密室
一瞬、動きが止まる。
「…………」
眼が宙を泳いでいる。どうやら何事か考えているらしい。
「………………」
まだ考えている。いくらなんでも考えすぎだ。
だが思考の暇を与える猶予すら今はない。追撃の手を伸ばし、しっかりと抱く。
ニコルは、腰に回されたザフエルの腕を呆然と見下ろした。
「え、ええと……何?」
首辺りから頬。そして耳の先へ。
つつつつ、と真っ赤に火照った危険水位が一気に急上昇してくるのが見えた。
見る間に臨界点突破、さらに最大値上昇。針が振り切れ、ちーん、と得心の鉦が鳴って。
「だ、だ、だ、誰が抱あああ」
「お嫌ですか」
たずねると、ニコルの頭の上にぼひゅん、と蒸気が吹き上げる。
「いいいいやそのいや嫌とかじゃないですけどでもあの、そ、そうじゃなくてつまり、ええと!」
ただでさえ赤い頬を、真っ赤っ赤のくしゃくしゃに染め抜きながらニコルはあたふたと身をよじる。
「意図が分からないです」
「御裁可を、閣下」
ザフエルは冷ややかに迫る。
「一刻の猶予もなりません」
「訳も分かりません!」
「仕方がありませんな。手短に説明いたします」
もがくニコルを背後からがっちりと搦め捕ってゆきながら、ザフエルはその耳元で低くつぶやいた。
「眠り粉を練成したゾロ博士によると」
「どなたですか、その方は」
「異端の学問である《自然科学》の研究者です。しかし今、博士のことはどうでもよろしい。講釈によれば、本来、眠りの毒は浸透移行性を持ち、その効力は通常一週間以上。先ほどは、短時間に少量を摂取したために瞬間の眠りに落ちましたが、そのぶん目覚めるのも早かったはず。ですが」
冷然とした眼差しで、毒に満ちた書庫を見渡す。
「ここは密室です」
幾重にも重なった天井の影が、その形を乱す。
燭台の蝋燭が一本、ふいに燃え尽きてぐらりとゆがんだ。炎が苦い音を立ててかき消える。
書庫の片隅が、闇へ吸い込まれるように黒ずんだ。
ニコルは手で口元を覆った。首をねじってザフエルを見上げる。
「閉ざされた空間において、眠りの毒は最悪の効力を発揮します。たとえ短時間では影響を及ぼさない低濃度であったとしても、いずれは充満し、飽和し、呼吸によっても排出されないまま、我々の神経をゆるやかに冒してゆくこととなります」
「つ、つまり」
寒気がいや増し、おののきの白い息となって立ちこめてゆく。ニコルは愕然と声を失った。
「こ、こんな寒いところで一週間も眠っちゃったら」
「ご心配なく」
ザフエルはつぶやいた。薄緑の霧が視界を奪ってゆく。
その時は近い。
毛布を取り、ニコルの肩へ幾重にもかさねて、回し掛ける。
「対処方法は考えてあります」
「で、でも……あっ……」
ニコルはわずかに身を震わせた。鉄格子から落ちる薄緑色の毒に、目をみはる。声がかすれていた。
「眠り粉が、もう、あんなに」
ザフエルはニコルを、背後から毛布ごと抱きしめる。
「こうしていれば大丈夫かと」
「えっ……」
眠りへの誘いが混濁の声と入り交じってゆく。
「まさか、ザフエルさま、そのまま」
「時間がありません、閣下」
「どうして」
身を折って逃れようとするのを、力を込めて引きとどめる。ニコルの声はもう、うつろに弱々しかった。まぶたがうつろに下がるのが見えた。
「私は毒が効かぬ体質ですので」
また嘘をつく。
「だめ」
ニコルは、眠気を払おうとしているつもりか、頭を振るった。足をつたなくふらつかせながら身体の向きを入れ替え、ザフエルの胸に顔をうずめる。
「だめです、そんな、わたしだけ」
「他に採るべき手段はございません」
「でしたらどうか、せめて一緒に」
ニコルは懇願した。毛布の下からすがりつく手が、力なく、ザフエルの軍衣の参謀飾緒を掴む。壊れた万年筆が飾緒からはずれて、床に落ちた。
硬質な音を立てて、跳ね返る。
「いいえ」
鉄よりも、岩よりも。
硬く、つめたく。
ザフエルは、己が心を縛りつける。
「ごめんなさい」
もう、自分が何を言わんとしているのか、ほとんど意識していないのだろう。ニコルはザフエルの胸の中にくずおれながら、半ば泣き、半ば眠りに落ちつつ、舌足らずにつぶやく。
「わたしのせいで」
「滅相もない」
ザフエルは底冷えのするまなざしを伏せる。
「もし……誰も来てくれなかったら」
「大丈夫です。閣下のご不在を知るものがすぐに助けに参ります。それまで持ちこたえればよいだけのことです」
意識のない、凍えた身体を抱き寄せ、支える。
「閣下さえ御無事であれば、それで」
「ぁ……」
耐えがたく喘ぐ声が聞こえた。
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