17-7
「……え、名字変わるの?」
「そういうことになるね」
「篠沢じゃなくて三角になるんだ……」
意外な感じがした。高慢なあの男が、自分の名前を変えるなんて。
「じゃあもう篠沢ってひとはいなくなるんだ」
厳密な意味でそういうことではないと知っていたが、そんなふうに考えると胸がすく。
まるで、なにもかもが変わってゆく合図のように感じた。
彼女は目を伏せた。
「……じゃあ、行ってもいいかなあ。式……」
弥絵のひとことに、杉本は嬉しそうな声をあげた。弥絵にもそれが嬉しかった。
「ほんと? 喜ぶよ綾さん」
「……どうかな」
「浪岡も来るよ」
「ほんと? 会いたいな」
彼に会うのもしばらくぶりだ。
流れる春の空気はとても緩やかで、甘い。次第に穏やかな気分になる。心がほどけて、つい口も軽くなる。
「医師はあたしに甘いよね」
「え?」
「いつも、わがまま言っても許してくれるし」
「えーと……聞いたことないよ、弥絵ちゃんのわがままって」
ちらりと見ると、彼は困惑の表情を浮かべていた。
「働きたいって言ってるのに、大学行きなさいって言うし」
「……行きたくないの?」
「行きたくなくもないよ」
彼は複雑な顔で考えこんだ。
「なくもないって……どっちなんだ。あ、行きたいのか」
杉本は横に座る弥絵の顔をじっと見た。近すぎる顔の位置に狼狽していると、彼女の前髪についた桜の花びらを、そうっと指で取った。
手のひらにのせた薄桃色の花びらを見つめ、彼は淡々と言った。
「出て行きたいなら、僕には止められないけど。弥絵ちゃんがよければ、ずっとあの家にいていいんだよ」
「……迷惑じゃない?」
杉本は心底驚いたような顔をして、弥絵の不安な言葉を否定した。
「全然だよ、なに言ってるの。なんだ、そんなこと思ってた?」
弥絵が頷くのを見て、彼は脱力したように肩の力を抜いた。
「誤解だよ。逆に、出て行きたいと思ってるのかって、僕は落ち込んでいたよ」
「そんなこと思ってないよ……ごめんね」
よかった、と彼は笑った。
「美味しいごはんを、ずっとつくってほしいと思ってるよ」
「家政婦ですか」
それでも別にいいけれど。ああ、なんだか泣きそうだ。
杉本はそんな弥絵を見て、必死にぶるぶると首を振った。
「違うよ、そうじゃなくて」
「なに」
「……いや、こんなこと言っていいのかどうか」
「なんで。言ってよ。言ってくれなきゃ判んないよ」
さっき同じことを医師も言っていたな、と思い出す。
杉本は困ったように笑った。
手の中の小さな花びらを手放して、静かに言った。
「弥絵ちゃんが可愛いから、一緒にいてほしいってこと」
ふたりは手をつないで、同じ家に帰った。
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