【完結】 exile 異端《ウィルド》の血を引く魔女であることを隠すため、性別を偽り男装して聖騎士となったのに付き従う部下は超女ったらし亡命者と無表情にグイグイ迫る黒髪黒瞳の鉄血参謀
「引っ張ったら……エプロンがぜんぶ脱げちゃうですーーーっ!」
「引っ張ったら……エプロンがぜんぶ脱げちゃうですーーーっ!」
もし、普通の人のすぐ側で、
結果は、火を見るより明らかだった。あのときのチェシーと同じ。なすすべもなく害意の旋風に巻き込まれ、下手すればひとたまりもなく──
ならば、せめてアンシュベルだけでも逃がしてやらなければと、背後を振り返る。
だが、そこに道はなかった。
それまでは確かにあったはずの廊下。自分が進んできたはずの元の道が、うごめく
退路すら、絶たれて。
こんな狭い空間で、ルーンを持たぬアンシュベルをかばったまま、闇属性の攻撃を放つことはできない。
唇が青ざめる。
そうこうする間にも、人型の
手足のかたちを思わせる粘液のかたまりが、軟体動物の触腕のように、うねうねと泳いでいた。
「ど、どうしよう……何か、武器になるようなもの」
アンシュベルは、わなわなと膝を笑わせていた。ほとんど溶けてなくなりかけたスカートのポケットに手を入れ、取り出した中身を無駄にぽろぽろと取り落として選り分ける。
「チョコレートにキャンディに、さっき上から落ちてきた瓶に、それからいい匂いの香水。うわあん全部ハズレ!」
「よりにもよって、ぜんぜん役に立ちそうもないものばっかりだね。とりあえず一個ずつ使ってみようか」
ニコルは、害を及ぼすだけで使いものにならない闇属性の《カード》を、腰のポーチに押し込んだ。
文字通り、徒手空拳。
裸になったような気がした。冷たい汗が小脇に染みる。背筋がひときわ凍えた。でも、これで、少しはアンシュベルを安心させてやれる。
ぎゅっと抱き寄せる。アンシュベルは、ニコルの腕の中で、怯えた子犬のようにかたかたと震えた。聞き取れないほどの小さな声で、悔恨の声を上げる。
「ごめんなさい、師団長。あたしがいるせいで、《カード》使えない……」
「そんなことないよ」
「でも!」
アンシュベルの足元に、調味料の小瓶が落ちた。
蓋がはずれたのか。中身の白い結晶が、床にこぼれる。
「大丈夫だって。ルーンの騎士ともあろうものが、女の子一人ぐらい護れなくてどうするんだ」
ニコルは、鼻の下をこすった。精一杯の痩せた笑みを浮かべてみせる。
「いくら強くても自分の身しか守れないんじゃ、おこがましくて
「ぁっ」
ふいに。
アンシュベルの押し殺した声が耳に届いた。
つ、つ、と。糸を引いて落ちてきた何かが、そっけなく肩を叩く。
頭上を振り仰ぐ。
見えたのは、天井一面に広がった無数の目玉。
曇天の星のような、びらびらする触手のような、牙の生えた口のような、食虫植物の花弁のような。名状しがたき無数の
凍りつくニコルの眼鏡に反射して、映り込んだ。
今度こそ、アンシュベルが耐えきれない悲鳴を上げた。
「来ないでえっ」
アンシュベルの悲鳴が、泡の音に飲み込まれる。
どろどろと溶け崩れながら迫ってきた
みるみる引き離された。
「師団長……!」
恐怖に見開かれた青い目が、闇の奥へと引きずり込まれてゆく。
「アンシュ!」
とっさに後を追う。駆け寄ろうとしたニコルの足首を、別の何かが掴んだ。
床から、無数に半透明の手が生えていた。水死者の手にも似た青白い指が、藻のように揺れながらニコルの膝に巻きついている。
足を取られ、たまらず倒れ込む。しぶきが散った。
人型の
「アンシュに近づくな!」
ニコルは、からみつく半透明の手をむしり取った。跳ね起きる。
手が何かに触れる。武器がわりになるなら、それが何だろうが構わなかった。冷たいガラスの感触。小瓶だ。
身を低くし、人型の
「どけって言ってるだろう!」
はね退けられながらも、握り込んだ拳で、滅法に殴りつける。
手にした小瓶から、こぼれた塩の結晶が降りかかった。
白い煙が上がった。
湯けむりにも似た霧が立ち込める。人型は顔を押さえた。苦しげに身を折る。
ニコルは塩の瓶を投げつけた。人型の足元に広がった
その隙に、傍らをすり抜ける。
ニコルはアンシュベルを追った。
「師団長、こっちに来ちゃだめです」
アンシュベルは、うねうねとうごめくツタに呑み込まれかけていた。身をよじらせて叫ぶ。
「今のうちに、《カード》を使うですっ」
思いも寄らない金切り声に、ニコルは、ぎくりとして立ちすくんだ。
「そんなことしたらアンシュベルが」
「やっちゃうです!」
「できないってば!」
ニコルはアンシュベルに駆け寄った。手を掴んで、ありったけの力を込め、引き戻しにかかる。
「ひゃぁああんっダメですってば! 手を離すです!」
アンシュベルは鼻に掛かった声をあげた。ニコルはさらに力を込める。
「あきらめちゃだめだ」
「そうじゃないですっ」
アンシュベルは、真っ赤な顔でニコルの手を振り払った。
「引っ張ったら……エプロンがぜんぶ脱げちゃうですーーーっ!」
「うえっ!?」
思わず赤面し、ぱっと手を離す。
とたん、アンシュベルは、すごい勢いでツタと
「きゃぁぁぁ!」
「やっちゃったあっぁぁぁ!」
完全にめくれ上がってしまったフリルエプロンから、アンシュベルの真っ赤な顔だけがのぞいている。ツタにめり込んで見えない部分はいったいどんなふうになっちゃっているのか。想像するのも恐ろしい。
ニコルは、泡を食って右往左往した。
「わあああしまったどうしようーーーっ!」
「師団長、後ろ後ろーーーっ!」
アンシュベルが声を枯らして叫ぶ。
「ィ……ゴゥル……れロ……」
いつの間に迫ってきたものか。
人型の
白くけむる蒸気が、気泡のはじける音をあげて立ちのぼる。
蒸気の煙に取り巻かれた
「やめろ! アンシュに近づくな! 近づくなって言ってるだろう! 何でアンシュを狙うんだよ! 僕を狙えよ!」
知らず知らずのうちに、涙声になっていた。ニコルは何度も体当たりを繰り返した。突進しては、そのたびにあっさり跳ね返される。
人型の
「きミハ……ガッテ……ロ……邪魔だ」
てらてらした粘液の下から、思いもよらず、はっきりとした声が聞き取れた。
「えっ?」
ぽかんとする。今の声。もしかして──
そのとき。
足元の床が、斜めにせり上がった。
直後。真っ赤な火柱が床板を突き破った。天井めがけて炎の渦が噴き出す。熱風が壁を叩いた。
どこか遠くで、続けざまにガラスの割れる音と板のへし折れる音、レンガの崩れ落ちる音がした。
行き場をなくした火が、灼熱のみぞれと化して頭上から降り注ぐ。
アンシュベルをぐるぐる巻きにしていたツタが、一瞬にして燃え上がった。導火線のように火が走る。
「アンシュ!」
ニコルが悲鳴をあげるのと、人型の
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