ヴァロネの青
チェシーは、鼻当てに葉っぱが挟まったままのメガネを押し付けた。完全に上の空だった。
「あっ、ありがとうございます。見つかって良かった。すみません、お手数お掛けして」
差し出されたメガネを、受け取ろうと手を出す。
だが、チェシーは、メガネから手を離さなかった。
「チェシーさん?」
「あ、ああ、すまない」
今しがた目が覚めたばかりのような顔で、チェシーはメガネを手放す。
ニコルは、こぼれんばかりのまぶしい笑顔を作った。ぺこりと頭を下げる。
「今回は、予備のメガネあんまり持って来てないから、もし割れてたらどうしようかと思いました。よし、装着完了。では行きましょう、って何だよこのヒゲは! くすぐったい……ふぇっくしょん!」
鼻毛状態になった葉っぱを、あわてて引きちぎる。
ニコルは、再度、メガネをかけ直した。ようやく、いつも通りに周りが見えるようになる。
チェシーは、なぜか、自分の手のひらを見つめたままだった。全く動こうとしない。
「どうかなさいました?」
「いや、別に」
珍しく、歯切れが悪い。ニコルはチェシーの袖を掴んだ。ぐいぐい引っ張るようにして急かす。
「ほら、ぼーっとしてないで、さっさと行きましょうよ。フランの容態も心配だし、こんな用事は、できるだけ早く済ませるに限ります」
「ああ、分かってる」
チェシーは、わずかに眉根をよせた。眼に砂でも入ったかのように、顔をしかめ、何度もしばたたかせる。
「そうと決まれば善は急げです。こんにちはーー! 第五師団のアーテュラスですー! フラーンいますかー!」
ニコルは、無遠慮に玄関のノッカーを連打した。
「そんなことしてたらまた、前みたいにドアにぶつかるぞ」
「二度としませんよ、あんなこと」
まるでトイレを我慢しているかのように、うずうずとその場で足踏みしながら、待ち受ける。
扉が開いた。
「お邪魔しますー!」
案内も請わず、出迎えの兵を押しのけるようにして、中へと入り込む。
「ほら、ほら、早く、早く。チェシーさんも、ねえ、急いでってば」
「手洗いなら裏じゃないか」
「余計なお世話です」
ニコルは、全力で顔を赤くして拒否した。フランゼス公子を探して、赤絨毯の階段を一直線に駆け上ってゆく。
その、カモシカのような後ろ姿を。
チェシーは、取り残された態で、ぼんやりと見送っていた。
たじろいだ笑みが、口元に浮かぶ。
「何だ、あいつ。メガネを取ったら……レイディそっくりじゃないか。いや、似てるなんてものじゃない。まさか、いや、しかし、」
ふいに。
鼻に、剣呑なしわを寄せる。
「悪い冗談だ。どうかしてる」
チェシーは舌打ちすると、ニコルの後を追って、大股に歩き出した。
▼
「フラン、僕だ。入っていいかな」
ニコルは、病室の前に立った。
静かにドアをノックする。予想通り、扉越しに返ってきた声は、ぼそぼそと小さい。
ドアノブに手をかけても、たちどころには開ける勇気が出なかった。深呼吸して、いったん、気持ちを落ち着ける。
ニコルは、なぜかずっと小難しい顔をしたまま、なかなか追いついてこないチェシーに、こっちこっちと手招きした。片眼をつぶり、笑顔で扉を指さし、ここだという合図を送ってから。
「開けるよ、フラン」
言い置いて、扉を開ける。
さわやかな風が吹き抜けた。
青い彫刻ガラスの一輪挿しが、明るい出窓の手前に見える。
生けられた
「フランゼス」
ニコルは声を明るくした。再度、呼びかける。
聖ティセニアの公子、フランゼスは、ベッドの中にいた。壁際のボードと背中の合間に大きなクッションをいれて、大人しく座っている。
頬やおでこには、四角く切ったガーゼ。添え木をあて、包帯でぐるぐる巻きにした右足。三角巾で吊るした左手。
ぽっちゃりと、子どもっぽい顔立ち。
「やあ、ニコル……、ひ、久しぶり」
少年は、膝に本を置いて片手を上げた。優しげな薄紫の眼に、学究肌の光がたたえられている。
「よかった。思ったより元気そうだね」
ニコルは顔を輝かせた。ベッドに駆け寄る。
どこかに当たったのか。脇のテーブルに立てかけられた松葉杖が傾く。
「う、うん、まあね。ニ、ニコルも元気そうで何より……うぶぶぶぶ」
「いつも通りのもちもち具合で本当によかった」
本当は、ドアを開けるまで、フランゼスの姿を見るのが怖くて仕方がなかったけれど。
だが、そんな杞憂も、フランゼスの顔を見ただけであっさりと吹き飛んだ。ニコルはさっそく、フランゼスの無事な方のほっぺたを、むにむにとつまんだ。はしゃぎ声で話しかける。
「フランが重傷だって聞いてさ。もう心配で心配でいても立ってもいられなくって。ノーラスをザフエルさんにあずけて、すっ飛んで来ちゃった」
「あ、足じゃなくて、ほっぺたのほうを心配されてたなんて、し、心外だな」
フランゼスは、照れくさそうに頬を赤らめた。
えんじ色の革表紙に金で箔押しされた、古めかしい本を、いかにも大事そうに抱え直す。
「で、でも、嬉しいよ、ニコル、君が来てくれて」
ニコルは、一歩さがって、にっこりした。
「怪我の具合は? もう歩けるの?」
「あ、ああ、ご、ごめん、そ、そこ踏んじゃだめ」
フランゼスは焦った声で、ニコルを押しとどめた。
なぜか、ベッド横に、木箱があった。色とりどりの瓦礫が詰め込まれている。ゴミだか何だか、見分けもつかない。
ニコルは、きょとんとした。足元の瓦礫を見やる。
「何これ」
「だ、大事な、宝物なんだ」
「え? う? うん、大丈夫だよ全然踏んでないしあははは」
思い切り蹴飛ばしてしまったような気がするのを、何とかごまかしつつ。
床に落ちたかけらの一つを、ニコルは拾いあげてテーブルに戻した。
「どう見ても、由緒正しき立派なゴミにしか見えないんだけど。宝物? これが?」
「う、うん」
フランゼスは、鼻の頭を赤くして身じろぎした。抱いていた本を、胸にぎゅっと引き寄せる。
「こ、この天井画はね、《ヴァロネの青》と呼ばれる顔料で描かれてて、フレ、フレスコ画に使われる顔料の中でも、ほ、ほ、本当にきれいで、珍しい色で、この地方の聖堂にしか使われてなくて、歴史的にも文化的にも、すごく貴重な……だから絶対、修繕、し、し、しなくちゃって思ってて、そこでこの本も見つけて」
立て板にスライムのごとく、とろとろと熱弁を振るいつつ。
この世のものではない何かをうっとりと見はるかす眼差しで、フランゼスは、えんじ色の本を見つめた。
「たぶん、古語で書いてある……全然、読めないんだ。イル・ハイラームに帰ったら、聖ワルデ・カラアの書庫を、つ、使わせてもらって、解読しようかなって、お、思ってるんだ」
「相変わらず、研究熱心だねフランは」
ニコルは、つくづくと感心した。ゴミの山――ではなく重要文化遺産のなれの果てが入った箱の前に座り込む。
青い漆喰のかけらをつまみ上げた。フランゼスの言う、《ヴァロネの青》。空のような、海のような。濃く、美しい青だった。
ためつすがめつ、興味津々に見入る。
「失礼する」
ふと、チェシーの厳粛な声がひびいた。なぜか開きっぱなしになっていたドアの外に突っ立ったまま、入ってこようとしない。
フランゼスは、ぎくりとしたふうに身をすくませた。探るような薄紫色の目線を、ニコルとチェシー、交互に走らせる。
「あ、チェシーさん。どうぞ入って」
ニコルは、手を振った。チェシーを招き入れる。
「チェシー……」
フランゼスは、ぼんやりと名を繰り返した。
「チェシー・サリスヴァール」
唐突に、思い当たったらしい。
怖気づいた声をけわしくし、あからさまに突き放した顔つきで黙りこくる。
チェシーは、部屋に足を踏み入れ、後ろ手に扉を閉じた。
冷ややかなしぐさで肩をすくめる。それみろと言わんばかりの表情だった。
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