朝の散歩に行ったのは? - 第87話

 弓坂と別れて寝室に戻ったときには二時を過ぎていた。


 ベッドの布団を開けて中に潜り込んだけど、枕が合わないのかな。ぐっすりと眠りにつくことはできなかった。


 結局、六時三十分くらいに目が覚めて、もう寝つけなそうだったので起きることにした。


 着替えを簡単に済ませてリビングへと向かう。


 リビングの窓を遮る空色のカーテンが、朝日を受けて明るくなっている。カーテンを透過した陽がリビングをうっすらと照らしている。


 朝早いからリビングダイニングにはだれもいないと思っていたけど、キッチンの方からかちゃかちゃと調理する音がする。だれかが朝食の準備でもしているのかな。


 キッチンでひとり朝食の下ごしらえをしていたのは、料理担当の使用人の人だった。名前はたしか、朝倉さんだったと思う。


 朝倉さんは三十歳くらいの女の人だ。長身でとてもスリムで、コックの格好をした女優みたいな感じかもしれない。


 昨日のお昼の絶品イタリア料理をつくってくれたのもこの人だ。弓坂が昨日、「お父さんの会社のっ、系列のレストランではらいてるのぅ」って言ってたけど、アーキテクトはゲーム会社なのにイタリアレストランの経営も手がけていたのか。


 朝倉さんはサニーレタスの葉をひとり黙々と千切っていたが、俺と目が合うと手をとめて会釈してくれた。


「おはようございます」

「あ、どうもっス」


 両手を腰の前で組んで、すごく丁寧な会釈だ。一流レストランのシェフとなると、会釈ひとつでレベルが違うのか。


「昨日はよく眠れましたか?」

「あ、はい。まあ」


 本当は全然眠れなかったんだけどな。


 そんな俺の本心が伝わってしまったのか、朝倉さんが口に手をあててくすりと笑った。


「先ほど、お友達の方が外へ出ていかれましたよ」

「えっ、本当ですか?」

「はい。目が覚めてしまったので、散歩に行かれたのだと思いますが」


 俺と同じように枕の合わなかったやつが他にいたのか。


 散歩に行ったのはだれだろうか。もしかして妹原だったりして。


 昨日は新幹線の車内とプールでチャンスがあったから、今日も朝からさっそくチャンスが到来しちまったのか?


 ここまで神様に祝福されているんじゃあ、俺も散歩しに行かないわけにはいかないよな。


 喉が少し渇いているので、外に出る前に朝倉さんに頼んで、麦茶を一杯いただくことにした。それをくいっと一口で飲み干して、よし、行くぞっ。


 玄関の扉を開けると眩しい日差しが俺の目もとを照りつける。今日もよく晴れてるみたいだ。


 いや、今日の天気について呑気にコメントしている場合ではない。妹原はどこにいるんだ?


 玄関から一面に広がる庭を見渡すけど、そこに妹原の姿はない。そもそもだれもいないが。


 準備運動を終えてさっさと歩道に出てしまったのだろうか。小走りで数メートル先の歩道に出ると、


「あっ」


 つたの茂った石門の前にいた上月が、俺を見て声をあげた。


 今日の上月は、小さい花がたくさんプリントされたキュロットスカートに白のTシャツという、かなりあっさりした服装だった。寝起きだったから、あり合わせの上下なのだろう。


 顔のメイクもファンデーションを薄くつけているくらいで、丈の短いスカートから白いももが惜しげもなく露出されている。


 それはともかく、外に出ていたのは妹原じゃなかったのか。


「なんで、あんたがいるのよ」


 上月は頬を少し赤くして、微妙に怒った顔で俺を見てくる。


「知らねえよ。っていうか、その質問をそのまま返す」

「あたしは、ちょっと早くに目が覚めちゃったから、その辺をぶらぶらしようと思っただけよ。あんたは?」

「俺も似たようなもんだ」


 こいつにいちいち説明するのは面倒だ。不機嫌そうに返してやると、上月は「ふん」とそっぽ向いた。


 門の前でじっとしていても仕方がないので、前に伸びる歩道を歩く。上月も一歩遅れてついてきた。


 別荘のまわりは針葉樹林と細い歩道だけで、他に建物らしきものが見当たらない。歩道もコンクリートで舗装されていないから、水分を含んだ土が足の裏に付着してくる。


 等間隔で植えられた樹林が日差しを遮っているから、道は少し薄暗い。冷たい風が木々の間から流れてきて、とても気持ちがいいな。


 夏と言ったら海やプールばかりを連想するけど、林や森の中で過ごすのもおしゃれでいいかもしれない。


 道をまっすぐ歩いていると、左右に道の分かれるT字路に差し掛かった。その突き当たりを左に曲がり、道なりにずんずん歩いていく。


 とくに行く宛てはないので、十分くらい歩いたら別荘に戻ろう。


 左に大きくカーブした道を曲がり、右手にあらわれた他人の別荘を意味もなく眺めていると、


「雫とは、うまくいったの?」


 左斜め後ろにいる上月がそう尋ねてきた。


「うまくいったって、何がだよ」

「とぼけるんじゃないわよ。昨日、プールで話してたじゃない」


 昨日のプールで妹原と話していたことを言っているのか。


「ん、まあ、うまくいったというか、普通に会話しただけだけどな」

「ふうん。どんなことを話してたのよ」


 会話の内容までお前に打ち明けないといけないのかよ。別にいいけど。


「なんだったかな。たしか、俺のひとり暮らしの話をしてたんじゃないか? 弓坂が妹原にしゃべっちまったみたいだからな」


 それ以外にも、俺と上月がこの前にマジ喧嘩した件を話したんだが、それをしゃべるときっと文句を言ってくるからやめておこう。


「ひとり暮らしの話?」

「ああ。俺がひとり暮らしをしているのが珍しかったみたいだから、そのことでいろいろ聞かれたぞ。ひとり暮らしに興味あるのかもな」

「ふうん」


 上月は偉そうに腕組みして、不審者を尋問する警察官みたいに俺を見てくる。嘘はついてないぞ。


「あたしのことは、何も言ってないでしょうね」

「言ってねえよ。ていうか、言えるわけねえだろ。あいつには」


 こいつが定期的に俺の家に来てるなんて言っちまったら、妹原の誤解に拍車をかけることになってしまう。それだけは秘密にしなければ。


 上月は視線をはずすと、頭の後ろで手を組んで歩きはじめた。


「ま、あんたの恋がどうなろうと、あたしには関係ないけど、変なことを学校中にばらすのはやめてよね。マジで迷惑になるから」


 けっ。わかりきっていることをいちいち言いやがって。朝からほんと、可愛くねえやつだ。


 別荘のまわりの小道をなんとなく一周して、程なくして別荘へと戻った。


 そのまま玄関に戻ろうと思っていたけど、庭の隅っこに大きめの小屋が建っているのが目についた。


 大きさで言えば、四畳程度のプレハブくらいはあるのだろうか。納屋みたいな感じだけど、つくりは別荘と同じく木製だ。


 そういえば、古き良き日本家屋を紹介するテレビ番組が前に放送されていたけど、離れの客室もこんな感じだったかもしれない。


「そういえば、あの小屋って何なんだろうね」


 上月もどうやら同じことを気にしていたみたいだ。


「物置か何かなのかな?」

「さあ、どうだろうな。物置にしちゃあ大きすぎる気がするけど」

「じゃあ、離れ的な感じ?」

「かもな」


 正面に扉がついているが、つかわれている感じじゃないな。左右の窓にも白いカーテンがかかっているし。


「朝ごはんのときに未玖に聞いてみよっか?」

「そうだな」


 ここで上月と考えていても答えなんて出るわけがないな。


 無人の小屋をしばらくながめて、俺と上月は別荘の玄関に戻った。

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