第2話 雷光
窓を叩く雨音が、強いものに変わった。
何度目、いや、何十回目の寝返りを打ったシホは、寝台から見える窓に打ち付ける雨粒を見た。もう夜は明けているのだろうか。窓から見える空は、雨を運んできた黒雲に覆われ、陽の光は見えない。
フィッフスの店から協力者である豪商の屋敷に戻ったシホは、割り当てられた部屋へと入り、寝台に横になった。その間、付き添ってくれた神殿騎士、ルディとイオリアとは、一言も交わさなかった。二人のことは、相当の長時間、フィッフスの店の外で待たせたはずで、しかし、店から出てみれば、嫌な顔一つせず、むしろ、長く滞在したシホの身体の疲労を案ずる言葉さえかけてくれた。そんな二人に、本当であれば相応の応対をするべきだった。それはわかっていた。わかっていたのだが、シホは言葉を紡ぐことが出来なかった。
頭の中が、リディアのことでいっぱいだった。
寝台に横になっても、眠ることは出来なかった。肉体は体力の限界を告げていて、睡眠を要求していることは確かだった。それでも、シホに眠りは訪れなかった。
リディアの過去。
それを知ったことが、シホの精神すらも支配して、肉体の限界を超えて、いま、この瞬間に、考えることを求めていた。
「百魔剣と、戦う……」
シホは窓を滑り落ちる雨粒を目で追いながらつぶやいた。
リディアの過去は、百魔剣との闘争そのものだった。リディアの過去を知ったシホは、自身の中で、百魔剣と戦う、という事の意味が、確かな形を持っていなかったのだ、と知った。シホには経験がない。そして、百魔剣の実害を目の当たりにした事もない。復讐というリディアの強い目的から比べれば、先代の『聖女』の遺志を継ぐ、という目的は、抽象的すぎた。決して自発性がない、とは言わないが、それでもリディアに比べれば、脆弱な目的でありすぎた。
「似ている……わたしと……」
窓を打つ雨に、強い風が加わり、ぎしぎしと軋む音を立て始めた。その音にかき消されてしまう程小さな声で、シホはもう一度つぶやいた。
フィッフスは以前、シホにそう言った。リディアとシホは似ている、と。だからこそ、シホはリディアの存在に、どこかで縋ろうと考えていたのだと思う。それでフィッフスにリディアの過去を求めたのだ。いまの自分の答えになる何かを求めて。
確かに、似ているところはあるのかもしれない。親を知らない境遇や、百魔剣と戦わなければならなくなった身の上は。しかし、その内容は、あまりにも遠く、かけ離れたもののようにシホには思えた。
「わたしは……似てなどいない……」
シホの頬を、涙の雫が伝って落ちた。後から後から、それは流れ落ちる。わたしは、リディアさんのように強くはない。強くはなれない。いつも、誰かが傍にいてくれるから、ここまで来ることが出来た。曖昧な目的だったとしても、クラウスや、神殿騎士の面々が支えてくれているから、ここまで来ることが出来た。そのクラウスを百魔剣に取られたいま、リディアのように、たった一人で百魔剣と戦うことなど、出来はしない自分の姿を、シホは露わにされた気分だった。
何を、どうしたらいいのだろう。それを自分で決めなければならないのに、何一つ決めることが出来ない。自らの選択で何もかも決めることの出来る状況は、ほんの数日前、リディアの手を引いて、マーレイの街中を駆け抜けた時の、自分の手の届く範囲で選択し、感情を爆発させて、生を強く感じていた、あの感覚と同じなのに、何一つ、決める事が出来ない。クラウスが、リディアが、誰かが傍にいて、話を聞いてくれなければ、自分には、本当は何一つ、選ぶことが出来ない。
わたしは、リディアさんのように強くはなれない。
シホはかみ殺した涙声の奥で、何度もそう叫びそうになった。いや、胸の内では叫んでいた。音にならない叫び声は、誰にも、シホ自身にも、聞こえては来なかった。代わりのように耳に届いたのは、雷の音だ。窓を打つ雨風は激しさを増し、遠くどこからか聞こえていた雷音が、いまはごく近くで聞こえるようになっていた。時折、稲妻が見せる一瞬の閃光が窓から差し込み、部屋の中を白く、明るく染め上げた。
何度目かの雷鳴が轟いた。
涙目で、窓の向こうにその稲光を見たシホは、次の瞬間、不思議な光景を見た。
降りしきる雨。
その中に佇む、二人の男。
一人は真っ赤な、血のような色をした剣を持った男。長い黒髪が風に逆巻き、幽鬼のように白い顔が一瞬、垣間見えた。
もう一人は、天空神教神殿騎士団の軽鎧に身を包んだ、がっちりとした体形の長身男性。しかし、その表情はシホの知る男性のものとは違い、ひどく下卑た印象を見るものに与える。
二人は、何か話をしている様子だった。が、次の瞬間、その場から姿を消した。いや、あまりに速い速度で、移動を始めたのだ。目にも映らない程の速さでありながら、なぜかシホにはそれがわかった。
「なに……?」
シホは思わず跳ね起きていた。
何が見えたのか、すぐには理解できなかった。そもそもそんな光景が、この部屋はおろか、寝台から降りてもいない自分に、見えるはずはなく、しかし、シホの感覚は、目で見たように鮮明に記憶しているのだ。見えた、この目で見た、としか説明のつかない現象と感覚が、シホの身に起こっていた。
胸に、どんよりとした、嫌な感覚だけが残った。
シホは寝台を降りた。白を基調にした天空神教の法衣を羽織り直すと、身支度もせず、すぐさま部屋を飛び出した。
二階にあるシホの部屋から屋敷の玄関まで、誰一人として会うことはなかった。やはり早朝なのだろう。誰かが立ち働く姿はなかった。玄関に警備の為か、神殿騎士ルディが立っていたが、シホは彼が制止の声を上げる前に、その前を駆け抜けた。背後に彼の声を聞きつつ、シホは躊躇う事無く、豪雨の中へ飛び出した。
何をしようとしているのか、自分でもよく理解していなかった。しかし、あの光景が何を示していて、彼ら二人がどこにいて、これから何が始まるのかまで、シホにはわかっていた。なぜわかったのか、といえば、わかったから、としか答えようがない、不可思議な感覚と理解が、シホの中で続いていた。
シホは雨の中を、とにかく走った。彼らがいる場所へ。その場所へ、ほんの刹那でも早く、辿り着かなければならない。その思いだけが、シホを走らせた。
「どこへ行くんだい」
わずか数歩前さえも、白い膜が貼られたように見えない突然の豪雨の中で、シホはふいに呼び止められた。
声の主は唐突に、シホの正面に立っていた。
「二人のところへ! あの二人を止めなきゃ!」
ずぶ濡れの服や髪を気にする様子もなく、そして、シホが叫んだ言葉も気にする様子はなく、恰幅のいい身体を前面に押し出すような歩き方で、威圧的にシホに近づいた声の主の表情は、何一つ読み取れない、無そのものだった。太い三つ編みの髪から、雨水が滴って落ちる。
「……止められるのかい、あんたに」
両の手を肩に置かれた。触れている掌の温かさが、シホの両肩から全身に広がっていく。フィッフスらしい温かさだ、とそんな言葉が一瞬、シホの脳裏を掠めたが、正面に立つフィッフスの表情には、その温かさはなかった。
相手は百魔剣。それも位階『領主』の、超常の能力を持つとされる魔剣。
対するは、その超常の魔剣たちを全て抑え込む為に生を受けた伝説の魔剣『統制者』
そんなものの戦いを、自分に備わっている力もまともに扱うことのできない、未熟な自分に、止めることなど出来はしない。
「あんたに止められるのかい!」
「出来ません!」
シホはきっぱりと言い放った。その返答を予想していなかったのか、フィッフスは驚いたように目を丸くして、一歩後ろへ下がった。
「百魔剣を止める事なんて、わたし一人では出来ません。でも、でも行かなきゃ!」
フィッフスの昔語り、リディアの過去を通して、シホには、わかった事がひとつだけあった。それが、最前まではシホを苛んでいたが、いま、大きな声でそれを認めてみると、それは単なる理解に変わった。
自分は、誰かがいたから、ここまで来ることが出来たのだ、という事。
そして、自分はいつも一人ではなかった、という事。
誰かが見ていてくれたから、百魔剣と戦う決意が出来た。誰かがいてくれたから、百魔剣を全て封じる使命を、自ら背負う事が出来た。誰かが共に戦ってくれたから、百魔剣を追いかけて、ここまで来たのだ。
わたしは一人で戦っている、などという、そんな傲慢な考えは、シホにはもちろんなかった。それでも、これほど強く、誰かの存在を感じたのは初めてだろう。その『誰か』に当てはまる二人が、いま、剣を交えなければならなくなっている。それを知って、ただ待つことなど、シホには出来なかった。
「神殿騎士長が喰われた原因は、あんたなんだよ!」
言った瞬間に、フィッフスが顔をしかめた。そんなことを言うつもりはなかった。つい言葉にしてしまった。その表情は、そんな風にシホには読み取れた。
なんとなくだが、わかっていた事だった。
どんな原因で、クラウスが百魔剣に『喰われた』のか、どんな欲望が増幅されたのか、なんとなくだがわかっていた。だが、それを納得しないように、どこかでしていたのかもしれない。
例えば、シホがクラウスのその感情を納得できたとしても、どう応えたらいいのか、きっとわからない。
クラウスはクラウスだ。それでは、だめなのだろうか。
「原因がわたしだから! だから行かなきゃだめなんです!」
周囲の雨風に消されぬよう、そして、両肩に手を置いたフィッフスに、自分の想いが届くよう、シホは精一杯の声を上げた。
フィッフスは何も言わなかった。掌の温もりが、肩から全身に広がっていく。長い沈黙の中、雷鳴が何度も轟き、その度、フィッフスの顔に影が差した。
やがて、フィッフスの手が、徐に離れた。
「行きなさい」
フィッフスは、駄々をこねる子どもに、仕方ない、とでも言うように、小さく左右に首を振りながら言った。その顔に、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「但し」
不意に、その笑みが消え、それまで見たことのない、真剣な眼差しがシホを見た。
「必ず、必ず、生きて帰りなさい」
シホは、その眼差しが、自分に誰の姿を重ねて見ているのかを悟った。
深く、大きく頷くと、シホは駆け出した。
稲光が、街の上空で、瞬いた。
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