見えない存在
青羽パラグライダースクールに到着した剛司達は、申し込みをした朋が手続きをしている間、プレハブ小屋の近くで待っていた。剛司は今日も皆との思い出の靴を履いている。前回飛んだ時に靴紐を確認していなかったこともあり、今回はその意識が剛司の頭の中を徘徊していた。
「あの、剛司君……」
「何?」
「その、今日も手を……握ってもらってもいいでしょうか?」
「う、うん。いいよ」
剛司は右手を差し出した。憧が後から自らの左手を絡める。
「ありがとうございます」
憧は躊躇うことなく剛司に笑みを見せた。
「なあ、あの二人。もう完全に付き合ってるよな?」
「自分も異論はない」
亮の問いに光も首を縦に振った。剛司の後方からわざと聞こえるように話す二人を、剛司は顔を赤く染めながらも無視し続けた。
暫くして朋と一緒に青羽がプレハブ小屋から出てきた。
「おっ、久しぶり……っと言っても一週間ぐらいしか経ってないんだよな」
「あ、青羽さん。今日はありがとうございます」
剛司は憧の手を引いて、青羽の所へと近寄った。
「おっ、剛司君……って、その可愛らしいお嬢さんは?」
「は、はじめまして。空美憧です」
憧は青羽に向かってお辞儀をする。
「今日、一緒にパラグライダーをやる友達です」
「なるほどね……そうかそうか」
青羽はしきりに頷くと、剛司の肩を二、三回叩くと笑みを見せた。
「いやーこれぞまさに青春だな」
「せ、青春ですか?」
「おう。俺も昔、友恵に空の楽しさを知ってもらいたくて、パラグライダーを勧めたんだよ。まさか剛司君も俺と同じ道を進むとは」
「ち、違いますから。今日は憧が――」
「ん? 名前呼びとは。これはもうできてる?」
「ち、違いますよ。今日は彼女も空を飛びたいと言ったので、一緒に飛ぶんです」
剛司の対応に不満でもあったのか、憧は力強く手を握ってきた。
「あ、憧?」
「……なんでもありません」
少し不機嫌な憧の心理を理解できないままの剛司だった。
「からかうのは、ここまでとして……空美さん?」
「は、はい」
憧は剛司の手を握ったまま青羽の方に身体を向ける。剛司も青羽を見据える。
「パラグライダーは初めてかな?」
「……はい。初めてです」
「空は好きかな?」
「それは……」
青羽の問いに憧は応えられず、言葉に詰まった。
憧は高所恐怖症で空を飛ぶことができない。
そんな憧に対して、その質問は不味いのではと剛司は思う。
「……好きですけど、嫌いです」
憧はあいまいな返答をした。青羽は憧の反応に目を丸くしてから、笑みを見せた。
「そうか。もしかして、高い所が怖かったりする?」
「……は、はい。そうです」
まるで憧が飛べないのを見透かしているように話す青羽に、剛司は驚かずにはいられなかった。
「大丈夫。空はみんなの味方だから。俺達が空に歩み寄れば、空は必ず応えてくれる。そして素晴らしい世界を見せてくれる。だから緊張せずに空を楽しむ気持ちで。素晴らしい名前を持っているんだから」
「な、名前……」
青羽は憧に笑みを見せると、ドライバーの深川の元へと駆けて行った。
青羽の声がけは、憧に勇気を与えたと剛司は思った。
自らの名前を嫌いと言っていた憧だったけど、剛司も良い名前だと思っている。
今日、パラグライダーで空を飛ぶことで恐怖心を忘れてくれたら、憧は自分の名前を好きだと思ってくれるのかもしれないと剛司は思った。
「憧、大丈夫?」
剛司の問いかけに、憧はぎゅっと手を握ってきた。
「大丈夫です。皆さんがついているので」
「うん。飛ぼう。青羽さんに任せれば、大丈夫だから」
剛司は憧の手を引いて、深川の待つ車の方へと向かった。
「久しぶりね、剛司君。それとはじめまして。空美憧ちゃん」
深川の運転する車を降りた剛司達は、テイクオフポイントで待っていた
「は、はじめまして」
憧は深くお辞儀をする。手を繋ぎっぱなしだった剛司もつられてお辞儀をした。
「二人とも仲が良いのね。手を繋いじゃって」
「こ、これは……」
「剛司君が、私に力をくれるんです」
動揺する剛司に対して、憧は堂々たる態度で友恵に応えた。
「憧ちゃんの気持ちわかるわ。握手って相手の思いが伝わるものだからね」
二人の繋がれた手を見ながら、友恵は続ける。
「手の温度だけで、相手の考えている事がすべてわかってしまう。握手っていろんなところで見られる光景だと思うけど、言葉よりも身近なコミュニケーションなのよ」
友恵の言っていることは、昨日剛司が憧と一緒にいた時に感じたことそのものだった。手を通して伝わってくる気持ち。偽りではない感情だったことに、剛司は頬を緩める。
「憧ちゃんって、飛ぶのって怖いかな?」
「……はい」
「そう。でも、隣にいる剛司君も最初は怖がってたのよ」
「えっ!」
「ちょ、友恵さん」
茶化してくる友恵に剛司は赤面した。憧は驚きつつも、その様子を面白そうに眺めている。
「だから憧ちゃんも大丈夫。剛司君を信頼しているなら、怖くないはずだから」
「……はい!」
「よし。いい笑顔ね。私、機体のチェックしておくから。ちょっとそこで待っててね」
笑顔の憧を見れたことにほっとした友恵は、機体の準備に取り掛かっている青羽や新見の元へと向かって行った。
もうすぐ憧も空を飛ぶ。そう考えるだけで、剛司は自分のことのように嬉しくなった。
「あの、剛司君」
「何?」
「その、剛司君も怖かったって」
あまり聞かれたくないことをだった剛司は少し動揺するも、憧に話そうと腹を決めた。
「友恵さんの言ってた通り、僕も怖かったんだよ。目の前の傾斜を見て足が
剛司が指で目の前に広がる傾斜を指さした。
最初はなだからな緩勾配が続いているが、ある場所を区切りにその緩勾配が急勾配に変わっている場所がある。
「今日憧も体験すると思うけど、地面から足が離れてもずっと走り続けるんだ」
「そ、それって……」
憧が繋いでいた手に力を入れてきた。ほんのりと冷たい。憧の緊張がダイレクトに剛司に伝わる。
剛司は憧の思っていることを言い放った。
「うん。空を駆けるんだ。地面に足がついてなくても、ずっと空を駆けぬけるつもりで走る」
「む、無理ですよ。上手くできなかったら落っこちてしまいます」
憧は恐怖に怯えていた。
一歩間違えれば、崖下に落ちることになる。
剛司が思っていたことと全く同じだ。
「そうだね。だから今、落ちないための準備を青羽さんや友恵さん達がしてくれてるんだ」
剛司は青羽達が準備している機体を指さす。
「魔法使いが空を飛ぶときに箒を使うように、パラグライダーはあの機体で空を飛ぶんだよ」
正直、剛司はパラグライダーが何で飛ぶのか全く理解していなかった。
用意してもらった機体で空を飛ぶ。
パラシュートみたいなもので浮くことができる。
そのくらいの知識しか持ち合わせていない。
だから剛司は、自分の知っている言葉で憧に伝えることしかできなかった。
「でも、いくら準備をしても僕達もやらなきゃいけないことがあるんだ」
「やることですか?」
「うん。それは――」
「走ることだな」
「あ、青羽さん」
いつの間にか青羽が剛司達の前に戻ってきていた。青羽は続ける。
「俺達インストラクターは、来てくれたみんなを空に導くのが使命だと思ってる。気候の影響で飛べない時もあるけど、飛べない奴はいない。だからみんなには、精一杯走ることだけを考えてほしいと思ってるんだ」
「走る……」
憧は傾斜を見つめていた。剛司には憧が何を考えているのかわからなかった。だけど、剛司は憧なら絶対に大丈夫だと思った。何故なら、冷えていた手がいつの間にか剛司と同じくらいの温度にまで戻っていたから。
「頑張ります」
憧の返事に青羽は笑みを見せる。
「よし、頑張ろう。空美さんに説明しようと思ってたけど、剛司君がほとんど説明してくれたみたいだし、大丈夫だな」
落とし物だけ気をつけて。と声をかけた青羽は最初に飛ぶ光の元へと向かった。今日の順番は剛司が最後に飛ぶことになっている。一つ前に憧が飛び、その他は前回と同じ並びだ。
「青羽さんっていい人ですね」
「うん。僕もそう思う」
ちょっと言い方が雑な感じもあるけど、常にフランクな対応をしてくれる青羽の行動は、剛司にとってとても頼りがいがあった。憧もおそらく同じ気持ちを抱いていると剛司は思う。
「さあ、天堂君が飛ぶよ」
「は、はい」
二人の視線の先には光と青羽の姿があった。準備が整い、後は飛ぶタイミングを窺っているみたいだ。
「よし、走って」
青羽の合図と共に光が一気に傾斜を駆け下りていく。目の前で繰り広げられる光景に、剛司は以前感じることのなかった安心感を抱いていた。
一回目と二回目。
その違いだけのはずなのに、感じる思いが全く異なっている。
前回は不安で仕方がなかった。他人の飛ぶ姿を見ても、ずっと不安に駆られっぱなしだった。それに比べ今回は、早く自分が飛びたいとうずうずしている。青羽が言っていたパラグライダーの味を知ってしまったせいだ。剛司はこんなにも魅力あるスポーツに出会えたことがとても嬉しくなる。
光と青羽は緩勾配から急勾配にさしかかり、そして気づいたときには空を飛んでいた。前回と同じように、失敗もなく見事に一回で飛び立った。
隣の憧はどう思っているのだろう。気になった剛司は憧の方に視線を移した。
「すごい……」
小さく呟いた憧は、遠ざかっていく光と青羽の姿をずっと見続けていた。パラグライダーは鳥のように飛ぶことができる。それを少しでも憧が感じてくれたのならと思う剛司だった。
憧の順番はあっという間にやってきた。三人目で飛んだ亮は青羽と飛ぶ予定だったが、憧が青羽と飛びたいと言ったため、亮は新見と一緒に飛んでいった。前回三度のスタ沈を経験していた亮は一回目で飛ぶという奇跡を起こしてくれた。青羽や友恵も、亮が一回で飛んだことに関して驚愕の表情を見せていた。
「スタ
「憧ちゃんがいるからよ。きっと」
青羽と友恵の会話は、亮には聞かせてはいけないと思う剛司だった。
「さあ、次は憧ちゃんね」
「はい。頑張ります」
友恵は憧に声をかけると青羽の方に駆け寄り、再度機体の準備に取り掛かる。
「剛司君」
憧がぎゅっと手を握ってくる。その手はいつの間にか冷たくなっていた。
「大丈夫。憧は飛べる。怖くない。絶対に大丈夫だから」
声をかけることしかできない剛司は、そのまま憧の手をぎゅっと握った。
頑張れ。絶対に飛べる。その思いを剛司は自分から発せられる熱で、憧の手に送り込む。
「……うん。行ってきます」
憧の手が剛司の手をすり抜ける。剛司の手から冷えた感触がなくなった。
憧がついに空を飛ぶ。
恐怖で塗り固められた心を塗り替える絶好のチャンス。
パラグライダーというものに出会っていなかったら、剛司は何もできずに憧のことを口でしか慰めることができなかったと思う。
だけどこうして憧は今、飛ぼうとしている。
自らのしがらみを全て捨て去り、恐怖心に打ち勝つために挑もうとしている。
剛司もこのパラグライダーで変わるきっかけをもらったと思っていた。だからこそ、憧にも何かしらのものをもたらしてくれるはずだ。
そう期待している剛司がいた。
しかし、目の前の光景に剛司は渋面を作った。
憧が急に歩みを止めてしまったのだ。
どうしたのだろうか。
やはり怖くなってしまったのか。
憧はずっとその場に佇むだけで動こうとしない。
その時、準備を終えた友恵が憧の元へと駆け寄ってきた。
友恵なら憧の不安を取り除いてくれるはず。剛司がそうだったように、勇気を持たせる言葉をかけてくれる。剛司はどこかでそう確信していた。
しかし友恵は憧の横を素通りすると、何故か剛司のもとへとやって来た。
どうして憧に話しかけないのだろう。
そんな剛司の疑問を吹き飛ばすくらいの一言を、友恵は発した。
「剛司君、憧ちゃんってどこに行ったの?」
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