第5話
5.
恐らくは血を抜かれて死んだ野良猫。
そして、頭を殴られて血を抜かれた人間ことせいたん。
俺とコウは思考回路が擦り切れる寸前の所で、花村姉弟と共にリヴィングに降りた。散らかり具合や不潔さなどもうどうでもよかった。俺らは二人とも、頭を冷やす必要があった。
涼香さんも竜太郎も、俺らの反応を見て事を悟った。
「お友達、殴られただけじゃなかったんだね」
髪を縛った竜太郎が言う。俺もコウも返事は出来なかった。涼香さんが出してくれたコーヒーにも、手を付ける気にはなれなかった。
ほどなくして冷静さを取り戻したコウは、二人に事情を明かした。涼香さんはさして驚きもしないような、関心もないような相変わらずな態度だったが、竜太郎は違った。
彼は、不審な動物の死体を見付けても、通報はしなかった。警察が動けば死体は解剖される。それが可哀想だったからだ、と言った。
そしてその後、竜太郎はまた、ちょっとした高揚を孕んだ口調で宣言した。
「この事件、僕にも協力させてくれないか? 君達の力になりたい。勿論僕なんかじゃそんなに役には立たないだろうけど、それでも、何か出来る事があれば」
俺とコウは顔を見合わせる。
「僕達も警察じゃないから、犯人を探すって言っても何をどうしたらいいのか分からない状態です。でも竜太郎さんが見た不審な死骸は、今回の件と無関係とは思えません」
コウは真面目にそう言ったが、口を付けたコーヒーの味にすぐ顔を歪めた。
「個人的に引っ掛かっているのは、犯人が注射器を使ってせいたんの……僕らの友人の血液を抜いた、という点です。素人が注射器を使えば、被害者は傷だらけになって酷い内出血を起こすと思います。でも友人の腕には、穴が二つ開いていただけです。それだけ注射器を扱える人間は、かなり限られてくるんじゃないかと」
その言葉を聞くと、涼香さんがふと顔を上げた。
「私を含める医療関係者なら、可能ね」
そのあっけらかんとした物言いは、本当にただ事実を述べただけという感じで、男三人は一瞬ぽかんとした。
「……そう、ですね。医療関係者だとしたら、確かに可能です。友人は頭部を殴られていましたから、不意を突けば女性でも犯行は不可能ではないかもしれません。その後土井橋の下まで引きずる事も、恐らく無理ではないでしょう」
コウがそう返すと、涼香さんは薄く笑った。
「昨夜から今朝までのアリバイ、私は無いわね。疑うなら疑っても良いけど、時間の無駄よ」
「姉さん、彼らはそんな事言ってないよ」
竜太郎が困り顔で言う。コウは気にせず続けた。
「涼香さんは中央病院にお勤めですか?」
「いいえ、湯浅総合病院の小児科よ」
湯浅総合病院といえば、柚ヶ丘中央よりも後に出来た、かなり大きな病院だ。無駄に土地が余っている湯浅に、ヘリポートまで完備した大病院が出来たのは当時こっちでも話題になった。
「柚ヶ丘在住の医者や看護師も多いわ。ちょっと数が多すぎて把握は出来てないけど、調べる事は出来ると思う」
そう言って髪を掻き上げる涼香さんに、俺はまたちょっと見とれる。沈黙が落ちる。四者四様に考え込む。
犯人は医療関係者なのか。確かにコウが言う通り、素人とは考えにくい。でも一言に医療関係者と言っても、事務もあるだろうし、注射器を使わない職種もあるだろう。これはかなり絞れるんじゃないだろうか?
と同時に、竜太郎が弔った不審な動物の死骸の事を思い出す。
血を抜かれた猫。
『終わりはまだ見えない』
『敵も分からず五里霧中か』
『冷静になれ』
『考える事はやめない』
犯人は何らかの理由で血液を欲しがっていて、猫の血じゃ飽き足らなくなって、その延長で人間=せいたんの血を抜いたとしたら?
「イツキ?」
コウに声をかけられ、俺は我に返る。
「竜太郎さんが見付けた動物の死骸が気になるんです」
そう切り出して、俺は自分の考えを述べた。
つまり、犯行は動物からエスカレートした結果ではないかと。
「確かにそう考えるのが妥当だな」
よく響く声で竜太郎が頷き、コウも同意する。
「申し訳ないけど、私明日仕事だからもう寝なきゃ」
涼香さんがそう言って立ち上がった。随分長居したな。
「遅くまですみませんでした。僕達はこれで失礼します。竜太郎さん、携帯の番号とメアド、教えて貰って良いですか?」
コウが言うと、竜太郎の顔がパッと明るくなった。
「リアルの交流でメアド交換なんて何年ぶりだろう? 今携帯持ってくるよ!」
興奮気味に竜太郎が去ると、涼香さんが俺らを見た。
「あの子が貴方達に協力するって言うなら、私も協力する。でもあの子を危険な目には遭わせたくないの。分かるでしょ?」
言葉の割に、涼香さんはやはりどこか別世界で喋っているような雰囲気を漂わせていた。
「あの子は繊細なの。貴方達がお友達の為に必死なのも分かるけど、あんまり妙な事には巻き込んで欲しくないわ」
俺とコウは黙って頷く。
竜太郎はすぐに降りてきて、それぞれの情報を交換をした。俺らは重々礼を言ってから花村邸を出る。
「仁科君」
見送りに出てきてくれた涼香さんに呼ばれ、俺はビクリとして振り返る。
「貴方、ちょっと変わってるわね」
少し首を傾げた涼香さんが、座った眼で言った。
「他意は無いけど、それだけ。じゃあおやすみなさい」
俺が返事をするより先に、涼香さんは屋内へ戻った。髪が夜風になびいていた。
ひとまず帰宅すると、晴奈が帰ってきていた。
「母さんとモトノちゃんはまだ病院だよ。家事もあるし、私は居てもあんまり役に立たないからさ」
悲しげに笑いながら、晴奈はリズミカルに野菜を切っていた。一緒についてきたコウは、勝手知ったる仁科家のソファに腰を下ろした。
「血圧とかは安定してきてるって。意識が戻らないのは殴られた場所が悪かったからみたい」
俺は冷蔵庫から冷えたウーロン茶を取り出して、二つのコップに注ぐ。その片方をコウに出してやって、俺も食卓の椅子に座る。
「せいたんの親父さんは戻ってこないのか?」
コウが静かに聞くと、晴奈は首を横に振った。
「連絡が取れないんだって。おばちゃん何度も電話してるんだけど……」
沈黙が落ちる。
他人の家の事情に口を出す気は無いが、俺はせいたんの親父さんに良い感情を抱いていない。せいたん本人はほとんど憎悪しているが、別にそれを愚痴ったりはしない。それでもあのおっさんの態度には過去何度も閉口させられた。仕事で不在なのは仕方がないが、おばさんが身体を壊した時も少し顔を見せた程度で、ほとんどせいたん任せだった。俺らの事もうざく思ってるのが丸見えだ。まだ小さい頃、せいたんの家に四人が揃うと、うるさいから別の場所へ行けとしょっちゅう怒鳴られたもんだ。あの人が帰ってきてもおばさんの心労が増すだけだと、俺は思う。きっとコウも同じ事を考えているだろう。
静けさの中、晴奈が野菜を切り終え、火にかけた鍋に放り込む。きっとポトフか何かだ。
その時、コウの携帯がメール受信を知らせる。
「母さんだ。ちょっと顔見せてくるよ」
「そうしろよ、折角帰ってきたんだから」
コウは無表情のまま立ち上がる。リヴィングを出る時、俺の肩に手を掛けて言った。
「いいか、冷静で居ろよ。何か思い付いたりしたら一人で動く前に俺に知らせろ」
「そりゃこっちの台詞だ」
そのまま辞すコウを尻目に、俺は階段を上がって自室に戻った。
壁には色んなバンドのポスターが貼ってある。大井澄のアパートと違うのはそれらがヤニで黄ばんでない事くらいだ。
ベッドにダイブして、俺は頭を抱える。
日常なんてものはこんなにも簡単に破壊される。昨日までダメ音の連中と平穏に過ごしていたのに、今、この状況は何だ。
意識が戻らないせいたん。風変わりな姉弟。動物の死骸。
俺は顔を上げて天井を眺める。
河原の現場はどうなっているだろう。まだ警察や野次馬が居るんだろうか。そういえばTVカメラっぽいのも居たけどこんな事件が報道されたりするんだろうか。こんなおぞましい事件が?
警察はどう動いているんだろう。もうめぼしい奴を見付けたりしてるのか。まだ怨恨の線で捜査しているんだろうか。それとも注射の跡から俺らの知り得ない有力な情報を引き出しているだろうか? コウの先輩とやらに確認したかったが、今日はもう遅いし、俺自身も無駄に疲れていた。身体が重い。
『番組の途中ですがここで臨時ニュースをお伝えします』
『それにしても』
『それにしても不思議な人だったな』
『それにしても不思議できれいな人だったな』
無意識に花村涼香の事を思い出していた。余計な詮索をしてしまう。弟が近所で危険視されている事を彼女は知っているのか、どう思っているのか、どうでもいいのか。今回の事に協力してくれるって言ってたけど、どう力を貸してくれるのか、また会えるのか。
俺は軽く頭を振った。ヤバい。この感情はヤバい気がする。
認める。俺は彼女に惹かれている自分を認める。唯莉の存在なんて忘れてしまっているくらいに惹かれてる事を。彼女の白すぎる肌と、全てを見放したような切れ長の眼を思い出すだけで、童貞の中学生みたいに心臓が跳ねる。
でも、今はそんな事を考えてる場合じゃないだろう。
こんなふざけた真似をした奴を野放しには出来ない。俺は絶対に許さないし、それはコウもモトノも同感のはずだ。せいたんの意識が戻れば、何か分かるかもしれない。
ポトフの良い香りが部屋まで漂って来る頃、俺は既に眠ってしまっていた。
だが、俺が惰眠を貪ってる間に、事態はもっとややこしい事になってたんだ。
翌朝俺が起床してリヴィングに降りるとコウが居た。コイツはいわゆるショートスリーパーってやつだ。睡眠時間が極端に短い。一日八時間以上は寝ないと頭が働かない残念な俺とは違う。今朝もちゃんと髪をセットし髭もきれいに剃って、いかにもインテリ紳士って感じでソファに座っていた。
「おはよう、イツキ」
「おまえ……いつから居んの?」
「一時間くらい前かな。おばさんと入れ違いだった」
「え、あの人また病院行ったの?」
俺が聞くと、コウがほんの少し目を伏せる。
「せいたんのお母さんが、ほとんど不眠不休で何も食べてないらしい。おばさんは着替えと弁当を持って行ったよ。晴奈ちゃんも一緒だ」
「まだ意識は戻らないのか?」
愚問だった。俺は黙ってカウンターに置いてあった朝食をテーブルに降ろす。
「イツキ、ちょっと厄介になってきたぞ」
コウが低い声で言うもんだから、俺はフォークを落としそうになる。厄介って、今この状況以上に厄介な事態が他にあるのか?
「食えよ。空腹じゃ動けない」
俺は頷き席に着く。その間にコウが話し出す。
『呪われてるよ、これ絶対呪いだよ』
『ちょっとライター貸してくれる?』
病院から戻って来てずっとTVを見ていたという晴奈曰く、せいたんの事件は単なる暴力事件として十時台のニュースで一分にも満たない報道がされただけだという(恐らく第一報は五時台のニュース番組だろう)。
血が抜かれていた事は公表されなかった。警察が報道を規制したらしい。県警に居るコウの先輩も、それに関しては口を濁したという。こんな特異な事件だ、コピーキャットが現れるかもしれないし、健全な少年少女に笑顔で聞かせられる話じゃない。
しかし、それでも情報は漏れた。
柚ヶ丘中央病院は、涼香さんが勤めてる湯浅の病院ほどではないが、それなりに大きい。それだけ多くの人間が出入りするという事だ。勿論集中治療室まで入って来られる人間は限られてくるが、その中の誰か一人でも情報を漏らせば話は病院中に広まるし、患者にも伝わる。ニュータウンの患者が知れば、話はあっという間に知れ渡る。
柚ヶ丘ニュータウン住民の口コミはバカに出来ない。
ニュータウンは一丁目から七丁目まで大きく七つに分かれているが、朝一丁目の人間が口を滑らせれば、昼前には一番東の七丁目にまで、誇張や脚色を含めて伝わってしまう。昼過ぎにはニュータウンと呼ばれない地域にまで及ぶ。
その辺は、ニュータウン住民の、良く言えば結束力、悪く言えば口の軽さに所以する。最近になって開発が進んだとはいえ元は平らな農地だったこの町では、人の噂くらいしかする事がなかったんだろう。噂話は昼間家に居る主婦層に多いが、親からそれを聞いたガキ共も喜び勇んで話を拡散する。特にガキは情報の真偽なんてどうでもよくて、むしろ真実よりも誇張されたセンセーショナルな話を好む。
今回のせいたんの一件がどんな経緯で漏れたのかはもはや知る由もないが、皆が皆、こう言っているという。
「吸血鬼が出た、だとよ」
コウは少し嘲るように笑いながら言った。
「さっきゴミ捨て場で三丁目の人に言われたよ。『山崎さんの息子さん、血は足りてるの?』って。心配そうにそう言ってたが、内心どうだか分かったもんじゃない。奴らにとっては単なる暇潰しでしかないんだ。昨日の河原の野次馬と一緒だよ」
俺はまた体内に熱を感じるけど、食事に集中する事でそれを無視した。母親が作ったサンドイッチと目玉焼き。咀嚼、嚥下、咀嚼、嚥下。
「幸い、噂話ではどうやって血液が抜かれたのかまでは明らかじゃないらしい。俺らに出来る事はまだある」
サンドイッチを食い終えた俺はコウを見遣る。少し目を細めて虚空を睨んでいる。
『ハサミでこの紙を好きなように切ってみてよ』
『吸血鬼? ヴァンパイア? それってつまり』
「もう十時半か。竜太郎さんは寝てるかな」
コウが言った瞬間、奴の携帯が着信を知らせる。噂をすれば、か。コウは携帯を開いて応答する。
「もしもし、何かありましたか?」
話し込むコウを尻目に皿を洗って食器を片付けた。そういや帰ってからまだ親父に会ってない。居ないって事は仕事に行ってるんだろう。親父と晴奈の茶碗を棚に戻すと、ちょうどコウが通話を終えていた。
「イツキ、竜太郎さんちに行こう」
「どうした? 竜太郎さん何だって?」
『分かるだろ? まだ始まったばかりなんだ』
コウは苦々しい顔で吐き捨てるように言う。
「嫌がらせが始まったらしい。すっかり犯人扱いだ」
「来てくれて本当にありがとう。ちょっと僕一人じゃ参っちゃってね」
疲弊しきった顔で、竜太郎は俺らを迎えてくれた。玄関から顔は出さずに、そっとドアを開けるだけ。俺らは構わずお邪魔した。冷静に考えればここに出入りしてる俺らも怪しく見られるのかも知れないが、そんな事を言ってる場合じゃない。
「嫌がらせは、電話以外にも?」
昨日より少し片付いたリヴィングに入る。シャッターは閉められ、灯りが付いていた。室内の電話に視線を移すと、ジャックが引き抜かれていた。
「さっき公園の方から石が飛んで来たよ……。和室のガラスにひびが入った。慌てて家中の雨戸とシャッターを閉めたんだ」
竜太郎はおろした髪を掻き上げた。風呂に入って髭も剃ったらしく、昨日よりはまともな人間に見える。
竜太郎は普段、家の電話には出ない。固定電話が恐いらしい。だから涼香さんが居ない間はずっと留守番電話に設定してある。今朝彼が寝ようとしていた時にかかってきた電話も、例によって留守電に繋がった。しかしメッセージは無く、三十秒ほど無音で、そのまま切れたという。最初は気にしなかったが、電話は間髪入れずに鳴り続けた。無言電話もあれば、『犯罪者は死ね』、『早く自首しろ』とメッセージを残すものもあったという。
「ニュータウン中を敵に回した気分だよ。ここの電話番号は町内の連絡網に載ってるから、住民なら誰でも分かるし……」
「お察しします。涼香さんはお仕事ですよね?」
「ああ。姉さんにまで被害が及んだらどうしようって、それが心配で……」
そう言うと竜太郎は俯いて頭を抱えた。確かに彼は繊細なんだろう。普通の人間だって犯罪の犯人扱いされてイタ電が止まらなくなったら参ってしまう。
「幸い、今の所姉さんは平気みたいだ。さっきメールがあってね、昼休みには何かしら情報を得られるかもしれない」
「情報? 涼香さんが?」
俺が尋ねると竜太郎は少し笑った。
「うん。姉さんは態度があれだから誤解されやすいけど、ああ見えて行動力はあるんだ」
その時、隣室からガシャン、という音が聞こえた。俺とコウはすぐさま立ち上がり、竜太郎は頭を抱えて震えだした。
「隣、入ってもいいですか」
返事を待たずにリヴィングを出て和室に上がり込む。タンスと仏壇があって、彼ら姉弟の両親と思われる二人の遺影があった。
公園に面した窓の雨戸は閉まっていたが、ある部分が少し凹んでいるのが分かる。石を投げられたようだ。
「外に出て確認するか?」
「いや、どうせその辺のガキの仕業だろう。こっちの反応を楽しんでるだけだ」
ガキと聞いて、俺は昨日土手で会った三人の事を思い出した。アイツらも今回の噂の尾ひれ作成に荷担してるんだろうか? 少なくともリーダー格の目のでかい奴は、そこまで頭が悪いようには見えなかったが。
リヴィングに戻ると竜太郎は頭を抱えたまま今にも泣き出しそうにしていた。俺は彼の肩に手を置く。
「竜太郎さん、ここで負けちゃダメですよ」
我ながら薄っぺらい励ましだったが、竜太郎は涙目で俺を見上げてこくこくと頷いた。
「イタズラ電話の声に聞き覚えがあったり、特徴を覚えていたりしませんか?」
コウが尋ねると、竜太郎は思い出したくもないという顔をする。
「どれも聞き覚えはなかったけど、あれは大人子供、両方だったよ。男女問わず、複数人で」
そう言うとまた俯く。猫背に拍車が掛かる。
ニュータウン中を敵に回す。老若男女問わずに敵視される。民衆の敵、パブリック・エネミー。
そりゃこの人の行動には怪しい所があるが、憶測だけでこんな真似をする連中を思うと、俺はまた怒りを覚えた。コウはそれを見透かしたように俺に目配せする。俺は無理にでも冷静になろうとする。
それからしばらく、俺とコウは竜太郎の話を聞いていた。
彼らの両親は竜太郎が中学生の頃に事故で他界し、以来涼香さんが母親代わりとなって、竜太郎曰く『ちょっと過保護なくらいに』面倒を見てくれたらしい。亡くなった両親がそこそこの遺産を残していたから、涼香さんも高校と看護学校を卒業出来て、竜太郎も奨学金でそれなりの大学に入った。そしてそれなりの企業に就職したものの、一年目の激務で鬱状態になって退社、一時期は市外の心療内科に通院していたという。以来外に出るのが極端に恐くなり、結果生活リズムは崩れ、元々趣味だったインターネットに依存するようになった。
「ネット上では友達は多いんだよ」
自嘲気味に、竜太郎は笑った。
コウの予測は正しくて、竜太郎はニートだったがそれなりに稼いでいた。プロ顔負けのフィギュアをいちから自分で作ってはそれをオークション等で売り、今では販売専用サイトも出来て、固定客も付いているらしい。それを話す時の竜太郎は、少なからず誇らしげだった。
俺はネットにそれほど詳しくないけど、食えるだけ稼げるならそれはそれでいいんじゃないかと思う。まあ、昼夜転倒とか昼間ヒキって夜周囲をうろつくのはちょっと問題だが、それでもこの人は無害だ。噂話を真に受けて証拠も何も無い状態で他人を犯人扱いして嫌がらせをしてくる奴らの方が、よっぽど有害だろう。
話を聞いている間にも、何度か石を投げられる音がした。その度に竜太郎は顔を歪め、コウは言葉をかけ、俺はこの状況を打破する方法が無いかとばかり考えた。
部屋の時計が正午を告げた瞬間、ガラステーブルに置いてあった竜太郎の携帯が音を立てた。可愛い女の子が歌うその曲は恐らくアニメのテーマソングだろう。
「姉さんだ」
竜太郎がメールを確認し、俺達に携帯を渡してくる。本文は事務的で、こう書いてあった。
『カルテ庫の友人からの情報。
・呉(くれ)昌治(内科医)…酒癖女癖悪し。柚ヶ丘本町在住。
・山口好子(看護師)…後輩に嫌がらせ。柚ヶ丘五丁目在住。
・五條(ごじょう)啓太(外科医)…オペ前に服薬(?)。柚ヶ丘二丁目在住。
・谷川信太郎(看護師)…以前に暴力沙汰。柚ヶ丘七丁目在住。
とりあえずこの四人だけ。
もしかしたら早退出来るかもしれない。詳しい事は後で電話する』
俺はその四人の名前を視線で焼き殺すくらいの勢いで見る。呉、山口、五條、谷川。四人ともこの辺に住んでる。
「注射器を扱えて、柚ヶ丘在住で、かつ怪しい奴ら、って事か」
コウが呟く。
「この『オペ前に服薬』ってのは何だろうな」
「その辺は姉さんに直接聞けば分かると思うよ。僕もちょっと調べてみる」
竜太郎はそう言うと携帯を持って立ち上がった。
「調べるって何をですか?」
「ネットに何かこの四人の情報が無いかだよ。すぐ分かる」
自分に出来る事が見付かったからか、竜太郎はさっきほど怯えていなかった。こういう言い方もなんだけど、張り切っているようにすら見えた。
「お願いします。僕達、涼香さんが戻るまで居ていいですか?」
「それは僕からお願いしたいよ。やっぱりまだちょっと恐いからね」
竜太郎は苦笑してリヴィングから出て行った。
一瞬の沈黙の内、コウが口を開く。
「焦るなよイツキ。あの四人の内の誰かが犯人だとは限らない」
俺は無言で頷いた。
「こっちの中央病院にも不審な奴は居るだろうし、市外の病院に勤めてる人間も居るはずだ。もしかしたら医療系の学生かもしれない。早まらない事だな」
それはコウが、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
三十分もしない内に竜太郎が降りてきた。
「とりあえずネット上の口コミを見てみたよ。内科医の呉は患者の間ではちょっと恐い印象があるみたいだね。外科医の五條は相当の腕利きで、わざわざ彼に診て貰いに遠くから来る患者も居るらしい。看護師の山口は情報が無かった。同じく看護師の谷川は、四年前に恋人に暴力を振るった関係で謹慎処分を受けてるけど、今は改心したみたいに真面目らしい」
「そんな事が分かるんですね」
俺が少し驚きながら言うと、竜太郎は照れ笑いを浮かべた。
「竜太郎さんが調べた限り、一番危険そうなのは誰ですか?」
コウが尋ねると、竜太郎は少し首を傾げて唸った。
「内科医の呉、かなぁ。酒癖女癖ってのはまあ普通としても、口コミ情報ではかなり患者に威圧感を与える存在みたいだし。医者としては問題無いみたいだけどね。やっぱり姉さんから詳しい話を聞かないと……」
その時、ガレージの方から車の音がして、涼香さんが帰宅した事が知れる。
「ホントに早退してきたんだ」
竜太郎が心底驚いた様子で呟く。ほどなくして涼香さんが姿を見せた。スキニーのジーンズに白いシャツという格好で、長い髪は後ろで縛っていた。やっぱり化粧はしていなかったが、それでもその美しさは変わらない。
「何でシャッター降ろしてるの?」
挨拶もなく涼香さんが言う。
「……情報が漏れて、竜太郎さんを犯人視する奴らが居るんです」
コウがゆっくりと言うと、涼香さんはふわりと笑った。
「人間なんてそんなものよね」
それは滅亡直前の人類を見放した宇宙人みたいな口調だった。
「僕の……僕の所為でごめん……。姉さんも、外出の時はくれぐれも気を付けて」
「貴方は何もしてないじゃないの。謝る必要なんか無いわ。で、さっきのメールは見た?」
涼香さんが俺らを一瞥してから言った。俺はその態度に少し驚く。
この人は本当に他人にどう思われようが構わないのだろうか? 弟はニュータウン中を敵に回したと怯えているのに。
「拝見しましたが、あの断片的な情報じゃ何とも……。竜太郎さんがネットでも調べてくれたんですが、やはり涼香さんに詳しく伺いたいです」
コウが言うと、涼香さんはソファに腰掛け、軽く息を吐いてから言った。
「さっき送った情報はカルテ庫っていう所の子から聞いたの。病院中のカルテを管理する部署で、その分情報も入ってくる。呉先生は気難しい人らしいわ。私自身はあまり関わらないけど、周りに恐がられてるっていうのは知ってる。一度、新米の看護師を物凄い勢いで怒鳴りつけて、結果その子が辞めちゃったって事もあったの。以来他の看護師も恐がってるわね」
「キレやすいって事ですかね」
俺が言うと、涼香さんは頷いた。
「看護師の山口さんは、気に入らない子にはとことん嫌がらせをするみたい。無理難題を押し付けたり、不条理に叱りつけたり。ターゲットのロッカーにゴキブリの死骸をたくさん入れてたっていう噂もあるわ。全く、中学生レベルよね。それでいて外面は良いから、患者には慕われてる」
「ゴキブリの死骸、ですか」
コウが顔をしかめる。
「あくまで噂だからはっきりした事は分からないけど、同じ科の看護師の間ではかなり厄介な存在みたい」
「外科医の五條って奴はどうなんですか? オペ前に云々っていうのがよく分からなかったんですが」
俺が尋ねると涼香さんがちらりとこっちに視線を遣った。ドキリとする。
「五條先生は明朗な優しい先生って感じで、暴力性とは無縁な人なんだけど、ちょっと気になる事があったからリストに入れたの。五條先生がオペ前にゴミ箱に何かを捨てるのを見た人が居て、何となく中を見たら、ヒートがごっそり捨てられてたって」
「ヒート?」
俺とコウが同時に聞く。涼香さんは俺ら二人を見ながら続けた。
「錠剤が入ってるシートがあるでしょ、あれはヒートとも呼ばれてるの。五條先生が捨ててたのは大量の向精神薬で、メジャーマイナー問わず、とにかくたくさんのトランキライザーだったらしいのよ」
「トランキライザーって精神安定剤の事だよね? その五條って人はそっち系の病気を抱えてるの?」
よく響く低音で竜太郎が尋ねる。
「それは分からないわね。実際に病気なら本人も精神科受診なり休職なりすると思うけど、少なくともウチの精神科にはかかってないわ。私は精神科の事には詳しくないけど、それを見た子曰く、普通の量じゃなかったって。そんなに多くの向精神薬を処方する医師が居るかも分からないくらいに」
「って事は……」
コウが顎を撫でながら考え込む。俺も足りない頭を使って考えてみる。
「五條は違法に薬を手に入れて服薬してる、と?」
「その可能性が無いとは言い切れないわね。さっきも言ったけど五條先生は常に穏やかで、他の看護師や患者にも慕われてる。でももしそれが薬を飲んだ上でのポーズだっていうなら、ちょっと怪しいわよね」
「成る程」
「それから、看護師の谷川さんは体格が良い人で、今は真面目だけど、やっぱり過去の暴力事件で未だに周囲からは敬遠されてるらしいわ。その時の恋人と一緒に住んでるって話だけど、今でも隠れて暴力を振るってるなんて噂もある。彼もキレやすいタイプね。今の私に分かるのはそれくらいかしら」
涼香さんはそう言うと立ち上がってキッチンへ行った。
「あの、涼香さん。この四人の住所は分かりますか?」
コウが尋ねると、コーヒーを煎れていた涼香さんが薄く笑う。
「そう言われると思って、こっそり調べてきたわ」
コーヒーを手に戻ってくると、涼香さんはバッグから紙切れを取り出した。
「私、字が汚いけどごめんなさいね」
コウが紙切れを受け取ると、妙な顔をする。俺が横から覗くと、確かに乱筆だった。まあ番地さえ分かれば問題無い。っていうかこんなにきれいな人の字が汚いって、なんかちょっと良くないか。
「参考までに言っておくと、呉先生は今日お休みだから家に居るはずよ。他の三人は分からないけど」
例によってなんて事ない顔で、涼香さんが言う。俺とコウは頷いた。
「じゃあ僕達はちょっとこの四人の事を調べてみます。竜太郎さん、もしまたネットで情報を得られたら連絡下さい」
「分かった。気を付けて」
俺らは二人に挨拶し、花村家を後にした。
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