第3話 人を傷つけることに怯えている、子どもに見える

 始めるか。


 その言葉の先を語る必要はない。言葉はもう、必要ない。どんな言葉も、意味をなさない。だからこそ、アンヴィを構えたクラウスに応じて、リディアは『統制者』を抜いた。そのはずだった。


「……どうした、早くしろ」


 一見、無造作だが、隙のない気配でアンヴィを握ったクラウスが、何かを察したように口にする。リディアもまた、だらりと下げた手に握った『統制者』に意識を集めてはいたが、その集中は、死線を目の前にしたものとは程遠かった。クラウスは達人の域にある武人だ。おそらく、その散漫な集中の気配を感じ取り、その奥にあるリディアの心情を読み取ったのだろう。


「……頼みがある」


 風雨にかき消されそうな声が、自分の喉を通って口から出たことに、リディア自身が驚いた。なんだ、おれは何を言おうとしている。混乱がリディアを支配した。


「その剣を、置いてもらえないか」


 必要であれば、斬る。


 それがリディア・クレイの生き様。


 自らをそう規定し、覚悟を固めているはずの自分から、そんな言葉が出てくるとは、リディア自身が思っていなかった。この言葉は誰の言葉なのか。もちろん、全ての魔剣を制する事を存在理由にする『統制者』のものではない。では、リディア・クレイの言葉なのか、それとも生まれたままの自分、アルバと呼ばれていた頃の自分の感情が音になったのだろうか。


 百魔剣の導き手と成り果てたクラウスを斃し、百魔剣を制する。そうすることで、自分の望みであり、そして『統制者』の目的でもある戦いの歩みを、また一歩進めることが出来る。その為に、ここにいるのではなかったのか。


 最善は尽くす。


 フィッフスにそう言った自分の言葉を思い出す。その最善が、この言葉なのだろうか。


 風が止み、雷鳴も途絶えた。ほんの一瞬だったが、生まれたその静寂を切り裂いたのは、クラウスの高笑いだった。


「貴様、本当に『死神』か?」


 嘲笑を向けてくるクラウス。その笑いは禍々しく、下卑た印象が強くなる。アンヴィを手にする前のクラウスでは、絶対に現れない表情だ。


「おれとお前がここへ来た理由は、言葉にせずともわかるだろう」

「それでも」


 叫んでいた。応じたリディアは、叫んでいた。なんだ。何を望んでいる。どうしたいと考えている。リディアは内心で自問自答を繰り返す。


「それでも、あえて頼む」


 土下座こそしなかったが、言葉には額を付く程の重みがあった。可能ならば、クラウスとの戦いは避けたい。傷つけずに、元の状態に戻したい。そう考えている自分の想いが、いまは強い。これでアンヴィを手放してくれれば。そう考えてすらいる。それが無駄なことだとわかっているのに。


 クラウスの高笑いが消えた。


「貴様、本当に『死神』なのか?」


 全く同じ、しかし、より語調の低く、暗く、強い声は、雨風の音にも、雷鳴にも消されない、地を這うような重い響きとなって、リディアの臓腑を揺らした。


「おれにはむしろ」


 無造作に下げられただけだったアンヴィが持ち上がり、弓を引くような姿勢に、クラウスは構えを変えた。


「人を傷つけることに怯えている、子どもに見える」


 にやり、と口の端を歪めた。それと同時に、右足が少し後ろへ退かれたのを、リディアは見逃さなかった。


 来る。


 大きく波打つ心の内は、この嵐の中の海のように白波を立てていたが、その瞬間、本能が反応した。『統制者』が自然と持ち上がる。


「それでいい!」


 クラウスが叫んだのと、二人の剣が切り結んだのは、ほぼ同時だった。常人の理解を超えた速さで打ち込んできたクラウスの一撃を、リディアは辛うじて躱す。返す刃で反撃の一閃を繰り出すが、クラウスはそれに応じず、大きく一歩退くと、今度は左に向かって石畳を蹴った。


 これに対して、リディアも右に向かって走る。クラウスと対峙したまま、平行移動で石畳の大通りを横切ると、そのまま迷路のような路地へ飛び込んだ。クラウスも別の路地へ飛び込んでいくのが見えた。


 密集した二階建ての廃屋の群れが、クラウスとの間を遮る。しかし、これだけ巨大な遮蔽物があっても、気を抜くことは出来なかった。全身が粟立つような憎悪と殺意が、白い壁の向こうからでも伝わってくる。そして、それが実際、破壊の力を伴って伸びてくる事もあるはずだった。破壊の力を持つ魔法の剣との戦いに、剣戟における常識的な間合いの概念は通用しない。


 と、その負の感情の塊が、上へと向かって飛び上がる気配があった。


 リディアもほぼ同時に地面を蹴り、周囲の家屋の白壁を蹴って、跳躍した。


 家屋の屋根を飛び越え、空中でクラウスと再び切り結ぶ。


「シャアアア!」


 ローグと同じ奇声を上げて、クラウスがアンヴィを振るう。全く同じ軌跡を描いて、リディアは『統制者』を撃ち出した。


 交錯は、一瞬。


 空中を飛び、そのまま屋根の上に降りたリディアの左肩から、血が噴き出した。


「どういうことだ……!」


 同じように、建物の屋根の上に降りた音を響かせながら、クラウスが放った怒声が聞こえた。


 おそらく、クラウスは無傷だ。いまの交錯に、彼の身体に『統制者』の切っ先だけでも届いた手ごたえはなかった。。無傷である事実に苛立ち、不満に打ち震える声は、強烈な怒りを孕んでいた。


 リディアは血が流れ出した左肩を気にすることもなく、ゆっくりとクラウスの方に向き直った。怒りを露わにしたクラウスも、こちらを見ていた。


「剣速だけなら、貴様の方が速いはずだぞ!」


 激しい怒りに任せて、自分の足元の屋根にアンヴィを叩きつけたのはクラウスだ。轟音と共に、怒声はさらに語気を強める。


「貴様、なぜ剣を止めた!」


 そう。リディアは『統制者』がクラウスに接触する瞬間、剣を止めたのだった。それがなければ、肩に傷を負っていたのは、クラウスの方であったはずだ。


 自分の戦いを馬鹿にされたと感じた怒り。リディアはそれを黙って聞いた。左手に剣を持ち替え、右手を血を流す左肩に添える。傷は深くはない。大丈夫だ。


「『死神』!」


 屋根を蹴って、クラウスが文字通り、飛び掛かって来る。二人の間にあった数件分の屋根を飛び越えて、上段から振り下ろされた剣を、リディアは後方へ跳躍して回避する。足場の狭い屋根の上だったが、リディアはそのまま身を翻し、再び家屋の隙間の路地へと舞い降りた。着地と同時に走り出す。


「逃げるかあ!」


 後ろ上方から、クラウスの声と、破砕音を伴う足音が迫る。屋根の上をそのまま走り、追いかけて来ているのだろう。長く放置されたマーレイ旧市街の家屋が、踏み抜かんばかりのクラウスの脚力に耐えられるはずがなく、崩壊する音を轟雷のように響かせている。


 リディアはクラウスが発する背後の音を頼りに、周囲の白い壁を蹴ると、その反動で次の壁を蹴る要領で、ただ走るよりもさらに速く、何とかクラウスと自分の間を建物が遮るように移動を繰り返した。頭上にいるクラウスの視界から逃れるのは難しいが、それでも徐々にクラウスの足音が遠のいていく。こちらを見失いかけている様子だった。


「この期に及んで、何を考えている、リディア・クレイ!」


 先程よりも距離を置いたクラウスの怒声が、雨雫の向こうからくぐもった響きとなって聞こえて来る。その通りだった。おれは何を考えている。リディア自身も、それが知りたかった。


 決めていた覚悟と相反する言葉。そして行動。好戦的になれない自分に、リディアは戸惑っていた。


 クラウス・タジティという人間の生存に、これほどまでに拘ってのはなぜだろうか。シホの為か。フィッフスの言葉のせいか。それともアンヴィを巡る戦いの中で、対立し、時に共闘もした存在だからか。


 その全てが答えであり、答えではなかった。


 では、なぜ戦わないのか。


 あらゆる可能性を、全て答えだと認めた時、リディアに一つ、自分の心を整える言葉が降りて来た。


 それは……


「逃げ回るな、おれと戦えええええ!」


 リディアは思わず声の方を向いた。が、次の瞬間には、その場から、手近な白壁を蹴って、大きく跳躍した。

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