第3話 わたしは、似ていない

 そしていま、シホはここにいる。


 魔女フィッフスの店。その奥にある一室。


 先日通された、魔法によって何処かへと繋がれた部屋とは異なる、実際にフィッフスが生活をしているという部屋だった。生活、とはいうものの、実際にこの部屋には一人用の寝台が一つと、椅子と机一組ずつがあるだけで、お世辞にも生活感があるとは言えない部屋だった。先日、リディアとフィッフスが、フィッフスは旧王国時代の遺跡を探索している時間が長いようなことを話していたことを思い出す。この住居兼店に戻って来ている時間は、ごく短い間なのかもしれない。


 その寝台に、リディアが眠っている。


 異形異様に変化した右半身は、三日前のあの日、ギャプロン邸からクラウスが魔剣アンヴィを携えて逃亡した直後、文字通り、弾けるようにして硬化した棘のような紅い破片が砕け散り、元の『紅い死神』リディアの姿に戻った。


 だが、リディアはその直後、意識を失った。


 その場に崩れ落ちたリディアをシホが抱き上げ、しかし、そのどうしようもなさに途方に暮れた時、あの湾曲したくぼみの淵に姿を現したのは、魔女、フィッフス・イフスだった。


 フィッフスはこういう事態が起こることを予想していたと話した。魔剣がこの街にあって、リディアがこの街にいるということは、そういうことだ、と。


 この子のことはわたしに任せて。この子はわたしの店で休ませるから。


 そう言ったフィッフスの提案を受け入れる形で、シホは神殿騎士の二人に手伝わせ、リディアを彼女の店まで運ばせたのだった。


 それから三日、リディアは眠り続けている。


 そして、クラウスは帰らなかった。


「リディアさん……」


 こんな時、相談に乗ってくれるのは、いつもクラウスだった。どうすればいいのか。どちらを選べばいいのか。ラトーナの神託によって突然、世界最大の信者を持つ教会組織の高司祭に祀り上げられた寒村の少女を支え続けてくれたのは、いつもクラウスだった。


 だが、そのクラウスはいない。


「なぜ……」


 シホは立ち上がり、リディアの手に、そっと自分の手を重ねてみた。その手は温かく、生命の温もりを感じた。そうでもして確かめなければ、死んでしまっているかのようにリディアは身動き一つしない。


 いまここで、リディアに死なれたら。


 もし、もう二度と目覚めないとしたら。


 百魔剣に『喰われた』クラウスがもう二度と、自分の下に帰ってきてくれないとしたら。


 シホにはそれが怖かった。突然、何一つ寄る辺のない身になった気がした。


 冷静に思えば、自分は天空神教の高司祭であることは変わっていないし、クラウスの部下である神殿騎士たちもいる。これからの百魔剣との戦いにも、彼らは自らの命を賭して、協力してくれることと信じている。


 だが、そういうことではないのだ。クラウスは。そしてリディアは。自分がクラウスを失ったとしたら。リディアを失ったとしたら。そのどちらも、想像することすら激痛を伴うような苦痛なのだ。


「なぜ……こんなことに……」


 百魔剣を封じる。


 それがシホが『聖女』となった時の、彼女に託された責務だった。自分を取り上げ、育ててくれた前最高司祭の遺志でもあった。だからシホは、そのために必死になって自ら学んだ。クラウスはそんなシホを支え続けてくれた。


 だが、自分が『聖女』と呼ばれるようになってから、初めての魔剣封印の戦いの結果が、これだった。


 支えてくれた人を失い、助けてくれた人を失うかもしれない。


 自分には『聖女』としての力はない。


 先代の『聖女』ラトーナ・ミゲルのようには、出来はしないのだ。


 絶望がシホに迫り、あの日、リディアを睨み見たクラウスの顔が、脳裏で立ち上がった。同じ顔で自分を見るクラウスの目が恐ろしかった。


 と、その時だ。


「高司祭さま、入るよ!」


 ほとんど声をかける意味などないような速さで、入口の扉は開けられた。蹴破られたかと錯覚するくらい、すごい勢いで開いた。


 そこに立っていたのは、五十歳くらいの、恰幅のいい女性だった。白髪の多い豊富な髪を太い三つ編みにしている。


「フィッフスさん……」


 この店の主、フィッフスは、驚きを隠せないでいるシホに、健康そのものの並びのいい歯をむき出しにして笑うと、シホがつい先ほどまで座っていた椅子を引いてそこに腰かけた。


「まったく、いつまで寝ているつもりかねえ?」


 フィッフスが呆れたような、諦めたような声音で言った。過度の疲労で眠りについている相手を労わるような口調ではなく、まして生死の淵にいる人間に対する調子でもなかった。


「あの……リディアさんは……」

「大丈夫。ひどく疲れてはいるようだけど、死にはしないさ。いや、死ねないのさ、この子はね」

「死ねない、って……」


 フィッフスは何も言わなかった。シホからリディアに顔を向けたフィッフスの目は、母親のような優しさで彼を見ていたが、その目に微かな悲しみが宿っているのを、シホは見逃さなかった。そういう人の感情が目に見えてしまうのは、もしかしたらわたしの得意なのかもしれないと、シホは初めて気づいた。


「あの、フィッフスさん、教えてください」

「……何をだい?」


 フィッフスは、シホの方を向こうとはしなかった。ただ、やはり憂いを含んだ横顔で、リディアの寝顔を見ている。


 シホの頭の中を、様々な言葉が行き過ぎていく。リディアが口にした、様々な言葉。理由のわからない言葉。


「リディアさんの過去を。彼は、わたしを支えてくれた人と戦いながら言ったんです。お前までこちらに来ることはないって。こちら、って何なんでしょうか。リディアさんは明らかに魔剣を憎んでいました。なぜ傭兵であるリディアさんが、あれほど魔剣を憎むのでしょう。それになぜ、なぜリディアさんはこれまで一人で魔剣と戦ってきたんでしょう。なぜ……」


 言葉は淡々としていたが、思いつく言葉が尽きることはなかった。自分と同じように、百魔剣という超常の力と戦い続けて来たというリディア。その彼は、そもそもなぜ、戦い続けなければならなかったのか。そうやって戦い続けてこられたのか。いまの自分と同じように、リディアにも絶望が押し寄せたことがあるのではないか。だとしたら彼はなぜ、そうまでしても魔剣と戦う道を選んだのか。


 ギャプロン邸に赴く前、フィッフスはシホに、あなたはリディアに似ている、と言った。その言葉も、シホは思い出した。そうすると、胸の中から何かが這い上がってきて、喉のあたりを狭くしたように感じた。鼻の奥がつんとして、気が付くと目からは涙が溢れていた。


 似ていない。


 わたしは、似ていない。


 たった一人で戦い続けて来たというリディアと、自分が、似ているはずもない。クラウスを魔剣に取られ、右往左往するばかりの自分が、こんなに強い人と、似ているはずがない。こんなに弱い自分と……


「高司祭さん……あんた、自分のことを強いと思うかい?」

「えっ」

「あんたの持ってる強い力……自分はその力に見合うほど、強い人間だと思うかい?」


 質問に質問で返す、あまりに唐突なフィッフスの物言いに、シホは首を横に振るのが精一杯だった。まるで心を透かして見られたかのような質問で、何一つ言葉が浮かばなかった。


 フィッフスが向き直り、シホの目を真正面からじっと見つめてくる。その瞳にはやはり、理由はわからないが、深い、暗い、言い知ることのできない悲しみが宿っていた。


「リディアも同じさね……あんたと同じ。強大な力なんて欲しくなかったのさ。ただ、誰かを守ることのできるだけの力が……そう、リディアを守るだけの力が欲しいと思っただけ。ただ、それだけだったのさ」


 シホはやはり言葉を継げず、わずかな間をおいて、首を傾げた。リディアを守るために、リディアが力を欲しがる。フィッフスはいま、そのように言ったのだろうか。シホにはその言葉の意味が、半分も理解できなかった。


 そんなシホの様子を、フィッフスも承知の上なのだろう。あえて何も補わず、代わりのように話し始めた。


「あれはまだ、わたしが旧王国時代の遺跡を回って旅をしていた頃の話さ……」

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