いつまでも変わらぬ空の色を
誰かの手が、肩に置かれる。
「サリスヴァールならば心配は無用です」
厳粛な声が、すれ違いざまに頭上を通り過ぎた。
周りを見回すと、天幕から出て行こうとする端正な後ろ姿だけが目に飛び込んだ。入り口に控えていた副官がすっと身を引いて道を開く。
ザフエルはひざまづき長揖する神殿騎士に何やら短く、一言二言を命じた。すぐさま数名の騎士が呼び集められる。
騎士たちはフランゼスの横たわる担架を取り囲んだ。白と黒の法衣がひるがえる。
「どちらへ」
「ここで召喚しては他の怪我人に累が及ぶでしょう」
声が聞こえたのか、ちょうど天幕から出ようとしたところでザフエルはぴたりと立ち止まった。腰に手を当てて振り返り、小憎らしいほど落ち着き払った声で補足する。
「失敗して死ぬのはわれわれだけで十分だとさ」
チェシーはうんざりした様子で肩をすくめる。
そのとき担架上のフランゼスが身じろぎした。持ち上げられた際の振動で意識を取り戻したのか。縛られた身体を持ち上げようとして叶わず、苦痛に顔をゆがめ、あえぐ。
「……ニコル」
弱々しい声が聞こえた。
「フラン」
ニコルは担架に駆け寄った。声で分かる。本当のフランゼスだ。小走りで付き添いながら声をかける。担架は止まりもしない。
「ごめん」
フランゼスは揺られながら声をわななかせた。
「ぼ、僕……ずっと、君を、見てた。君に、ひど、酷いことをしてしまうの、分かってて、自分が、止められなかった」
「何言ってるんだよ」
天幕を出た担架は、人通りの少ない広場の裏手へと運ばれていった。
未だ崩れたままの瓦礫が山となって積み寄せられている、そのかたまりの一つに、鼻面に血を被った斑色の仔猫がうずくまっていた。
いつまでも動かず、悲しげに喉を伸ばしては瓦礫の臭いを嗅ぎ、石を爪で掻いて、何かを呼ばわって鳴いている。
ニコルは目をそらした。かぶりを振る。
「君のせいじゃない」
「ちがう」
フランゼスは苦しげに咳き込んだ。
「あいつが、言った通りだ。き、君が、みんなと……准将や、他の人と話すの見るたびに……うらやましくて、ね、ね、嫉ましくて、苦しくて、たまらなかった。何の役にも立てない、僕のことなんか……もしかしたら、本当に、嫌われてるのかもしれないって――そう思うだけで、もうどうしたらいいか分からなくなって、それで」
フランゼスは土に汚れたまつげをふるわせた。
涙に濡れた眼でニコルを見上げる。
「欲しかったんだ。力が、欲しかった。たとえ悪魔の力を借りてでも、君に、ふさわしい人間に、男に、なりたかった。君と、対等になって、君とともだちだって、サリスヴァール准将みたいに堂々と、言える男に、なりたかった。なのに、こんなことになって、君に辛い思いさせて、みんなにまで、迷惑をかけて。本当にごめん。ぼ、僕なんか、もう、どうなっても……」
担架が止まった。一段と大きく揺れて、フランゼスは口を閉ざす。
ニコルは周りを見回した。
無惨に羽根を折られた青銅の彫像が、円形の噴水へのしかかるように倒れ込んでいる。
噴水の縁を覆っていた石煉瓦が割れ、隙間から泥水が細々と滲みだして、石畳に黒い涙のような跡を染みつかせていた。
神殿騎士たちは打ち棄てる勢いで担架を下ろすと、すばやく退避していった。広場の出入りを制限する位置に立つ。
入れ違いに、相変わらず気が合うんだか合わないんだかさっぱり理解不能な喧嘩腰の会話を交わすザフエルとチェシーが連れだってやってくる。
「……馬鹿なこと言わないでよ、フラン」
これだけ離れていれば、どれだけ地獄耳でも聞かれたりはしないだろう。
視線を戻し、くしゃくしゃに乱れたフランゼスの髪をそっとかき寄せてやりながら、ニコルは静かに話しかけた。
「前にも言ったでしょ。僕は、君と違って、壊すしか能のない軍人だ。壊れてしまったフレスコ画の修復も、わけわかんない文字でいっぱいの古文書を読むことも、この国の歴史を後世の誰かに伝えるために論文を書くことも」
ふと、空を振り仰ぐ。
フランゼスが熱っぽく語ってやまなかったヴァロネの青。
その顔料の名を冠するのは、アルトゥシーからほど近いツアゼル辺境の小さな村だ。
数世紀前の古い聖堂が未だ残るひなびた佇まいに、美術史上もっとも美しく、謎めいた色として知られる青の顔料を使って描かれたフレスコ画の数々が残されている。
おそらくは名も知れぬ市井の画家、あるいは修道士が移り変わる空の色を模して調合したのだろう。今ではもう記録もなく、ヴァロネの青の調合方法を知るものは誰もいない。
「……全部、君にしかできないことなんだ。それがどんなにすごいことか、君は分かってる? 君と友達でいるってことがどんなに誇らしいか分かってる? 分からないなら何度でも言うよ。フラン、僕は君を尊敬してる。心から。その気持ちが変わることなんてないんだ。君が大好きなヴァロネの青が、永遠に色あせないように」
だが祈りの刻に集まる信心深い村人たちが見上げる伽藍の外壁に、その青は、何世紀もの間はがれ落ちることもなく、透き通った輝きを与え続けていたのだ。
いつまでも変わらぬ空の色を。
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