14-2
紅い花に四方を囲まれた温室の中。生暖かい空気と芳醇な香気。
これがペインの毒素なのかしらとぼんやり考える。嫌悪感が薄く広がるが、怖いとは思わなかった。
土床の通路にうつぶせで転がる篠沢を見下ろし、宣子は感情の抜けた声でつぶやいた。
「時間がないの……早く起きて」
誰かに見つかる前に、すべてを終わらせてしまいたい。
ここまで男を引きずってくるのは大変だった。宣子は温室で事を済ませるつもりでいたのに、綾は待ち合わせ場所に選花場を指定してしまった。思ったよりも動揺が激しかったのだろうか。怯えさせるつもりはなかったのに、申し訳ないことをした。
選花場に現れた篠沢を暗闇の中で殴り、意識を失わせた。
血の気を失った綾をふたたび車に乗せて、戒めをほどき、森の中に放り出してきた。解放したのは診療所と温室のほぼ中間地点だった。道を間違えていなければ、そろそろ診療所に辿り着いてしまうかもしれない。彼女が医師たちに助けを求め、戻ってくる可能性は高かった。
——早く済ませよう。
靴を履いたつま先で、男の腰骨のあたりを蹴った。それでも起きなかったから、もういちど。もういちど。何度も蹴った。
宣子はしゃがんで、篠沢の乱れた髪を掴んだ。そのまま持ち上げて離すと、頭が床に落ちて鈍い音をたてた。眼鏡が外れて地面に転がった。
喉の奥で低く鳴らされるうめき声。
宣子は両手で彼の身体を押し、ひっくり返した。あお向けにされた篠沢は顔を歪め、身体を動かそうとした。両手両脚を縄で縛られているため、もぞもぞとした動きになった。
それでも目を開けない男に宣子は苛立った。
「起きてって言ってるでしょ」
平手で、頬に一撃を加える。力任せに殴ったせいで、宣子の右手は熱く痺れた。
篠沢は焦点の定まらない顔で、ようやく目を開いた。
自由に身動きができないことに気づくと、凶猛な顔で彼女を見上げる。
「……なんだ、これは……。おまえがやったのか? いますぐにほどけ」
彼が本気で怒った顔を見るのははじめてだった。思い通りにならないことなどこの村ではひとつもなかった、だから彼は怒る必要がなかったのだろう。
憎悪の籠った眼差しで睨まれても、宣子は眉ひとつ動かさなかった。
「どうして、一志くんが死ななきゃならなかったの」
静かに彼女は問うた。
「……なにを言ってるんだ?」
篠沢は怪訝そうに問い返した。どうやら、質問の意味が理解できないらしい。もういちど殴りたくなる思いをこらえて、宣子は口をひらいた。
「この花に毒性があるって、本当なの」
数秒間の沈黙の後、篠沢は肯定した。
「いまさらなにを……公然の秘密だろう」
何食わぬ顔で言う彼に対して、怒りが喉元までせりあがってくる。
「わたしは……知らなかった……」
「そうか」
関心のなさそうな相槌だった。
「それとこの状況と、どう結びつくんだ。なんだって俺は縛られてるんだ? 頭ががんがんする……さっさとこれをほどけ」
「一志くんが死んだのはあんたのせいでしょう!?」
「本気で言ってるのか」
呆れた口調が、ますます宣子の怒りに火をそそぐ。
「俺のせいだと思う理由が判らない。言ってみろ」
「あんたが危険な仕事に就かせたから!」
罵られても、篠沢は平然としていた。
「この村での収入源はあれに関わることだけだ。それは知ってるな」
落ち着いた声で続ける。
「報酬の高い職を選んだのは一志自身だ。誰も強制などしていない」
彼の台詞は真っ当な論理に聞こえ、宣子は予期せぬ悔しさを味わった。
「おまえだって望んでここに来たんだろう。居場所のない人間が集まって、生きるために花を売る。ここはそういう土地なんだ」
それは間違いではなかった。宣子自身、この男に仲立ちされて森へとやってきた。強制されたわけではない。家族を捨てて逃げ出したい、自立したい、派手な生活は望まない、だからこそこの土地を選んだ。
「わたしは確かに、自分からここに来た。でも一志くんは望んでいたわけじゃない……」
「突き詰めれば上条の親が選んだことだ。親父が死んだあと、兄妹が村を出て行くなら俺は止めなかった。留まることを選んだのは一志なんだぞ? 俺となんの関係があるんだ」
突き放すように言われ、宣子は唇を噛んだ。
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