第15話 『統制者』

 唐突に、風が吹いた。


 そよ風で始まった空気の流れは、すぐさま暴風に変わった。リディアの、そしてシャーリンの髪をかき乱し、狂ったように踊り靡かせる。


 リディアは、『声』を聴いていた。その声は次第に大きくなっていく。声の大きさに合わせて、風の強さが高まっていく。


 何かが始まる。


 何かが


 その予感だけはシャーリンに伝わっているようで、戦狂いくさぐるいの男の表情には、歓喜の笑みが浮かんでいた。


 後悔するぞ。


 リディアはその表情を見ながら、おそらくこれが、この男の生きている顔を見る、最後になるだろうと思った。事実、思っている間に、リディアの視界はゆっくりとだが暗転を始めている。『声』が大きくなり、四肢の先から感覚がなくなりつつあった。


 その時だ。リディアは『声』を押し退ける強い叫びをその耳で聞いた。


 暗転していた視界が突然、元の宵闇をはっきりと捉えるようになり、四肢の感覚も戻った。同時に襲う全身の傷みは、シャーリンに負わされた裂傷、凍傷、打撲によるもの。全て先ほどまで、リディアが感じていたものだ。


 クラウスさん!


 声は一度だけ。明らかな悲鳴だった。


 シホ・リリシア。彼女のもの。


 リディアの脳裏を、共闘を申し出た時、自分と向き合った彼女の、怯えを隠し切れず震えながら、それでも必死で真っ直ぐ向き合った少女の顔が過った。


 神殿騎士長が倒されたのか。瞬時にして、リディアはその声の理由を感じ取った。そして、その時には、リディアの身体は動いていた。シャーリンを横目に、走り出していた。


 何をしている、とリディアは思った。シホを助ける義理はない。共闘を頼まれたからと言って、そこまでしてやる義務はない。頭ではそう唱えているのに、身体が勝手に動いていく。傷だらけの身体が、何かに駆り立てられるように、シホを助けようと動いている。


 リディアの脳裏を、再びシホの姿が過った。


 いや、これは……


「リディア・クレイ!」


 獣の咆哮のような声が、リディアの耳朶を打った。危険な気配を感じて足元を見ると、そこだけが凍り付いていった。魔剣フェンリルによって氷の塊が打ち出される合図。悟るが早いか、リディアの身体は一歩、その範囲から離れるように動いた。


 きぃん、という甲高い音を立てて、リディアが一瞬前まで立っていた場所に、氷の塊が生まれた。しかしそれは、これまでリディアを苦しめた高速で射出される氷の塊ではなく、巨大な建造物でも支えることができそうな、一本の氷の柱だった。


 リディアは一瞬、目を奪われた。刹那、頭を真横から鷲掴みにされたと思うと、現れた氷の柱に、そのまま叩きつけられた。再び甲高い音を立てて氷の柱が砕け散り、リディアは意識が失われそうになる寸でのところで踏みとどまった。


「てめえ、まだ殺されねえとでも思ってんのか!」


 凍り付いた地面に、粗末なもののように投げ捨てられたリディアは、どうにか起き上がろうと腕に力を込めたが、これまで受けた傷が大きすぎるようだった。白く凍った大地に、赤い血が滲み、それがまるで自分の命であるかのように、赤い染みが大きくなるほど、身体から力が抜けていった。


「もういい。死ね」


 シャーリンはすぐ脇に立っているようだったが、その声もどこか遠く、薄い膜の向こうで話しているように聞こえた。が、フェンリルが振り上げられた気配だけは、妙に鋭敏にリディアの身体に伝わった。


「てめえが死にゃあ『統制者』てえのも死ぬんだろう!」


 ほとんど間を置くことなく、魔剣フェンリルはリディアの身体に落ちて来た。身動きを取ることができないリディアには避けようがなかった。


 


 それがわかっていたからこそ、リディアは『声』にすべてを委ねた。


「なにっ!?」


 シャーリンが驚愕する声がはっきりと聞こえた。しかし、目で見る景色は、まるで一枚一枚、絵をめくっているかように、断片的だ。その断片の中で、リディアはすでにシャーリンから五歩以上の距離を保っていて、振り下ろされた剣を掻い潜り、自分の身体がそこまで移動したことに初めて気が付いた。そしてさらに、リディアの身体は、何も考えていないのに動き出す。負った傷や失った血の量など、まるで何もなかったかのように軽やかに跳躍し、地面に必殺の一撃を突き立て、驚き止まっているシャーリンに向かって、一息で間合いを詰めると、紅い剣を一閃する。


 シャーリンが慌ててフェンリルを引き抜き、応戦する一撃を振る。深い青色をした分厚い刃と紅い剣が交錯し、鍔迫り合いの格好になった。剣の向こうに、シャーリンが驚きを深める顔が断片的に見える。こいつのどこにこんな力が残っているんだ。声には出さないが、その顔がシャーリンの思っていることを語っていた。

 

 そうだろう。


 そうだろうな。


 リディアはまったく他人事のようにそう思った。事実、この戦いは、リディアの意識の中で、すでに他人事になるつつあった。四肢からは感覚がなくなり、全身を苛んでいた痛みも消えた。


「ワレ……ソ……肉体……テ」


 自分の口から、自分の声で、何かの言葉が紡がれている。それはわかるのだが、何を紡いでいるのかはわからない。リディアの意識は次第に闇に閉ざされていく。


「がああああ!」


 怒声を上げながら、シャーリンが力任せにリディアの身体を押し退けた。身軽に宙を舞う間も、リディアの口からは、まるで何かの呪文を唱えているかのような、一定の調子を保つ言葉が流れ続ける。


「『統制者』……イ……タイ……ならん!」


 両の足が地面に付いた瞬間、再び発生源のわからない暴風が吹き荒れ、リディアは宙に舞った。その身体の感覚は、もうほとんど自分ではわからなくなっていた。


 飛び上がって上段に構えたらしい剣を、シャーリン目掛けて振り下ろす。シャーリンは迎撃の剣を打ち出すが、その大剣を、リディアの紅い剣は力任せに打ち落とした。


 おそらくシャーリンの予想以上の力だったのだろう。不覚に剣を取り落としたシャーリンに、リディアの身体は着地と同時に、剣を突き出した。


 シャーリンはそれを、ほとんど反射の領域で、身体をひねって躱してみせた。戦狂いの本能がなければ、決してできないだろう避け方だった。が、それで傷を負わないで済むのは、


 リディアの身体はシャーリンに突きを避けられた、と思うより速く、シャーリンに身体ごとぶつかり、シャーリンの右腕に


 シャーリンが驚きとも、苦痛とも取れる叫びを上げた。シャーリンの左手が拳を作り、リディアの顔面を打ち付ける。きゃん、とまるで獣のような声を上げて吹き飛んだ身体を、リディアは器用に反転させて着地し、すぐに立ち上がった。


 口の中が、濃い血の味で満たされていた。鉄のような臭いが鼻を突く。


 ごりっという感触が歯に当たり、リディアはそれを吐き出した。シャーリンの衣服と、噛み千切った腕の肉が、ぼとり、と落ちた。


 自分の長い黒髪が、ゆらゆらと逆立っているのがわかる。血の気の失せた青白い顔に、口元を汚したシャーリンの血だけが、おどろおどろしく映えることだろう。冷や汗と、恐怖と、それでも圧倒的な強者に出会えた歓喜を浮かべる戦狂い、シャーリン・ティネットの表情を見れば、それがわかる。


 そして、そのシャーリンの顔が暗転し、リディアには見えなくなった。


 その時が、来たようだった。

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