「こっこっこっ!」 「殺す気かとか言われる前に言っておくがもちろん悪気があってぶっ飛ばしたわけではないぞ」

「あー疲れた。重かったなあ」

 首を傾けて自分で自分の肩をとんとん叩きながら、ようやく休めるとばかりに座席の背へぐったりと身を預けてもたれ込む。

「ご、ごめんニコル。僕も、手伝えればよかったんだけど」

 さすがに申し訳なさそうな顔をしながらフランゼスが言った。

「あ、ううん、大丈夫だよ。これぐらい全然平気」

 ニコルは小脇の水筒を取り上げてごくりと水を飲み干すと、ふう、とため息をついた。ちいさなあくびまでしながら顔をくしゃりと和ませて笑い返す。

「……だったら、いいけど」

 フランゼスは胸に抱いた本をぎゅっと引き寄せた。

 ゆらゆらと宙を漂っていた視線がふとニコルの手元の輝きに落ちる。

 ニコルはフランゼスの眼差しに気付いて小首をかしげた。

「どうかしたの」

「うん」

 生返事をするだけして、フランゼスはぼんやりとニコルの手を見つめ続けている。

「そろそろ進発するぞ。準備はいいか」

 馬を長柄に付け終えたチェシーが外から声を掛けてくる。ぐらりと馬車の傾ぐ感覚があった。馭者席に乗り込んだらしい。

 ニコルは荷物の山をもぞもぞと乗り越えて前方に進み、戸窓を開け放った。ちょこんと頭を突き出す。

「お願いします」

「この重量じゃ帰りはあまり飛ばせないな。明日中にグルトエルベルクまで戻れればいいが」

 たるんだ手綱を調整しながらチェシーが何気なしにつぶやく。

「そうですね」

 ニコルはふとこみ上げてきた不安をごまかして笑った。

「ルーンの声を聞き逃さないよう頑張ります」

「ああ、そうしてくれ」

 チェシーは手慣れた仕草で馬車のブレーキを解除し、左手に挟んだ手綱をかるく揺すってゆるめた。背後に挿してあった鞭を取るついでに上背をかがめ、返す手の甲でニコルの額をこつんと叩いて押しやる。

「ほら、もう危ないから座ってろ。揺れるぞ」

「……はい」

 ニコルは言われるがまま素直に頭を引っ込めた。

 ゆるやかに走り始めた馬車の窓に肘をかけ、何か特別な思いを馳せるでもなくアルトゥシーの街並みをぼうっと遠く、ながめやる。

 はなやかに舞い散る紅葉に彩られた赤屋根の建物もまた、次第に見えなくなってゆく。その様を見てニコルはつい物憂いためいきを洩らした。

 フランゼスが顔を上げる。

「あ、あの、ニコル」

「ん?」

「その……き、気に障ったら、あ、謝るけど」

「え」

「い、いや、さっきから、ためいきばっかりついてるから」

 フランゼスは気後れしたようなためらい混じりの声で、ちいさく言った。

「その、も、もしかして……あの、姉上が言ったことを気にしてるのかな、と思って」

 ニコルはぎくりとして首をちぢこまらせた。

「い、いや、別に、それは、全然」

「本当?」

「ほ、本当だってば」

 ニコルはあわてて硬い笑みをつくり、顔をそむけた。

 普段のシャーリアなら絶対にあんな感情もあらわな物言いをすることはない。今回はたまたまフランゼスの負傷やいろいろな厄介ごとが重なったうえ、いきなりチェシーが不遜な態度を取るなど冷静さを欠く状況が積もり積もったために怒りが爆発してしまったのだろう。しばらく時間をおけばまたいつものシャーリアに戻るだろうし、そうなれば問題は雲散霧消する。

 それは分かっている。よって気に病むことなど何もないはずだった。


 なのに、なぜ――


 ニコルはなぜか急に息苦しさをおぼえて、ぎゅうっと胸を押さえた。眼を閉じ、意識して強く息を吸い込む。

 いやな胸騒ぎがする。

 寒々と暗い波打ち際を遠く眺めているような、よくは分からないけど、でも何かひどくもどかしい感じがこみ上げる。

 と、そのとき。

 左手に嵌めた封殺のナウシズがだしぬけに鋭く光った。

 凍てつく冷気に腕がこわばる。

「な、何やらその」

 フランゼスが青い顔でニコルを見やった。

「ひ、光ってる、みたいだけど」

「うわっホントだ、何で」

 ニコルは初めて見る青白いナウシズの反応にどうしていいか分からず、一瞬オロオロと身を仰け反らせてルーンの光を振り落とそうとした。

「どどどどうしたら、っていうか、これって何、ど、ど、どういうこと?」

「どういうことって」

 フランゼスは探るような不審の眼差しをむけた。わずかに身構える。

「もしかして、使えないの……?」

「ええっまさかそんなはずは」

 ニコルは動揺を必死に押さえ込みながら状況の把握にかかった。封殺のナウシズが実際に動作するところを見たのは確かに今が初めてだが、だからといって使いどころが分からないわけではない。


 ゾディアックの悪魔。

 黒と赤の軍装に身を固め傲岸に笑っていたかつてのチェシーと、初めて言葉を交わしたときの記憶が今になってようやく総毛立つほどの克明さでよみがえってくる。

(……私は紋章の使い手だ)


「チェシーさ……」

 ニコルは転がるようにして馬車前方に飛びつき、戸を引き開けて叫んだ。とたんに馬車が大きく斜行して跳ね上がる。

「ふんがぁ!」

 勢い余って首だけがずぼっと戸外にはみ出した。

 あわてて引っ込めようとするも、こんな時に限って引き戸そのものがつっかかってしまってびくともしない。そのうえ、馬車が跳ねるたび首から下だけが右へ左へとぐるんぐるん揺すぶられ振り回されるものだからたまらない。ニコルは大声でぎゃあぎゃあと泣きわめいた。

「あ痛だだだだ首が首が首がもげもげーー!」

「馬鹿、引っ込んでろ」

 鞭のように鋭いチェシーの声が降ってくる。

「そっそんなこと言われたって」

 ニコルは首を何とか元に戻そうとして半泣きになりながら両手で突っ張りつつ馬車内部を何度も蹴った。

「ナウシズが……ってうわあっ」

 突然、降ってきた細長い影がうなりをあげ車体上空をかすめた。けたたましい金切り声がつんざく。

 風圧で車体全体が凄まじく横に振れた。

「な、何です、あれ」

 彼方の景色がまるで大波に巻き込まれたかのように上下左右にうねり、弧を描いて流れ去ってゆく。

 チェシーはくちびるをかすかにゆがめて笑った。

「ナウシズが反応したのなら、魔物に決まってるだろ」

「うえっ!?」

「後を付けられたかな」

「で、でも、そんな気配なかったですよ」

 ニコルは青ざめた。息を呑んで続ける。

「先制のエフワズだって何も」

「ということは」

 チェシーは抜かりない視線を四方八方へ走らせた。凄味のある笑みが浮かんでいる。

「君も呑気に挟まっている場合じゃないわけだ」

 言うやいなや、右手に持った鞭を左に持ち替え、空いた拳を固めざまに後ろ手の一撃でニコルの首を挟んでいた戸を木っ端微塵にたたき割る。

「ふぎゃあっ」

 衝撃で吹っ飛ばされ、ニコルは思い切り頭から後部座席に積み上げていた荷物にぶつかった。

 ごいん、と目から火花が飛び散る。

 とたん積み上げた荷物ががらがらと音を立てて頭上へと雪崩れかかってきた。

「うわわわ」

 とっさにフランゼスのベッドへ転がり入るようにして逃れる。フランゼスはニコルの強烈な頭突きを食らって、ぐえっ、とつぶれた呻きをあげた。

 今までニコルが占めていた空間を、木箱と歴史的文化遺産の山が埋め尽くしていく。脇に立てかけていたフランゼスの松葉杖が雪崩に巻き込まれるのが見えた。真っ二つに砕け折れる。

 馬車全体が今にも壊れそうにたわんだ。

「ううう」

 ニコルは呆然と呻き、顔を上げた。哀れフランゼスはぴよぴよと目を回し失神している。

 周りを見回す。

 強い風が吹き込んでいた。髪についていた木くずが吹き飛ばされ、ぱらぱらと飛んでいく。

 なぜかぽっかりと穴の空いた馬車前方の窓からチェシーの後ろ姿と遠い空が見えた。

 透き通った風。白い雲。まばゆい陽の光。ああ……生きてるってすばらしい……


「じゃなくて!」

 ニコルはぶるるると頭を振って跳ね起きた。粉砕された馬車の窓に取りついて怒鳴る。

「こっこっこっ!」

「殺す気かとか言われる前に言っておくがもちろん悪気があってぶっ飛ばしたわけではないぞ」

「っ殺す気ですかあああ!」

「だから不慮の事故だと言っている」

 チェシーは平然と苦笑った。

「とりあえず無事で何よりだったな」

「どこの誰がご無事なんですかあっ!」

 だが外を見回すために頭を突き出したとたん、ニコルは上空を無数に埋め尽くす”人であって人でないもの”の姿影を認めて、息をすすり込んだ。


 めらめらとなびく、かぎろいにも似た水銀の光を放つ髪。

 金属質の豊満な肢体。

 魁偉に打ち広げられた翼から鉄色の羽が降るようにして舞い――

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