第16話 欲望

 外した仮面が、ゆっくりと手から滑り落ちた。


 クラウスの耳に聞こえ続けていたアンヴィの声は止んでいた。

 耳を塞ぎたくなるような奇声。あるいは嬌声。

 ひどく下卑た笑い声はいま、それまで聞こえていたことが嘘であったかのように、何一つ聞こえなかった。


 クラウスは静寂の中にいた。


 そう、静寂だ。


 クラウスの耳には、あらゆる音が聞こえなかった。近くにいるはずのシホが戦う足音も、息遣いも。死体が這いまわる鈍い音、衣擦れの音も。リディアとローグが激しくぶつかり合う、人知を越えた剣戟も。あらゆる音を欠いた世界の中で、クラウスはただ、正面の床に突き刺さった一本の剣を見つめていた。


 山刀のように武骨で、肉厚で、肘から手首まで程度の長さしかない剣は、妖しい銀光を放っている。あまりにも強すぎる光は過剰であると感じるにも関わらず、なぜか目を逸らせない、誘い、惑わすような美しさを感じさせる。


 アンヴィ。


 クラウスはその剣の名を口にした。そのはずだったが、音の聞こえないクラウスには、自身の声も届かなかった。次第に視界さえ揺らぎ、クラウスに見える景色はその剣と、その剣が放つ光の色だけに包まれた。


「クラウス・タジティ」


 聞き覚えのある声が唐突に聞こえた。だが、この声が、こんな風に落ち着いた声音で話したことは、これまでなかったはずだ。だからだろうか。クラウスはその声に耳を傾けてしまった。


「お前のことは知っている」


 貴様がわたしの何を知っているというのか。


 クラウスは反論する声を上げる。だが、その声はやはり音となっては聞こえない。


「お前の欲を知っている」


 わたしの、欲?


「お前の欲はいい。凶暴で、複雑で、抑圧されて変形し、良いも悪いもぐちゃぐちゃになった、おれが一番好きな欲だ」


 それが、どうしたというのだ……?


「気付かなかったのか? 考えなかったのか? あの日、あの夜、なぜおれが目覚めたのか。おれの魔力に中てられた奴らが動き出したのは、ローグ・バジリスクがおれを運び出す前だったろう」


 確かにそうだ。


 シフォアの夜。


 あの混乱は、ローグたちが作り出したものではない。


 アンヴィを運び出したローグは、突発的に起こった混乱に乗じて、アンヴィを強奪した。


 アンヴィはあの時、既に魔力を発揮していた。


 目覚めていた。


 では、いつ、どの瞬間に、目覚めたのか。


「お前だよ」


 ……わたし、だと?


「お前が半分以上眠っているおれのところへ現れた。最高に複雑な色で輝く欲を持って。そんなものを目の前で見せられたら、嫌でも目が覚める」


 ……何が言いたい。


「協力してやろう、って言ってるんだ。お前の欲の為に。叶えたい欲望が、いろいろあるだろう? 例えばほれ、あの娘のこと」


 クラウスは指し示されたような気がして、右手のほうに視線を送った。そこも白い輝きの中で、初めは何もなかったが、クラウスは視線を送るのを待っていたかのように、様々な映像が流れ始めた。


 それは、全て、シホに関するものだった。


 初めてシホに出会った日の記憶。


 そこから彼女を守って来た日々の記憶。


 次代の『聖女』となった日のシホ。


 そして、アンヴィ発見の報を受けた日のシホ。


「それだけじゃないな。この男のこともある」


 シホの映像が消え、そこにあの忌々しい顔が現れる。

 自分とどこか似ているが、ひどく高慢で、蔑む目を向ける高位貴族の男。


 父だ。


「この男に自分という存在を認めさせたい。そんな望みもあるんだろう? 手を貸してやるよ。お前の欲を満たすことが、おれの糧になる。どうだ、いい取引だろう?」

 

 ……ふざけるな。


「ふざけてなどいない。第一、いまのお前の力で、この先、あの娘を守っていけると思ってンのか? 百魔剣と戦うあの娘を。あの男ほどの力のないお前が」


 父、ジャン・ハミルトンの姿が消える。次に光の中に現れたのは、黒い闇。人を惹きつけるきれいな輝きに、染みのように浮き出し、侵食し、はっきりと、その存在を穿つ、真っ黒な影。その影が、紅い光を振るう。影の動きに合わせて旋回する紅い光は軽やかに、優雅に、シホに迫る敵を斬り落とす。


「お前に、あの男ほどの速さはない。力強さも、魔剣と戦うための魔法の力もない。そんなお前が、いまのままでこの先、戦っていけると思ってンのか!」


 あの夜。


 シフォア神殿の裏庭で、一人、剣を振るったクラウスは願った。もっと速く、もっと強く、と。魔剣を握ったローグはおろか、その仲間だった傭兵にさえ時間を取られた。その弱さ。負けを強く意識した。だからこそ、クラウスは剣を振った。もっと速く、強く、と。


「あの娘を守りたいんだろう? あの男よりも近くで、誰よりも頼られて。で、父親にも自分という存在を認めさせるンだろう? お前の欲望には、力がいる。そうだろう!」


 声は、いつしか荒ぶる、聞き覚えのあるものに戻っていた。


 わたしが、魔剣と戦う聖女の騎士であるために。


「そうだ。お前にはおれの力が必要だ、お前の欲望には、おれの力が必要だ!」


 笑い声。


 耳を塞ぎたくなるような奇声。あるいは嬌声。


 ひどく下卑た笑い声が、再びクラウスの耳を聾す。

 

 ふと、その声に混じって、誰かの叫び声が聞こえた気がした。


「おれを手に取れ。クラウス・タジティ。お前の欲望は、世界を変える」


 クラウスの右手が、自然とアンヴィに伸びた。


 周囲の輝きが強くなったように感じた。


 また、誰かの叫び声が聞こえた。


 今度は先ほどよりもはっきりと。


 絶叫と言ってもいいほどの声。


 誰だ。


 聞き覚えのない声。


 だが、どこかで聞いた声。


 知らない。


 わからない。


 だが、確かにあの声は、わたしを呼んでいる。


「クラウス!」


 アンヴィが叫ぶ。


 クラウスは反射的に、伸ばした右手をさらに伸ばして、アンヴィの柄を握りしめた。

 

 その瞬間、クラウスを包んでいた光が消えた。

 

 アンヴィの声も、消えた。


 その瞬間、クラウスの耳に、アンヴィの声の向こうから漏れ聞こえていた絶叫が、ようやく届いた。


「だめだ、クラウス、触るな!」


 死神の、絶叫。


 そんな声を聴いたことはなかったぞ。


 そう思った。




 それが、クラウスの、最後の記憶になった。

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