素直じゃないけど憎めない女 - 第116話

 早月駅で山野と別れて、なんとなく重い足を引きずって家へと帰る。


 山野と雪村さんにあんな複雑な想いがあったなんて、知らなかったな。しかも、ほんの軽い好奇心で聞いたりして、山野になんて謝ればいいのか、わからない。


 いや今さら謝られたって、あいつは困るだけだよな。


 絵の勉強をしに海外へ留学するから恋人と別れるなんて、すごいよな。自分の将来をそこまで真剣に考えているなんて、考え方が並外れていると思う。


 天才と凡人は考え方から違うのか。しかし、恋人の秘めた想いまで振り切って、将来の夢というのは叶えないといけないものなのか。


 わからねえ。山野にしても、雪村さんにしても、考え方が大人すぎて俺には全然理解できねえよ。


 好きな人とはずっといっしょにいたいって思うのは、いけないことなのか? 好意や想いを優先するのは子どもや凡人の発想なのだろうか。


「うわっ、やべえ!」


 もやもやと考えごとをしている間に電車が最寄り駅に到着していた。俺はあわてて気づいて、閉まりかけていた電車の扉を抜け出した。


 人の少ない駅のホームを出て、自動改札機に定期券のICカードを押し当てる。改札機はICカードのデータを瞬時に照合して、改札口を無感情に開けた。


 俺の考えはともかく、山野と雪村さんがふたりで決めたことなんだから、これでいいんだよな。ふたりの問題に、部外者が勝手な思いで口を挟んじゃいけないはずだ。


 駅前のコンビニの前を通りかかったので、その入り口をちらっと見てみた。そこに人の姿はない。


 上月のやつ、今日はコンビニに寄らずにまっすぐ家に帰ったんだな。


「そりゃ、そうか。いくらあいつでも、毎日コンビニに寄ったりしないよな」


 あいつはいつも金がないって騒いでいる金欠女だ。毎日帰りにコンビニに寄るほどの財力なんてもっていないか。


 あいつがいなかったことに安堵して、俺もまっすぐ家に向かう。今日は上月から何も連絡を受けていないから、コンビニで夕飯用の弁当を買わないといけないが、今は腹が減らないから買う気が起きないな。


 手間がかかるけど、腹が減ってきたときに別のコンビニに行って買い物をしよう。


 人気ひとけのないマンションのエントランスに入って、防犯性のしっかりしていそうなガラスの自動ドアを開ける。


 乗り慣れたエレベーターに乗って、自分の部屋のある七階へと向かう。


 うちのマンションは住人と遭遇することがほとんどないから、別の部屋に人が本当に住んでいるのか、たびたび疑問に思うんだよな。実はうちと上月の部屋以外すべて空き部屋だったりして。


 そんな心底どうでもいいことに思考を巡らせている間に、エレベーターが七階へと到着した。ひっそりとした内廊下を抜けて、うちの部屋に到着した。


「鍵、鍵っと」


 鞄の底に落ちていた鍵を取り出して、扉についた鍵穴へと差し込む。鍵を右にひねると開錠されるはずだが、鍵を開けた手ごたえをまるで感じない。


「あれ、鍵はちゃんと閉めたはずだけど」


 鍵が開いていれば、当然ながら挿した鍵を右にひねっても何も起きない。ひねった鍵がすかすかと鍵穴の中でまわるだけだ。


 げっ。まさか朝に鍵を閉め忘れちまったのか!? 空き巣に侵入されたらまずいことになるぞっ。


 うちに金目のものなんてないけど、ベッドの下にしまったエロ本とか、夏休みに通販で買ったエロゲーとかが部屋にあるんだぞ。それを空き巣に見られちまったら、いろいろと恥ずかしいじゃないか!


 俺は扉を乱雑に開けて家に飛び込んだ。


「くっ、やべえぞ。警察に早く電話しねえと――」


 玄関で靴を脱ぎ捨てて、静かな廊下を急いで駆け抜ける。ポケットからスマートフォンを取り出して、一一○番を押しながらリビングに入ると、


「あら、遅かったわね」


 上月がリビングのテレビをつけて、俺のテレビゲームをやっていやがった。


 家の鍵を勝手に開けやがったのは、お前だったのかよ。俺は脱力してリビングの端でへたり込んでしまった。


 それを上月が呆れ顔でじろじろと見てくる。


「なに脱力してんのよ。エロ洞爺湖の分際で」

「……なんでお前が家にいるんだよ。空き巣に入られたと思ったじゃねえかよ」

「えっ、前に言わなかったっけ? あんたんちの合鍵はお母さんが持ってるから――」

「そうじゃなくて! なんでお前が俺の許可もなしに勝手に家にあがり込んでるんだって聞いてるんだよっ。しかもしっかりと着替えてきやがって、さらに俺のゲームにまで手をつけるな!」


 俺が津波のようにどばっと捲くし立てると、上月はゲームのコントローラーを放って両手で耳をふさいだ。


「あーあー、いちいちうるさいわね。この小姑が」

「こ、小じゅ――」

「いいじゃない別に。あんたんちのものなんて、何も盗ってないんだから。ゲーム機くらいでがたがた文句言わないでよ」


 こいつはどうやら勝手に家にあがり込んだことを屁とも思っていないらしい。こんな女だから俺はいつも苦労させられるんだ。


 俺は肩を落としたまま床の鞄を拾った。それをソファへと放り投げる。


「あのなあ。俺はマジでやばいと思ったんだぞ。危うく一一○番にまで電話しちまうところだったんだからな」


 俺は呆れて怒る気力もなくなってしまったので、一一○番を入力したスマートフォンの画面を上月に見せつけてやった。


 すると上月は口をへの字に曲げて、ぷいっとそっぽ向いた。俺の説教なんて聞く耳もたないわよと言わんばかりの不機嫌さで、俺の言葉をいつものようにスルーしようとしたが、


「わ、悪かったわよ。勝手にあがったことも、その、エロメガネのことも。い、言いづらかったから、うちで待っていようと、思ってただけじゃない」


 ばつの悪そうな顔で自分の気持ちを吐露した。


「べ、別にっ、悪いことをしたわけじゃないんだから、そんなに怒らなくても、いいじゃない」


 お前は山野のことで俺に謝ろうと思って、わざわざうちにやってきたのか。そんなもの、メールで簡素に済ませちまえばいいのに。


 そういう律儀さが、こいつをいまいち嫌いになれない理由につながってるんだよな。


 俺としても、いくら焦っていたとはいえ、こんな下らないことでイライラして、悪いことをしてしまった。――けれど、素直に謝ることなんてやっぱりできず、


「な、なら、そうだと、先に言えばいいじゃんか。む、無駄に、俺を不安がらせたりすんじゃねえよ」


 お互い妙な意地を張ったままだから、気まずい雰囲気になってしまった。


 兄弟や姉妹がいると、こうやって口げんかになったりするのだろうか。今度山野に聞いてみようかな。

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