情けなし(2)

 「茜には困ったものだ」

 台所で、息をひそめるようにしてポツンと茜の父は一滴の酒をこぼした。酒は音もなくちゃぶ台にぴろんと少し揺れて乗った。

 茜の母はそれをじっと眺めていたようで、それから自らのおちょこで酒を少しあおっていた。実は、この母はかなり飲める。かつて、茜の父が男の威厳を見せようと飲ませたところ、逆に潰されてしまった過去があって、それが見事に脳裏に蘇ってきた。その時は、翌朝気づくと、前日開けた一升瓶はその日のうちに消えてしまって、次の日、からの一升瓶が二本、丁寧に台所の脇に置かれていた。


 「あんまり、飲みすぎるなよ」

 酒の酔いが少し引いて、顔に緊張が走った。茜の母はただ、にやりとした。

 「大丈夫よ、今日はほどほどにするわ」

 そう言って茜の母は残りの酒を飲み干すと、これじゃだめだと席を立って、枡と一升瓶を持ってきた。勝手にしてくれ、と視線を外して隅を見る。母に肩をパシッと叩かれて、視線を合わせる。茜の父はあきれ顔だったが、結局、満面の笑顔にほだされ、お互いににやりとした。

 「茜が最近やたらと喧嘩しているよな。あいつのことが心配なんだよ。この先男の子は力をどんどんつけていく。茜はどうしたって女の子なんだから…」

 酒をあおって、どうしたものか、とつぶやいた。そして、茜の母が、はい、と徳利から酒を注ぐと、もう一度あおって、

 「それに。それに、あの子はどんな罰も効き目がない。かといって、これ以上の罰は与えたくない。大事な、大事な我が娘だぞ…」

 次第に、声が大きくなっていったので、どうどう、と諌められ我に返って、すまない、という。

 「相手の子も,

大事なお子さんだ。喧嘩両成敗とは言うもののな」

 

 気づけば茜の母は枡の酒を飲みほして、二杯目を注ぐ最中だった。

 「大丈夫よ、茜は。私の娘だから」

 と、根拠もなくただそう言った。

 「喧嘩の原因は知ってるわよね」

 注ぎ終わって、視線をこちらに向けると茜の母は枡を口に持っていって話す。

 「夕陽のことだな」

 「そうよ。あの子が怒るのはいつも夕陽のことでよ」

 「夕陽にはすまないことをしたなあ。俺も昔は体が弱かった。要らんところを似せてしまった」

 「でも、あなたはとても頑健になったじゃない。あの子も大丈夫よ」

 「確かにそうだがな」

 と、いつの間にか注がれていた酒を、少しなめて、これはいかんと茜の父は思った。この女のペースに合わせていたら、たとえお猪口であっても危ないと咄嗟に判断し、手を緩めたのだった。

 「夕陽を少し鍛えてみるか…」

 お猪口に残る酒をなめるように飲み干すと、隣で二杯目の枡を上機嫌で飲み干す女性に苦い笑みを送った。

 「そうね、あんまり無理させないでね」


この夫婦はこの時廊下から、かた、と物音が聞こえたのを知らない。



 翌朝、寝床で差し込む光に眩しい思いで茜の父親が目覚めた時、庭から棒の打ちつける音とともにえいやという声が響くのが聞こえた。

 何事かと思い、飛び起きて、着物を直しながら庭に出てみると、棒を持った茜に向かって夕陽が同じくらいの長さの棒を打ちこんでいるのを見つけた。

 棒は茜にはちょうどいい長さだが、夕陽にはちょっと長すぎる。えいや、という声はまだあどけなく弱弱しく、茜は、

 「腹から声を出すんだ」と息まきながら、時折、打ちこまれる棒をはじいては、握りが甘いだの、もっと強く打ちこめだのと言っている。

 茜の父は、急に頭から血の気が引いたのを感じ、縁側によろめきつつ座りこんだ。

 頭に手を当て、とにかくこの状況が何なのか整理したくて、

 「茜」と鋭い声を飛ばす。

 「はい!」と元気な声が聞こえ、茜が駆け寄ってくる。表情はとても凛々しく、清々しい。ともかく、何をしているのか問いたださねばと、

 「何をしているのか」

 と、静かに低く尋ねた。その声に動じず、茜は居住まいを正し、より真剣な表情になって応える。

 「昨日、僭越ながら父上と母上のお話をお聞きし、夕陽を鍛えるのを私めがやらせていただこうと思ったのであります」

 父親はその言葉に面喰って、まだ子どもと思っていたのに、何という言葉の回し方だろうかと思い、しかし、父の威厳も保たねばとも思って、

 「それはお前が勝手に思ったことで私は聞いていない。おまえに頼んだ覚えもない。何でもかんでもこういうことは順序を守らねばならない。分かるか」と聞き返した。

 茜は平身低頭して、「ごめんなさい」といった。

 「では父上、お許しください」とも言った。

 「夕陽はまだ年端もいかない。体も弱い。力もない。お前とは違うのだ。父の言葉が分かるか」

 「夕陽に合わせろということですか」

 「そうだ」

 茜はムッとした。

 「父上、鍛えるということは、相手に合わせることはできません。ちがいますか」

 違う、と、厳として言う父に、茜がたじろぐ。茜が初めて困惑を浮かべた。

 「鍛えるということは、けして無理を促すことではない。夕陽にあの棒は長すぎる。鍛えるということは、相手の少し先を行くことで、導くということだ」

 そういうと、茜は至極納得した様子で、分かりました、と一礼した。

 「そこまで言うならお前に任せる。けして無理はさせるなよ」と父が言うと、茜はすこぶる喜んで、夕陽の元へ戻っていった。

 ため息の好きな男である。茜の父親はここでもまた一つ、ため息を吐いた。


 それからというもの、茜はどこに行くにも夕陽を伴った。

 今日はあの山へいった、川へ行った、剣術をした、相撲をしたと来る日も来る日も報告をした。茜が夕陽を伴っているせいでいじめっ子も手を出せないらしく、茜の喧嘩騒ぎもほとんどなくなっていた。

 時々、父親も心配で共に行動するのだが、茜の行動力や剣術の技量に感嘆し、だんだんと夕陽も体力がついてきたことを実感した。


 そんなある日、茜が体調を崩して高熱を出し、寝込んでしまった。村の医者は薬を持たせ、近頃の夕陽の訓練の気疲れなどからくるものなのだろうといった。

 「大丈夫じゃ、茜ちゃんは体力もあるし、すぐに良くなるじゃろう」

 そう言って、医者はかかか、と笑った。

しかし、帰る間際にそっと茜の父親を呼びつけて、

「だけれども、念のため、夕方もう一度様子を見に来るわ。大丈夫じゃろうがな。心配は移るでな。看病する側が元気なのが大事じゃわい」

そう、静かに、目を厳しくして言い残していった。


 寝床で、濡れたタオルを額に当てられ、母に甲斐甲斐しく世話をされながら、寝言は「夕陽、夕陽、そうじゃない、こうだ」と言っている。

 母は「よくもまあ、こんなになっても」と笑っている。


 その夜更け、茜の様子を見に来た父は、枕元に夕陽が正座しているのにびっくりして、寝床のふすまを必要以上に開け、夕陽、と声をあげた。夕陽はゆっくりこちらを見て、おとう、と漏らす。

 「ずっといたのか」

 「うん、姉上が、夕陽、夕陽と言っていると、母上が。本当に言ってるよ」

 「茜の具合はどうだ」

 「もういいだろうって、お医者様が」

 そう聞くと、茜の安定した寝息が聞こえてくるのが分かり、どこまでも、人騒がせなお姉さんだな、と父は安堵を漏らした。それを聞いて、夕陽がくすくすと笑った。

 父は夕陽を連れ出して、縁側へ行くと、自ら腰掛けて、隣を促した。


 縁側からは月が見えた。細く、薄くたなびく雲が月にかかったり、離れていったりしながら、揺れている。

 「夕陽は姉ちゃんが好きか」

 月を見ながら、父が尋ねた。


 「うん。厳しいけど」

 「そうか」とポツンと父が返す。


 「夕陽、体の弱いの、ごめんな」

そう言いながら、父は月から目が離せなかった。

 「姉ちゃんがずっと、男が泣くのは情けないって言ってた」と、夕陽は言う。


 「夕陽は男が泣くのは情けないと思うか」

 「うん……。でも」


 「それでも泣いちゃうんだ」

 「父ちゃんも……姉ちゃん、無事でよかったな」


 「うん」


 

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