17-3

 弥絵は春の空気を大きく吸い込んだ。強風が吹いてきて目に砂が入り、ぱちぱちと瞬いた。涙が出てくる。

 適当に歩いていたら、桜が綺麗な森林公園の前を通りかかった。森林とは名ばかりで樹木は少なめだが、彼女の故郷と較べてはいけないのかもしれない。

 少し休んでいこうと、弥絵は公園内に足を踏み入れた。

 芝生広場を眺められるベンチに座り、ため息をついた。

 ——最近、医師との喧嘩が深刻になってきた。そう思っているのは弥絵のほうだけだろうか。

 彼は自分に甘すぎると思う。今日だってきっと自分が悪かった。自分の無力さに苛立って、杉本にやつあたりをしたようなものだ。

 悪いことをしたときには、叱ってほしい。彼は弥絵を叱らずに、ただ哀しい顔をする。それはそれで心に痛く、自分で反省することも多いのだけれど。あの顔はもしかしたら、しつけの一環なのだろうか。

 叱られたいと言ったら、贅沢な悩みだと同級生の日葉には一蹴された。

 でも、いくら言葉を尽くして説明しても、他人には理解できない気持ちだと思う。自分にだってふたりの関係がよく判らないのだし。

 杉本との共同生活は、診療所にいた頃とほとんど変わりがないように思えた。高校に通うかたわら弥絵は家事をして、杉本は仕事に出かけてゆく。夜は同じ家の別の部屋で眠った。ごはんはたいてい一緒に食べた。弥絵のほうは、ほどよい距離感で過ごしているつもりだった。

 しかし、数か月前のことだ。

 ふたりで外食に出たときに、レストランで杉本の知り合いと会った。身なりのよい妙齢の女性が数人。若いわりに、一様に化粧の濃いひとたちだった。杉本との関係は知らない。離れた場所で、こちらを見て喋っている彼女たち。挨拶は済ませた後で、杉本はそのとき電話で席を立っていた。ひとりでフォークを動かしていた弥絵の耳に、陰口がすうっと入ってきた。

 「独身なのに子供の面倒をみなきゃいけないなんて。医師はお気の毒」

 食べているものの味が判らなくなった。

 実際は、そんな言葉を使われたわけではなかった、と思う。イメージにマイナスの補正がかかっているのだろう。しかし内心ずっと気にかけていたことだっただけに、その指摘はかなりこたえた。

 自分は杉本に迷惑をかけているのだ。

 見たところ彼には恋人がいない。もう、三十半ばに手が届くのに。たぶん自分のようなお荷物がいるから彼女をつくることができないんだ、と弥絵は思っていた。毎日仕事は忙しそうだけれど、彼はお金持ちだ。女の人が寄ってこないのはおかしいのではないか。わざと遠ざけているのではないか。

 単に彼はもてない、という可能性を、弥絵は見逃していた。そうは思えなかったからだ。彼は純朴で思いやりがあって優しくて、つまりはとても、いいひとだった。

 居候して家事を手伝っているだけの自分は、ただの厄介者にすぎない。

 ごはんが美味しいと言ってくれるのは嬉しい。でも、弥絵の腕前程度の料理なんて、正直なところ誰にでもつくれると思う。

 杉本が自分のことをどう思っているのかは、判っているつもりだった。彼は孤独な境遇の自分に同情してくれている。そして、亡くなった兄との約束を律儀に守ってくれている。

 ただ、それだけのことだ。

 だから、早く彼のもとを離れてあげたほうがいいのだ。

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