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彼は自分が口にしたばかりの言葉を反芻していた。
——弥絵のほうが大事。
それは決して嘘ではない。が、妹にいい顔をしようと媚びてしまったことも事実だ。
隣の布団で寝息をたてている妹を眺めた。下がった毛布を肩にかけてやる。
彼も自分の布団にもぐりこむと、部屋の明かりを落とした。
妹をいちばん大事に思っているのは本当だった。彼女は両親が自分に託した宝物なのだ。大切でないはずがない。歳を重ねるにつれ、弥絵の顔には母親の面影が見え隠れするようになってきた。本人に告げたことはないが、日々の成長を心から楽しみにしている。
宣子を含め三人で過ごす時間に、妹はつまらなそうな顔を見せるようになった。宣子への遠慮なのか嫉妬なのかは判らない。大人になってきた証拠なのかもしれない。新しく赴任してきた医師に見せる弥絵の表情は、兄の目から見ても新鮮に映った。
……もう子どもじゃないんだな。
少し寂しくもある。父親の気持ちとはこんな感じなのだろうか。
彼は暗闇で目を閉じたまま、宣子のことを想った。
ふたつ年上の恋人。綺麗な長い髪と小さな顔、少し高い声、白く柔らかな身体。たまに見せる昏い瞳と心の暗渠。
可哀想に思う。いい子なのに、罪もないのに、彼女は追い詰められている。できることなら自分が救ってやりたい。
この村に来た当初から較べると、彼女はだいぶ恢復してきたように思う。
宣子が集落にやってきた翌日、彼は引っ越しの手伝いに駆り出された。彼女が自宅のドアを開けたときのことを、いまでも覚えている。
綺麗な女性だと思った。
いつもどことなく怯えている理由を知ったのは、だいぶ時間が経ってからだ。それ以前から、閉じた世界で内側だけを向いているような彼女のことが気になっていた。暴力的なほどの引力で惹かれた。
彼女がそばに来ると緊張した。感じたことのない欲望が内に沸いた。
集落には同年代の女性などおらず、知り合う機会もなかったから、はじめのうちは単純な情欲なのだろうと思っていた。きっとどんな女にでも同じことを感じるのだろうと。
高校時代の友人と市街で待ち合わせたときに、相手が連れてきた女の子と遊んだことがある。思っていたよりも心は浮き立たず、相手と宣子を無意識に較べていることに気づいた。そのとき、宣子は特別なのだと悟った。
次の日、選花場で宣子と会った。ひどく暑い日で、彼女は薄着だった。見え隠れする素肌から洋服の中身を想像してしまい、彼は自己嫌悪に陥った。
宣子は次第に心を開いてくれていた。それに気づいていたからこそ彼は自分を責めた。彼のしたいことは、おそらく彼女を傷つけることになるだろうから。
彼らがお互いに繋がったのは、その半年後のことだった。
それは傷つける行為ではなく癒しあう行為なのだと、ふたりは同時に理解した。
僻地に生まれ、容易く脱出することも叶わず、彼は親を恨み、自分を呪っていた。
小さな世界で、ふたつの小さな手が、等しく自分の手を求めていた。
弥絵、そして宣子。
妹は兄を選べない。親を選んで生まれてくることができないのと同じで、きょうだいも選ぶことはできない。弥絵は彼のほかに頼る手を知らなかった。決して離してはいけない手だった。
宣子は彼を選んでくれた。なんの取り柄もない彼を抱きしめ、愛してくれた。
忸怩たる生活の中で、自分がひと並みに他人を愛せることを知った。彼女が教えてくれた。小さな村で必死に働き日々を生きる、いまにも消え入りそうな自分が決して無力なだけの存在ではないと。
実直に彼女を愛して、小さな笑顔を与えてやることができるのだと。
彼はこの集落を離れるつもりでいた。もちろん妹を連れて。
計画は数年がかりで進んでいたが、途中で宣子という名の不確定要素が加わった。
彼にとって自分のことは二の次だった。弥絵をひとりだちさせて、幸せを追うならそのあとだ。
宣子は、待っていてくれるだろうか。
眠りに落ちる寸前、隣で眠る妹の寝言を聞いた。
……せんせいの、ばか。
どんな夢を見ているのか想像がつかないが、あの医師が登場しているのだろうか。
杉本は遠からず兄妹の前から姿を消すだろう。
そのときに妹が辛い想いをしなければいいが。
できることなら、いまの平穏がずっと続くといい。
愛する者が幸せでいられるようにと、彼は願った。
……どうか幸せに。
いつまでも。
goodbye,pain.
THE END
サヨナラペイン 姫野なりた @himeno_narita
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