようなレースがこぼれ、真っ白な肌の胸元を彩る飾り布もまた、小さいながら同じ純白に金刺繍と真珠のレースを縫い絞って作られている。


「か、義母さま」


 もはや、下層街にそぐわぬ、などという段階の装いではない。

 ニコルは動転して飛び上がった。真っ黒に汚れた手袋をあたふたと見下ろし、これはどうしたものかとあわてふためき、とにかく脱ぐことにしてポケットに突っ込んでから、ばたばたと埃を蹴立てて走り寄った。


「ど、どうやってここに」


「ニコルさん」

 ヴェールを取った下から現れた顔は思った通り、笑顔でいっぱいのレディ・アーテュラスだった。


「おひさしぶりね。まあ、本当に元気そうで何よりだわ。お手紙いただいてすぐに飛んできましたのよ。でも少し痩せられたかしら? 大丈夫? 好き嫌いなくちゃあんとお食事されてますの? それとももしかしたら身丈がお伸びになられたのかしら。あらあら、まあ、きっとそうですわね、素敵ですこと。あとはそうね、他のみなさまはいかがお過ごしかしら? 健やかにお変わりなくて?」


 ゆっくりとした口調ながらよどみなくしゃべり続け、ころころと羽扇を振って、さざめき笑う。


 ニコルは相変わらず眼をまんまるにしたままだった。

「あ、あの、はい、ご、ご無沙汰いたしております、かか義母さまもお変わりなく……」


「それにしてもたいへんな有り様ね。すごい埃ったら今にも降ってきそう」

 雅やかな仕草で小屋内を見回し、ふと気付いた様子で、にっこりと天井を見上げる。

「あらら、初めましてさまがいらっしゃるのね。ようこそ麗しの都イル・ハイラームへ」

 レースの手を差し伸べ、優雅に一礼する。

「貴方が噂の悪魔さんね?」


 ル・フェは花の香りに恐れをなして近づこうともしなかった。

「あらあら、うふふ」

 レディ・アーテュラスは華奢な肩をすくめる。

 ニコルは、そこではっと我に返った。

 華やかなローブの足下にひざまずき、レディ・アーテュラスの手を取って軽く儀礼の口づけをしてから、眼をぱちくりさせて見上げる。

「ま、まさか、もしかしてお一人でここへ!?」


「ええ、まあ、一応はそのつもりだったのですけれど」

 レディ・アーテュラスはふわふわのショールを振って嫣然と微笑んだ。

「ごめんなさい。後をつけられちゃったみたい」

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