「准将に召喚の許可を」
ねじれた包帯が白く、螺旋を描いてくねり落ちた。
「んもう何するんですかっ」
ニコルはシーツでぐるぐる巻きになりながらわめき散らした。どうにかこうにか脱出し、ぷはあっと息をついて頭を振る。
「首が胴にめり込むかと思いましたよまったくホント何考えて」
そこで、絶句する。
露わになったチェシーの腕に、疵など一つもなかった。その代わり。
左二の腕にくろぐろと這い回る闇の烙印――
「召喚に耐えきれるだけの体力が残っていればいいが」
チェシーは己が腕に宿る闇の炎、魔に侵蝕された悪魔の紋章を見下ろして自嘲気味の笑いを放った。
「そ、そ、その手は」
情けない悲鳴を上げてニコルは身体をこわばらせた。シーツを頭に被ったまま逃げるようにしてザフエルの背中へと転げ込む。
「もももももも紋章!? いつの間に!?」
「そのようですな」
忌避の口調もあからさまにザフエルは手のひらを胸に押しあて、しらじらしく聖十字を切った。シャーリアもまた嫌悪の表情をうかべて身構える。
「やれやれ」
チェシーは周りの反応に鼻白んだためいきをついた。自分の手をためつすがめつ斜に眺め、遠ざけながらぼやく。
「今度は化け物扱いか。つれないな」
「ご、ごめんなさい」
ニコルはザフエルの後ろからおそるおそる首を突き出した。目を伏せ、蚊の鳴くような小さな声で答える。
「そんなつもりではなかったんですけど、つい」
「何がついだ。思い切り傷ついたぞ。どうしてくれる」
チェシーは大げさな口振りで噛みついた。
「だいたいなぜ驚く必要がある。最初から言ってあっただろう。私は紋章の使い手だ。忘れたのか」
「い、いえ、そんな滅相もない……」
矢継ぎ早に問いただされ、ニコルはザフエルの背中にかじりついたまましゅんとした。意気消沈してちぢこまる。
そのやり取りにザフエルはすっと眼を細めた。無言でチェシーを見やる。
「何だその眼は。ガキじゃあるまいし過保護にもほどがあるぞ」
ふんと鼻でいなし、大儀そうに唸って膝を折る。チェシーはフランゼスの傍に置かれたえんじ色の表紙の本を拾い上げた。
天幕内の空気がひゅっと音を立てて渦を巻く。触れた指先から屈折した薄暗い光が放射状に放たれた。黄昏の光を浴び、チェシーの表情が明から暗へ、陰から陽へとさまざまな変化を見せて移り変わってゆく。
謎めく微笑が口許をかすめた。
「この本は乖離した紋章の一部が宿った仮の器にすぎん」
「紋章の一部……?」
チェシーは本を開き、ぱらぱらとめくりながら顔を上げる。
「何年前かな。前に一度、ル・フェを召喚したことがあると言っただろう。どうもそのときに今の公子同然の状態に陥ってしまったらしくてね」
「何で語尾が伝聞調なんです」
「誰にでも一つや二つ、思い出したくない過去があるものさ」
チェシーは無駄にふう、と哀愁を漂わせてため息をついた。
「まあ、運良くというか運悪くというか。結局どこぞの誰かに紋章を吹っ飛ばされて、下手すれば本気で死ぬところだったんだが……それにしてもあのヘヴンズ・ゲートは酷かったなまったくどこのどいつか知らないが有象無象ならいざ知らず相手の顔を見もせずにいきなり背後から霊験あらたかな最大奥義をぶちかましてくるとは騎士の風上にもおけん卑怯者だ……とはいえ人生いったい何が幸いするか分からない」
暗澹とした笑みをひょいとザフエルへくれる。
「どこぞの騎士様が、召喚用の紋章を不完全な状態にぶち壊してくださったおかげで、亡命直後に紋章だけ奪われて殺されるような下手を打たずに済んだよ」
聞いているのかいないのか、ザフエルはさあらぬ体を決め込んでいる。
「さてと」
さんざん意趣返しの無駄口を叩いて終わるとチェシーは表情をけわしく切り替えた。腕に浮かび上がった紋章をかるく撫でさする。
「長ったらしい解説はこれまでにして、まずは分裂した紋章を錬成し直すとするか」
ニコルは目を押し開いた。不穏の眼でチェシーを見やる。
ニコルの視線をからかうかのように、残酷な確信を帯びた微笑が返ってくる。
「どちらにしろ霊的に不完全な今の状態では、ル・フェを送還することも隷下に置くこともままならない。かといってこれだけ肥大化した状態で放置すれば、いずれ契約の均衡がくずれて、私自身が不完全な紋章に食い尽くされることになる。制御を失った泥沼の召喚が如何な悪夢を呼び起こすか想像してみるがいい――だが君がいれば話は別だ。ナウシズの守護騎士となった君がいてくれさえすればね」
「准将に召喚の許可を」
ザフエルが端的に引き取った。計算尽くの瞳が冷徹に見返してくる。ニコルは目を押し開いた。
「それって、どういう……意味ですか?」
よくわからない。
声をかたくして、聞き返す。
「確かにナウシズは召喚を無効にできるけど……召喚の許可って……まさか」
「ああ」
チェシーは皮肉にうなずいた。闇を放つ腕の紋章を撫でさする。
「フランゼスの魂から奴を引きはがして、私に宿らせる」
「そんな」
ニコルは怖気づいた声で反論した。
「いくら召喚に成功したってまともに制御できなきゃそれこそ何の意味もないじゃないですか。だめです。許可なんてできるわけ」
「公子を救うにはこれしか方法がありません」
抗うことを微塵も許さぬ声が冷ややかに反論を遮る。
「ザフエルさん……」
ニコルは愕然としてザフエルを見上げた。
焦燥の息を大きくつき、くちびるをかたく噛みしめて、ふいにきっと強く睨み付ける。
が、ザフエルは動じなかった。氷の彫像のように立ちはだかり、総毛立つ無情のまなざしでニコルをひたと見下ろして、揺るがない。
「そう気に病むなよ」
チェシーは陰気に笑った。肩をすくめる。
「万が一の場合は、どこぞの騎士様がヘヴンズ・ゲートで紋章ごとル・フェを焼き滅ぼしてくれる。今度こそ、半分討ちもらすことなく、完全に、な」
ザフエルが物憂げな一瞥をちらりとチェシーへ忍ばせる。
ニコルはチェシーの腕に宿る紋章を見つめた。喉がからからに乾いた。黒ウサギのぬいぐるみを、強く胸に抱きしめる。
もし、ナウシズの力が悪魔に力及ばなかったら。
もし、チェシーが今のフランゼスのように、チェシーでなくなってしまったら。
どうする……?
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