そこは謎のジャングルだった


「見せたいものというのは、こちらです」

 ニコルは、チェシーと連れ立って大会議室へと向かった。扉を押し開ける。

 そこは謎のジャングルだった。


 妙にしっとり、いや、じっとりとした空気が全身にまとわりついてくる。結露した窓ガラスから幾筋もの水が垂れて、壁に黒ずんだ染みを作っていた。この世のものならぬ、危険な成分が室内を浮遊している。

 壁一面に生い茂る、ピンクと緑のシマシマ模様のツタ。天井からは黄色に紫の突起が生えた星形キノコ。隙あらばモコモコと成長を始めるコケ。巨大な花だか目玉だか分からないような未確認飛行物体が、鱗粉を撒き散らしてばっさばっさ飛び交っているかと思えば、どこからともなく、ゥヒョロロロロ……と、不気味優しい鳴き声までが伝わってくる。

 目の前に広がる原初の光景。完全に別世界だ。ここが単なる会議室だったとは、とうてい思えない。

「何ですかこれは」

 自分で案内しておきながら、ニコルは立ち止まった。さすがに顔がひきつる。足を踏み入れるのさえ、全力で御辞退申し上げたい気分だ。

「なるほど、そういうことか」

 一見しただけで興味を失ったか。チェシーは驚きもせず悠揚と壁にもたれた。腕を組み、高をくくった薄笑いをにじませる。

「逆に、この程度でしかないことに驚いたよ」

 右手の甲を、含みありげに撫でさすっている。

「閣下」

 不気味な黒い影が背後に忍び寄った。ニコルはぎくっとして姿勢を正す。

「はっ、何か御用でしょうか、ザフエルさん」

「御用も何も。少し目を離したらあっという間に姿をくらましたのはどこのどなたですか」

 ザフエルは、珍しく苛立った様子だった。ニコルとチェシーの双方に、するどい目線を配る。

 ニコルは、背筋をぴんとさせたまま反論した。

「誤解です。今日はまだ何もしでかしてはいません」

「仕事もせずにいなくなるから探していたのです。おっと、逃がしませんぞ」

 ザフエルは目線をそらしもせず、手を突き出した。チェシーの背中に逃げ込もうとしたニコルの襟首を、ぐいと捕まえる。

 チェシーは、とがった笑い声をたてた。

「あいかわらずだな、ホーラダイン中将。毎度毎度、気配もさせずに忍び寄ってくるとは」

 ザフエルは矢のような視線を跳ね返した。

「驚かせて申し訳ないですな。出しゃばりな貴方と違って、どうも私は存在感が希薄なようで」

「面の皮は厚いようだがな」

「准将は面白くもない冗談がお得意、と」

 チェシーの皮肉を、ザフエルはわざとらしい咳払いでさえぎった。ポケットから、『サリスヴァール准将マル秘アンケート』なる黒革表紙の手帳を取り出して書き止める。

「ふむ、いろいろと情報が集まってきましたな。ちなみに先日行われました師団内の最新意識調査に拠りますと、サリスヴァール准将は」

 ザフエルは、漆黒の眼をかみそりのように細めた。

「『毎朝、鏡に向かってナルシーポーズを取っていそうな将校第一位』『女性士官に聞きました顔を見るなりいきなり口説いて来そうな将校第一位』『何か言うたびキザに髪をかき上げるっぽい将校第一位』『彼女を奪られた士官に逆恨みされてそうな将校第一位』『母親の違う隠し子三人隠してそうな将校第一位』」

 チェシーの眼が凶悪に光った。

「寄越せ」

 しゅっ。神速の居合で黒革の手帖を奪いにかかる。

「お断りですな」

 ひょい。ザフエルはあっさりと身をそらす。

「そんなものいつ作った」

 びゅっ。下段からの猛追が、続けざまに疾風を巻き上げる。

「査問会如きに手間取る貴方が悪いのです」

 すいっ。静かなる毒舌で、右、左と流麗に交わす。黒髪があおられてたなびいた。

 後頭部ををかすめた拳が、ニコルの髪を、ひゅんと吸い上げる。

「ん? さっきから何やってるんです」

 不気味な拳圧を背後に感じる。ようやく無言の攻防に気づき、ニコルは振り返った。

「いえ、別に何も」

 その瞬間、ザフエルは髪の毛ひとすじ、呼吸のひとつも乱さぬまま、素知らぬ顔で手帖をしまい込んでいる。

「くそっ」

 チェシーは手玉に取られた苛立たしさに、ザフエルを睨みつけた。ニコルはきょとんとする。

「どうかしました?」

「どうもしない。どうやら私は招かれざる客のようだ。調練に行ってくる」

「えっ、行っちゃうんですか? 困ります。チェシーさんに《召喚術》の監督をしてもらおうと思ってたのに」

「知るか。勝手にやってろ。素人が、うかうかと手を出しても、ろくなことにはならないってことだけは先に言っといてやる。それ以外は知らん」

「チェシーさん、怒ってます? 僕、何かしました?」

「全然、怒ってなど、いない!」

 チェシーは振り返りもせずに言い捨てた。足音も荒く去っていく。肩を怒らせ、廊下の角を曲がったところで、ちょうど入れ違いに、誰かがやってきた。

 ヒルデブルク軍曹と、厚生部隊看護班のビジロッテ中尉だ。

 あやうくチェシーとぶつかりそうになったビジロッテ中尉が、飛びのいて避ける。

 ニコルは、当惑してザフエルを振り返った。

「チェシーさん、何で怒ってるんでしょう」

 ザフエルはしらじらしく首を横に振る。

「存じませんな。ともあれ邪魔者も消えたことですし、さっそく始めましょう」

「邪魔者?」

 ニコルが眉をひそめたときには、もうすでにザフエルの姿はそこにない。一人で会議室をすたすたと横切ってゆく。


 行く手には、眼光鋭い黒衣の男が一人。足元に魔方陣の絨毯を敷いている。


 傍には、毒々しい目玉模様の蛾。机の上の布袋からは、一口かじっただけで笑い死にしそうな、赤とピンクのけばけばしいもじゃもじゃキノコがこぼれ出している。

 黒衣の男は、ずらりと並んだフラスコに、スポイトで吸い上げた謎の液体を垂らした。ガイコツの形をしたドドメ色の煙が、ぼひゅ、ぼひゅ、と立ちのぼる。

 怪しげな材料に、怪しげな液体を加え、怪しげな呪文をとなえている、この怪しげな人物こそが。

 《召喚術》で会議室をジャングルに変身させた張本人であるらしかった。

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